第11話

「丘」


絶対にこの町に戻って来る。そう誓って汽車に乗った日の事を思い出すと今でも涙が出てくる。

「これ、あなたのお金よ」

そう言って更に三年分重くなった通帳を渡してくれたお袋。

「身体だけは大事にしろよ」

親父のその一言だけで胸が熱くなった。

故郷に残って親父の後を継ぐ、親戚の勧めで町の職員になる。そういう選択もあったが、僕はこの町が好きだからあえて町を出たかった。

もっと沢山の事を学んでいつかこの町の為に働きたかった。


東京の暮らしは思っていたより早く馴染めた。

標準語を話す自分にむず痒さを覚えたがそれも直ぐに馴れた。

風呂なしの共同便所という安アパートであったが住めば都と言うとおり壁の薄さも気にならなくなり、親しい友人も出来てそれなりに大学生活を楽しんでいた。

講義とアルバイトの毎日が単調に思えてきたとき、彼女に出合った。

雨上がりの空は澄んで、銀杏の黄色がとても映えていた。

コンクリートとアスファルトの街に敷き詰められた落ち葉は一体何処に行くのだろう、などと考えながらアルバイト先に急いでいた僕は歩道橋の脇で立ち話をしている女性に気づいた。

相手の男性は親父と同じ位の年波でその女性の父親だろう思った。

僕がその女性の横を通り過ぎようとしたとき、彼女の言葉が耳に刺さった。

「だからもう私の前に現れないで下さい。私には・・・、親は居ません」

僕は耳を疑った。なぜ自分の親を否定するのか理解できなかった。

親を否定する事は自分自身を否定するのと同じだ。

どんなに酷い親でもそれはあってはいけない。

彼女が僕の横を足早に通り過ぎた時、その表情を見た。

口を固く結び、青白い顔で、瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。

やはりそうだ。そうでなければいけない。

彼女は決して親を憎んではいない。僕はそう確信した。


大学の構内で彼女を見掛けたとき胸が高鳴った。

それからというもの彼女のあの言葉とあの表情が片時も脳裏から離れることは無かった。

恋は盲目にさせるというけれど、彼女を理解できるのは僕しか居ないという思い込みが僕を支配し、更には僕が彼女を日の当たる場所に連れて行くのだなどと勝手に妄想していた。

中学の初恋の時から誰も好きになれないでいたから、恋に対する免疫が少なかったのだろう。

兎に角僕はそれから構内を駈けずり回って彼女を探した。

そして彼女の後をついて行き、図書館まで行ったのだ。

もしかすると僕のやっていることは所謂ストーカー行為というものではないか?

いや、共通の友人が居るわけでも無いしこういう事でもしない限り話しをする機会はないではないか!と自分を説得させ一緒に図書館に入って行った。

そして彼女と同じ席に着いた僕はその後何を話したのかあまりの緊張で覚えていない。

突拍子もない事を口走ったのだろう。彼女がお腹を抱えて笑っていたのは鮮やかに記憶している。

その姿に何故か安心した。

後に僕の人生設計をおおいに狂わせてくれた彼女の名前は、一ノ瀬遙と言った。



「夕景」


乾いたスポンジに清水が吸い込まれるように。

朝の日差しが否応無しに忍びくるように、

彼、健一郎さんは私の中に染み込んできた。


初めてのデートのとき、映画のあとではにかみながら私に言った。

「腹、へった?」

「うん、すこし」

「そうか!」

健一郎さんは眼を輝かせながら

「うっしゃぁ!」

と、雄叫びをあげて私を馴染みの定食屋に連れて行った。

「ケンちゃん!もしかして、彼女なの?」

定食屋のおかみさんがそう言ったけど健一郎さんはカウンターに肘を置きながら

「ううぅん・・・」

と足元の敷石を数えながら呟いた

「彼女で、いいのか?」

私は胸から込み上げる暖かい何かを指先まで感じながら頷くと、おかみさんは心底嬉しそうに注文の品を私達に差し出した。

健一郎さんにはアジフライ、私にはカニクリームコロッケをそれぞれ一つ多く。

おかみさんと健一郎さんはとても仲が良くて本当の親子みたいに笑ながら話をしていた。

私はそんな彼を見ているだけでなんだか幸せな気持ちになった。

「篤志の奴どうしてる」

おかみさんは健一郎さんの問いかけに肩を落とした。

息子の篤志君は高校三年にもなって進路も決まらず、それどころか悪い仲間と付き合いだして服装も、言葉遣いも昔とは変わってしまったそうだ。

「一体、どうしたものかねぇ」

おかみさんがため息をついたとき店の引き戸が開いて篤志君が入って来た。

「篤志!正面から入っちゃ駄目だっていってるでしょ!裏からあがんなさい!」

着崩した制服とペチャンコな鞄。篤志君は下からおかみさんを睨んだ。

「うるせぇよ。何処から入ろうが、俺の勝手だろ」

そう言って奥の階段から二階に上がって言った。

「小さいときからちゃんと見てやれなかったから・・・私が悪いんです」

健一郎さんはおかみさんの呟きを聞いて何やら考え事をしたあと徐に立ち上がって

「ちょっと、失礼します」といいながら二階に上がって行った。

そして篤志君の怒号とドタドタと争うような音が天井から聞こえてきたけど直ぐに静まった。

おかみさんとご主人は心配げに階段の上を覗いていた。

だけど健一郎さんには信頼を置いているようで二人とも直ぐ持ち場に戻った。

かれこれ1時間くらい経った頃、健一郎さんが笑顔で戻って来た。

「何してたの?」私が言う。

「別になにもしてないよ。少し話をしただけさ」

だけどそれから数日経ってから元気に店の手伝いをしている篤志君を見たとき、私はあのとき健一郎さんは魔法を掛けたんだと思った。

私もきっと掛かっている。その一生解ける事はない魔法に。


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