第10話

「丘」

 


あの日以来、僕は奴等とは少し距離を置いていたが、一旦ぬるま湯に浸かるとなかなか出られないように、一学期の期末テストが始まった頃には元の鞘に戻っていた。

テストの一日目が終り、仲間五人と学校の近くにあるゲームセンターに屯していた。

ゲームセンターと言ってもスティックがぶらぶらしている古いテーブルゲーム機が三台ある駄菓子屋だったが他に遊ぶ所も無いし、隣の町まで行くには駅まで遠く面倒だったから瓶のコーラを飲みながら各々夢中になって遊んだ。

中学三年生なのだから、本来早く家に帰って明日のテストの為に勉強しなくてはいけない。

しかし半ば進学を諦めて家を継ぐ奴や、最低ランクの高校を志望し、将来の事など何も考えず刹那的に生きている連中ばかりだし、僕もそんな磁力に引っ張られ、努力すると言う事を放棄しかけていたのだ。

「おい、みんなで勝負しないか」

誰かがそう言い出した。

「何だよそれ」

「今から一人ずつゲームやってさ、一番点数低い奴がラーメンおごるんだよ」

「お、いいね。ちょうど腹減ってたんだ」

僕は乗り気ではなかったが少し自信があったので加わる事にした。

じゃんけんで順番を決めて勝負が始まった、が、結局僕がビリだった。

財布には五百円しか無く、一杯四百円だったからあと千五百円足りない。

僕は皆に待っているように告げて自転車で家に戻った。

お年玉を貯めていた銀行の通帳も残高は既になく、貯金箱の中には三百円しか無かった。

親父もお袋も田んぼに出ていて家の中は閑散としていた。

僕は暫く考えてから台所へ行くといつもお袋が財布を入れてある引き出しに手を掛けた。

玄関の扉に鍵を掛けることはないのだし、財布くらい持って行ってるだろうと思っていたが意に反して赤いガマ口はそこにあった。

中を開けると四千円入っていた。

心臓の鼓動が大きくなり震える指で二千円を抜いたそのとき、後ろの気配に気づいて振り向くとお袋がモンペ姿で僕を見ていた。

僕は咄嗟になんと言い訳しようかと冷や汗を垂らしながら考えを廻らせた。

お袋は頭の手拭いを取って足元の土を払ったあと、冷たく、僕を射抜くような眼でたった一言こう言った。

「こっち来なさい」


居間に連れて行かれた僕にお袋はここで待つようにと言い、何処かへ行った。

この事が親父に知れたらまた殴られるのかと陰鬱な気持ちになり、頬を撫ぜているときお袋が現れた。

下を向いている僕の目の前に銀行通帳の束と印鑑が投げ捨てられた。

「お金が必要ならそれを使いなさい。それはね、あんたのお金よ」

お袋はそう言ってまた手拭いをかぶり直して家を出て行った。

輪ゴムで束ねられた一番上の通帳を見ると百万円ほどの残高があった。

他の通帳は全て穴が開けられている。

一番下の通帳を開いた。

最初の入金は千円。僕が産まれた一ヶ月後の日付だった。

それから一ヶ月に三回から四回、金額は多い時で三千円、少ないときで千円。

十五年間一度も下ろされること無く入金され続けており、通帳の名義は、僕の、名前だった。

僕がおもちゃをねだったり何か我侭を言って困らせた時も、まるっきり田んぼの手伝いをしなくなっても、万引きしたときも、お袋は僕の為にお金を貯め続けていた。

子供ながらに家の家計の苦しさは理解しているつもりだった。

親父は大型と特殊免許を持っていたから冬は町の除雪で出稼ぎする事は無かったが、それだけでは足りないのだろう。お袋は一枚二円にも満たないリンゴに被せる袋を折ったり、漁で使う縄に餌を付ける内職を夜中まで毎日行っていた。

僕は小学校の頃まで農繁期には手伝いをしていたが中学に上がった途端、面倒になって田んぼに近づく事は無くなっていた。

その間も両親は当然のように働き、勉強もろくにせず遊び回って、挙句の果てに悪友とつるんで万引きまでして迷惑を掛け通しの僕の為に飯を食わせてくれた。

恐らくこのお金はお袋が内職で稼いだものだろう。

僕は子供の頃、何時お袋が寝ているのか不思議に思った事があった。

僕より遅く寝て、僕より早く起きて田んぼで作業をした後朝ごはんを必ず作ってくれた。

いつかしらそれを不思議に思わなくなっていた。それが当然だと思っていた。

通帳に入金された数千円の価値と、詰まらない勝負に負けて仲間にラーメンを奢るための二千円の価値と。

親父もお袋も決して僕の事を諦めていなかった。

いつも僕を見守り、信じていてくれたのだ。

お袋は僕がこのお金に絶対手を出さないと信じているに違いなかった。

僕は両膝で拳を握り締め、畳の上に涙を零していた。

それから僕は通帳をお袋の部屋に置いて家を出た。

仲間の所には戻らず自転車で丘に登った。

一本だけある大きな木に自転車を立てかけ、海に向かって叫んだ。

胸の中で渦巻くもやもやしたものを全て吐き出そうとして、喉が潰れるほど叫んだ。

そして僕はそのとき誓った。

親父とお袋は絶対に裏切らないと。

将来僕が結婚したら僕の伴侶も僕の子供も親父とお袋のように身体を張って護り、一点の曇りなく信じ抜くと。

紅蓮の炎を放ち僕を包み込む夕陽に、誓った。



「夕景」


彼は突然私の前に現れた。

毎週通っている図書館で彼は私の前の席に座ったが、私は気づかなかった。

「あ、あのう・・・」

顔を上げると彼は緊張した面持ちで何度も咳払いをした。

ネルシャツにジーンズ姿、髪型もあまり気にしていないようで何だか垢抜けない感じの人だな、そう思った。

「あのう・・・」

なかなか話を切り出さない彼に私は少し苛ついて無視するように本に眼を落とした。

「あのう、お願いがあるんですが・・・」

「なんでしょう」

「今日初めてお話させて頂くわけですが、私はあなたの事を良く知らないし、あなたも私の事を知らないと思います」

私は心の中で「だから何なのよ」と呟いて眼鏡を掛け直した。

「だけど僕は自信があるんです」

「自信?」

「ええ。あなたの事を好きになる事が、です」

よりによってどうして図書館で告白するんだろう。

私は思わず「はぁ?」と言って首を傾げた。

「だからあなたの事を好きになってもいいでしょうか。いや、既に好きなんですが」

「私があなたの事を好きになる保証はないけど」

「そりゃそうでしょうね。でもこうなった以上責任を取りたいんです!」

全く言っている事が理解出来ない。

「責任って、何?」

「あなたのこれからの人生全ての責任を僕が取ります!」

「は?」

意味が分らない事を、それも大声で叫んだ彼に周りの人達の視線が注がれた。

私はその言葉にどういう反応したら良いのか分からず暫く彼の顔を見詰めた。

汗を流して紅潮し、鼻息も荒くして彼も私を見詰めた。

冗談ではなく本気で言っているのが分る。

そんな彼を見ていたら何だか可笑しくなって、かみ殺していた笑も我慢できなくなってついには声を上げてしまった。

こんなに笑ったのは何年振りだろう。もしかしたら、産まれて初めてかも知れない。

彼は我に返ったのか、照れながら頭を掻いていた。

その素振がとても可愛くて、更に笑い続けた。

私の異性に対する壁を一瞬で壊した彼の名前は、古川健一郎と言った。


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