第15話


「丘」


僕が佐々木だったらこんなロマンチックなシチュエーションで歯の浮いた決め科白で女を落とすのだろうけど、つきあって六年も経つ彼女に今更自分らしくない言葉を吐いても良からぬ何かを企んでいるのだろうと思われるのが関の山だ。

だから単純に「結婚してください」と言うつもりだったが、その一言が喉につっかかって出て来ない。

遙は水平線の夕陽に心を奪われているように見入っていて瞳を輝かせていたから、僕は何だかいたたまれなくなって思わず別の言葉を口にだしてしまった。

「ちょっと、違うな」

「なにが?」

僕は何の計算も無しに正直に言った。

「少し、小さい」

遙はきょとんとした顔で「なにが小さいの?」と言った。

僕は両手の親指と人差し指で輪を作り、夕陽をその中に入れた。

「俺の田舎の夕陽はもっと大きい。それに、もっと、紅い!」

遙は疑いの眼で僕を見た。

「どうしてそんな嘘言うの?」

「嘘じゃないよ。ほんとうさ」

「そんな訳ないじゃない。どこだって太陽の大きさは同じでしょ」

「いや、ここより俺の田舎の方が確かに大きい」

「嘘よ」

「じゃぁ、一緒に見に行こう。論より証拠って言うだろ」

遙は僕の言葉の意味を直ぐに理解したようだった。

「うん」

「盆休みに、俺の親父とお袋に会ってくれるか」

差し出した指輪を胸に抱き目尻に雫を抱きながら大きく頷いた。


僕の幸せの量は、恐らくそのとき、満タンになってしまったのかも知れない。

だけども遙にとって、心の中にある鍵の掛かった箱を開けなければ幸せは満たされることは無いと僕は思っていた。

その箱を開けるのは誰でもない、僕しかいないと、まだ青臭い使命感に酔っていた。


「夕景」


中学二年の夏。

母は手紙を残して何処かへ行ってしまった。

学校から帰ってきた私に祖母はその手紙をテーブルの上に投げ捨てて、いかに母がだらしのない人か散々悪態をついた後ソファから立ち上がって部屋を出て行った。

(きっと迎えにくるから、それまでいい子で待っていてください)

私は母の残り香を胸に染み込ませ、机の奥に締まった。

いつか迎えに来てくれる。

息苦しい一ノ瀬の家から連れ出してもらえる。

そう思い続け、信じていたけれどとうとう母は私の前には現れなかった。

電話も手紙も寄こしてくれないまま。

そして私はやがて、芽生えた母への憎しみも思い出も総て胸の奥底に仕舞い込んだ。


「明日、遙のお母さんの所へ挨拶に行きたい。朝の九時に迎えに行く」

健一郎さんから電話でそう告げられたとき、私はどうしていいのか分からなくなってただ「はい」としか言えなかった。

内縁の夫のあの人の願いを何度も断って二度と母に会うまいと誓っていたし、今更母を赦す事など到底出来ない。

いいえ、それより、もし母に会ったときに、私の奥底にある憎しみがむくむくと膨れあがって私を支配してしまうのが怖かった。

そんな醜い姿を、健一郎さんに見せたくは無かった。


翌日の朝、まだ支度をしていなかった私に健一郎さんは何時にない厳しい表情で叱った。

「一緒に行くんじゃないのか」

絶対に母には会いたくないという気持ちと、僅かにある裏腹な気持ち。

もう過去の事と割り切るのが大人と言うものかもしれないけれど身体がどうしても動かなかった。

そして健一郎さんならきっと私の気持ちを分ってくれるに違いないという甘え。

「行きたくない。あの人になんか会いたく、ない」

私の中の湖がさざめいて大きな波が打ち寄せる。

朽ち果てようとしていた杭は依然として立ちはだかり、波は渦を巻いた。

その杭を健一郎さんは抜いてくれようとしている。だけど痛くて、苦しい。

「君もやがて母親になるんだよ」

その時、その言葉の意味を私は深く理解しようとはしなかった。

「分った。俺、一人で行ってくる」

健一郎さんはそういい残して乱暴に部屋の扉を閉めて出て行った。



「丘」


なんては僕は駄目な男なんだと、遙のアパートをでて歩道を歩きながら自分を詰った。

別に涙を流しながら和解して欲しいなどと思ってはいなかった。

ただ、たった一人の親の存在を認めて欲しかっただけだ。

そして僕と結婚することを遙の口から母親に告げて欲しかっただけなのだ。

心の中に渦巻いているわだかまりを消すことが出来るのは僕ではない。

それができるのは「時間」だけだ。僕はその切欠さえ作ってやる事ができなかった。

固く閉ざされた箱を開けるのは僕しかしない?ふざけるな!

本当に僕は、駄目な男だ。


電車を乗り継いで保土ヶ谷に着いた。住宅街を歩きまわり漸く木村と書かれた表札の家を見つけた。

玄関先は奇麗に掃かれていて、プランターの白い小さな花の群衆はこぼれ落ちるように咲いていて、傍らの朝顔は細い棒に絡まりながら蕾になってうな垂れていた。

呼び鈴を押しても返事がない。扉には鍵が掛かっていた。

僕が途方に暮れていたとき向かいのおばさんが打ち水をしている手を休めて声を掛けてくれた。

「ここの方いま留守ですよ。なにか御用?」

「そうですか。ここは、望さん、木村望さんのお宅ですよね」

「望さん・・・?ああ、奥さんね。でも今入院なさっているから、旦那さんもそちらに行っていると思うけど」

一週間前、遙の母親は階段から落ちて脚を骨折したそうだ。

僕は早速タクシーに乗り込んで病院に向かった。

「木村望さんの病室はどこですか」

受付でそう尋ねると担当の人が頭を傾げた。

「そういう方は・・・、入院しておりませんが・・・」

僕は少し戸惑ったが直ぐに思いたって言い直した。

「一ノ瀬望さんは?骨折して入院しているはずなんですが」

「ああ、そちらの方でしたら」

教えて貰った病室に行って壁のホルダーに差し込まれてある六名分の名札を見たときどうしたものかと暫く入り口の所で立ち尽くした。

遙の母親とは会ったことが無いし、勿論顔も知らない。

しかしここまで来て帰るわけには行かないし、どうにかなるさと意を決して病室入って中を見廻すと窓際のベッドの側に、そう、あの人がいた。

大学一年のとき、歩道橋の下で遙といたあの人だ。


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