第8話

「夏の終わり」


その時、私は仕事が終わった後彼と食事を共にしていた。

会社の上司でとても信用の置ける人。

「ご主人の容態はどうなんだい」

「一昨日お義母さんから電話があって、変わりはないそうだけど、先月帰ったときは・・・元気だった」

それは半分嘘だった。癌に侵されたあなたは更に痩せていて体の痛みを抑えながら私に心配させないように無理に笑っていた。

「そうか・・・。子供達は?」

「二人とも元気だった」

二歳の陽太はあなたにじゃれついて、産まれたばかりの南海江はお義母さんに抱かれて気持ちよさそうに眠っていた。

一ヶ月に一度あなたに会いにあなたの町行っていた。

最初の頃は私が東京に帰ろうとすると陽太が私の足にしがみついてベソをかいていたけれど、そのときにはもうあなたの家が本当の家になっていて「バイバイ」と言ったきりあなたの部屋からは出て来なくなっていた。

「一ヶ月くらい仕事休んだらどうなんだい?毎月帰るのも大変だろう」

「大丈夫です。それに今、私が抜けたらみんなに迷惑かけてしまいますし」

あなたが実家に戻るとき、私はずっと後悔していた。

私は私の居場所と私とあなたの子供を守るために仕事を続けなければいけない。

彼の言う通り一ヶ月くらいなら、という気持ちもそのときは否定した。

彼の優しさに甘えることを、私は、否定した。



「夕景」


私の家には祖母と祖父、死んだお父さんの兄夫婦が一緒に住んでいた。

祖父も叔父さんも医者で、祖母はとても厳格な人だった。

私だけが違う雰囲気を醸し出しているようだったし、のほんの少しのだらしなさを見逃さない祖母の目が怖くて毎日がとても窮屈だった。

叔父さんの子供達とは歳が近いこともあって割合仲良くしていたけどそれは上辺だけ。

私の被害妄想かもしれなかったけれどどこか見下されているような感じがして、本音を曝け出すような仲にはなれなかった。

早く家を出て一人で生活したかった。

しかし家から通える大学でなければいけないという祖母の言葉に逆らう事がでず、結局その通りにした。

母の住所が書かれている便箋は机の奥に締まったままだった。

何故捨てなかったのかは私自身説明がつかなかった。

私も、きっと母もここの家風とは合わなかったのかも知れない。

だから私はその思いに、母の血に逆らい、この家に忠誠を誓うように自分をこの家に合わせようとした。いいえ、合わせる事でしか居場所を確保出来なかったのだ。

私に便箋を渡しに来た母の連れ合いは時々私の前に現れて、母に会って欲しいと言ってきた。

私は拒絶した。何度も何度も拒絶した。

私に会いたいのなら本人が来ればいい。もし、来たとしても私は会わない。そう言い放った。

私を捨てたあと手紙一つもよこさないような人は私の親でも何でもないと。

「それは違う。彼女は何通も君宛に送っていたはずだ」

そんな事、もうどうでもいい。今更母に会ったからと言って私は何も変わらない。

だからもう私の前に現れないで下さい。私には・・・、親は居ません。

私はその人の顔を見ずにその場を立ち去った。

それは、黄金色の銀杏の葉が絨毯のように歩道を埋め尽くしていた晩秋の頃だった。



「夏の終わり」


彼は私の事情を良く理解してくれていて、食事の他には私に何も求めなかった。

会社の手前もあるのだろうけれど、ここまでは良くて、ここからは駄目、というラインを決して低くせず私に接してくれた。

あなたの事を思い、子供達の事を思い、張り詰めた緊張感のなかでの仕事はとても疲れたし、時々襲う孤独感と倦怠感にはとても耐えられなかった。

何もかも放り投げて今すぐあなたのところに行きたい。いつもそう思っていた。

そういう毎日の中での彼の優しさは私の精神のバランスを保たせてくれたし、安らぎをも与えてくれた。

彼と食事をした後、家に帰って来たあの夜。

誰も居ない暗く、寒い部屋に明りを点け、無造作に髪を解いて洗面所に行った。

化粧を落として鏡を見たとき私は体中が硬直して暫く動けなくなった。

私の顔が、母に似ている。

情婦と化し、私を捨てたあの人の顔に。

私は呆然とシャワーを浴びた後、なだれ込むようにベッドに潜り込んだ。

夜中。携帯電話が鳴った。

そう、これは母の事を理解せず、あなたの気持ちに背いた私への罰。

「ごめんなさいね、こんな夜中に」

「いいえ、おかあさん。まだ起きてましたから」

「あのね、たった今、健一郎が、息を引き取りました・・・」



「夏の終わり」


翌朝、私は上司である彼に電話をいれ、空港へ向かった。

タクシーの中でも、飛行機の中でも私の頭の中は何かを詰め込まれているみたいに重くて何も考えられなかった。

もしかすると夜中の電話は夢ではないかと思って携帯電話の着信履歴を見返して見た。

でも、あなたの家からの電話は嘘ではなかった。

楽しい思い出ばかりの様々な映像の断片が過ぎるけれど不思議と涙は出なかった。

飛行機で二時間、列車に揺られて二時間、駅からタクシーで一時間弱。

その日ほどその道のりは苛々して遠いものだとは思わなかった。

また、それと同時にあなたの家に着かなければいいと言うような相反する矛盾が胸の中で渦巻いていた。

どうか嘘であります様に、冗談でありますように・・・。

家に着いたらあなたが出迎えてくれる、そんなありはしない光景を思い巡らせて玄関の扉を開けたとき家の中の重い空気とお線香の匂いを感じた途端そんな夢想は微塵に砕け散り、あの時と同じ胸の痛みが私を襲った。

襖は取り払われ、居間とあなたの部屋との広い空間にあなたは白い布団の上に横たわっていた。

お義母さんが涙混じりに私を誘う。陽太は枕元に神妙な顔でちょこんと座っていた。

身体の痛みから解放されたあなたは何処かしら微笑んでいるようにも見えた。

やせ細った手はやはり冷たく、私はその時やっとあなたの死を現実として受け止めた。

そして流れ出す涙と共に「ごめんなさい」という言葉を何度も繰り返した。


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