第13話
「丘」
遙の元にいつか見た老人が時々訪ねてくることは知っていた。
僕が何気なくその人の事を聞くと遙は途端に機嫌が悪くなって口を利かなくなる。
父親ではないと言った。親戚でもないと言った。
それでは誰なんだと聞くと、僕には関係の無いことだと言う。
僕はその言いように無性に腹が立って怒鳴ったこともあった。
(私には、親はいません・・・)
けれど遙のその言葉を思い出すたびに、僕はつい謝ってしまう。
僕の尺度に当てはめてはいけない。
遙の心の中にある箱には、僕には想像できない苦しく、辛く、哀しい物が詰まっているに違いない。それを知らない限り僕は遙を責める事は出来ないのだ。
しかしその箱は固く鍵が掛けられていて容易に開けられないだろうと思った。
だから僕は大学を卒業した後、故郷には帰らず東京に残った。
遙と出会った時に感じた錯覚は本当になった。
心の箱を開けられるのは僕しかいない、と。
いや、もしかすると、そのときはまだ錯覚したままだったかもしれない。
遙、どう思う?
「夕景」
健一郎さんはやがて故郷に戻ると前々から言っていた。
就職活動の時期が来ても上の空で将来を決め兼ねているようだったから私は不安になって「どうするの?」と思わず訊いた。
その頃には私も常連になっていた近江屋で、健一郎さんはお皿の上のお肉を箸で突付きながら
「うーん」と唸ったきり何も言わなかった。
「あら、田舎に帰るんじゃないの?」
カウンター越しにおかみさんが言う。
私は心臓が止まる思いで彼を見ると、おかみさんは嬉しそうに笑った。
「もちろん、遙ちゃんも一緒にね」
健一郎さんはチラリと私を見た後、一気にご飯を口に入れた。
もしかしたらそれが一番良い選択かもしれない。けれどそう思う反面就職して働きたいという気持ちの方が強かった。
私の中の湖の波紋が歪む。母の、面影。
私は母のような女にはなりたくないという思いだけで生きてきたけど、私が知らなかった古川健一郎という男性の存在でその思いも揺らいでいた。
揺らぐ?それは母が私を捨てた事を許すこと?
母は働いて自分の生活を築き上げるという事を知らなかった。
父が死んで、絶望し、恐らく未来のビジョンを閉ざされたのだ。
私は未来を自分の手で切り開く。そのためには男性に依存しないで生きる場所をこの手で作り上げなければいけない。
だけど・・・。
その時には既に彼が私の傍に居ない生活を考えることができないでいた。
電車で通えるほどの遠距離恋愛ならまだ現実味があったかもしれないけれど、一年で一、二度しか会えない距離は恐らく耐えられない。
選択肢は二つ。
彼と別れる。
彼について行く。私の知らない所へ。
「引っ越すことにした」
健一郎さんが卒業前に突然私に電話をかけてきた。
「どこに?」
「就職、決まったからさ。せめて風呂があるアパートじゃなきゃなぁ。でも、家賃高過ぎるよ、東京は!」
その時の私の気持ちは言葉には言い表せない。携帯電話を軋むほど握り締めた。
でも、今思えば、健一郎さんの気持ちなど考えず、私の事だけ。
そう、自己中心の私の気持ちだけ。
「丘」
大学を卒業して四年が過ぎた。
仕事はとても忙しくて、そして充実していた。
故郷のためにこの仕事が何の役に立つのだろうと思う事もあったが生活の為そして何より遙の傍にいることの方が重要であった。
卒業したと同時に田舎に帰ったら安穏な毎日を暮らせただろう。
何せ、誰でも知っている有名な大学を出た人間ならこんな自分でも簡単に地元の会社に就職できたはずだし、現に親戚の叔父さんがしつこいほどに電話をかけてきた。
忙しいだけの生活なら叔父さんの誘いに乗っていたかもしれない。
けれど、生きているという実感を与えてくれる遙を残して故郷に帰るという気持ちにはどうしてもなれなかった。
この気持ちは理屈なんかではない。
ましてや錯覚でもない。使命感などではない。
ただ単に「好き」になったからだというほかはない。
愛している?
かえってその言葉のほうが空々しい。
一ノ瀬遙という女性に対しては古川健一郎という男しかこの世に居ないのだと確信していたのだ。
彼女もそう思っているはずだ!絶対・・・。
その思いを確かめるために僕は指輪を買った。
でも、どのタイミングで渡したら良いものかと長い間悩んだ。
軟派な佐々木に相談したら色々教えてくれた。
夜景の奇麗なホテルでワインを傾けながら、
沢山のバラの束を車のトランクに詰め、粋な科白を吐きながら、
或いは、横浜の大きな観覧車の中で、
その他もろもろ・・・
佐々木に聞いた僕もバカだったがあいつは本当にそんなことをやっているのだからある意味、尊敬に値する。
けれども僕はそんなキャラではないしどうしたものかと思いあぐねいていたとき、遙の方から切欠を投げかげてくれたのだからこれほど嬉しい事はなかった。それは、
神のおこぼれ?
神のおもしびし?
神の、ええ・・・え?
言葉はどうでも良いが、兎に角、遙に結婚を申し込むことにした。
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