第12話
「丘」
今思い返してみても遥かとの最初のデートは顔から火が出るほどだ。
若くて金が無かったから仕方なかったかも知れないがそれにしても肝心の食事が近江屋って・・・。
確かにあの定食屋はどんな料理より、ん、いや、お袋が作ってくれる料理の次くらい旨いし、社会人になって接待やらなんやで色んな所で飯を食ったが近江屋ほどでは無かった。
あのデートの二日くらい前に悪友の佐々木に流行のデートスポットを紙に書いて貰ったけれど、どれもこれも金が掛かりそうな場所ばかりだし、なにより新しい服も新調できず前の日までその紙を凝視しながら悩んだ。
ふと思い立って押入れの中からお袋から預かった僕名義の貯金通帳を取り出したが、炎天下で汗を拭いながら田んぼの草取りをしている親父と、夜中まで内職をしているお袋の姿が目に浮かんでその金を一円たりとも使う気にはなれなった。
結局僕はその紙をゴミ箱に放り投げて、成るようになれと開き直った。
無理に飾った僕ではなく素の僕に遙が見切りをつけるのであれば仕方ないと、一番イケテルと当時思っていた洋服をクリーニング屋に出しに行ったのである。
当日、街をブラブラし、映画館に入って・・・。何の話をしたのか、これもまた緊張していて殆ど覚えていないが、ただ貧乏ったらしい僕に何も文句を言わずついて来てくれ、更に近江屋の定食をキャベツの千切り一本も残さず美味しいと言って食べた遥の笑顔を見たとき、僕が選んだ人に間違いは無かったとあらためて思った。
そう、近江屋といえば篤志の事を少し書こう。
僕はおかみさんと親父さんは東京の親だと言えるほど慕っていて、その息子であるなら篤志は当然僕の弟だ。
だから彼がぐれた時はおかみさんと親父さんに気兼ねはしたものの黙ってみている訳には行かなかった。
初めてのデートから少し経って遥とまた訪れた時、篤志が店の手伝いをしているのを見て、あの時何を話したのか、何をしたのかしきりに聴いて来たけど本当に何もしていない。
ただ篤志の本音を(多少強引だったけれど)言わせただけ。
その本音がとても素敵な事だと思い、親父やお袋が僕にしてくれたように背中を押してやっただけのことだ。
そして僕は確信していたのだ。
夫婦二人で営む店は一年のうちで元旦しか休まなかった。
盆と正月くらいゆっくりしたら、という僕の言葉に
「なに言ってんのよ。少しでも稼がなきゃどうすんの」とおかみさんは笑い飛ばしていたが、帰りたくても帰れない学生達にひもじい思いをさせたくないという一心だったのだ。
現に僕が一月二日に店に行ったとき「お年玉だよ」と言って金を受け取らなかったのだから。
そうやって一生懸命働いている両親の背中を見て育った子供が間違った道を歩むことなど決してない。
例え家族旅行なんて行った事が無くても、学芸会や運動会なんかに少ししか見に来なくても、絶対子供は分っているはずだと。
篤志はあの時料理人になって自分の店を持ちたい、と言った。
親父さんは元々板前であったから篤志のその夢を聞いたとき鼻で軽くあしらったらしい。
そんなことでへそを曲げる篤志も篤志だか、不甲斐無くて思わず手を出してしまった僕もガキだった・・・。
篤志から三日前に手紙が届いた。
内容は自分の店をもてるかもしれないので、そのときは遥と一緒に最初の客として来て欲しいとの事だった。
かもしれない、などと不確定な事をいう奴ではないからきっと僕の身体具合を心配して勇気づけようとしているのが十分過ぎるほど分った。そして何より、未来に大きな希望と自信を持ち輝いている事が嬉しかった。
でも僕はなんて返事を書こうか随分迷い、そして今日、お袋に手紙を託した。
以下、その返信の要約。
「あのな、お前が店を持つなんて百年早いんだよ。でもチャンスはそうあるもんじゃないし、お前がやれると本当に思うのなら応援するよ。
ただし条件がある。最初の客は僕じゃなく、おかみさんと、親父さんだ。
二人の感想を聞いてそれから馳走に伺うことにする。勿論、遥と二人で。その日を楽しみしているよ。」
篤志が作った料理を遥と僕と食べている光景を想像したとき胸が熱くなった。
嘘を堂々と書くのもいいものだ。
生きたいという理由がまた一つ増えたのだから。
僕はその理由をもっと増やして行く。
そうする事で神様は残り少ない僕の時間を少しだけ長くしてくれるに違いない。
僕は、そう信じる。
「夕景」
いつもさざ波が立っていた私の中の湖は健一郎さんと過ごす内に少しづつ静かになり、
いつの間にか鏡のような水面に青い空を映していた。
けれど時々小石を投げ込む人がいる。
そうすると同心円状に広がる波紋は湖の中に突き刺さっているたった一つの杭に阻まれて歪な模様を作り出す。
その度に忘れようとしていた杭の存在を思い出し、陰鬱な気持ちにさせられる。
その人は会うたびに老いていて、母も同じように小さくなっているのかと思うと更にやりきれなくなって、その人の言葉を聞き流し、無視する他に術はなかった。
その頃の私は充分大人だったからその人の事を怨むつもりはもうとうなかった。
そして母の事も・・・。
けれど、存在自体を忘れようとしていた母にいざ会ったときに、一体どんな態度を取るのか私自身想像できなかったし、もしかしたら無意識の中に潜んでいるおどろおどろしいものが私を支配して人として許す事の出来ない行いをするのではないかという恐怖感が大人であるはずの私の顔を硬直させた。
健一郎さんと一緒にいる時間が長くなるほどにそれではいけないという思いが強くなるのだけれど、その杭は私の奥深く突き刺さり腐ってしまっていて私一人ではもうどうしようもなかった。
その杭をどうにかしなければ健一郎さんと同じ方向を見て一緒に歩んで行く事は出来ないと分かっていて、そのくせ、心の中では健一郎さんに助けを求めているのにその杭に触られる事を頑なに拒んでいた。
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