第6話

「夏のおわり」


八月の昼間は暑いから人間はまだ夏だと思っているけれど、蛙は声を嗄らして息も絶え絶えだし、時々鳥肌が立つほどの冷たい風がそよいでくる。

八月はもう秋。

(七月と八月の間に一日だけ無音の夜があるんだ。それは夏と秋が喧嘩して口をきかないからさ)

あなたがいつだったかそんな事を言っていた。そのとき私は嘘だと笑ったけれど今は信じられる。ゆっくり流れる時間に身を委ねてテレビの音も車の音もしないこの空間には確かに優しい神様が私たちを見守っている。

「おばあちゃん、これがね、僕の釣ったアジ。これがナミのアジ」

「あら、どうして分かるの」

「だってほら、こっちのほうが薄くて小さいじゃん」

「うそ!おにいちゃんのほうがちいさかった!」

フライにした鰺を箸でつまんで二人は自慢げに釣果を競い合う。

「ママ、今日一番の大物を釣ったのは僕だよね」

「え?、う―ん・・・」

船酔いから漸く立ち直った私は曖昧な返事をしてごまかした。



「夕景」


家の中にいるより街の中にいる方が心が安らいだ。

お祖父さんとお祖母さんは私に優しくしてくれたけど、

それが返って辛くて心が冷めた。

繁華街は沸くように人がいっぱいで賑やかだった。

知らない人間には誰も無関心だから。

私の存在なんて足元に転がっている空き缶にも等しい。

勉強はよく出来た。

でもそれは要領が良かっただけ。

頭が良いなんて何の役にも立たない。

けれど私が家に居られるのはそれしか方法が無かった。

出来れば無責任で憎むことすら汚らわしいお母さんみたいに好きな人と何処か知らないところへ行ってしまいたい。

毎日、毎日、そう思って、

ただ、ただ、時間が過ぎるのを立ちどまって見ていた。



「夏のおわり」


時間がこんなに愛しいものだとは思わなかった。

おとうさんとおかあさんは一人息子が死ぬ前もその後も恐らく変わらない生活をしている。

私はただ毎日が忙しくて目の前の仕事をこなすだけで精一杯。

親として、社会人として生きて、本当の私、女としての私はいつも置き去り。

けれど此処へ来ると私自身を取り戻す事ができる。

本当であれば私が居るべき場所で私の力だけで生きて、私の世界を作り上げなければならない。あなたが生きていればそんなことなど考えないで此処に居る時間を楽しむ事が出来るのに。

今年限りにしよう、そう思ってもう五年が過ぎた。

その間あなた以外の人を好きになるとは思っていなかったし、好きになってはいけないと思っていた。それは私があの人と同じになるという事。それは私に流れる血を肯定し、人として、親として絶対あってはならない事。

なのに、私は、私の本能から逃れる事ができなかった。

だからもう私は此処に帰ってくる資格はない。

けれど許されるのならまた来年も帰って来たい、そう思っている私がいる。

夜は緩やかに流れ私の意識を目覚めさせる。耳障りだった虫の音も今では優しい子守唄。布団から身を起こして網戸越しの月を見た。

寝息を立てている子供たちは今日一日ですっかり日焼けしている。

私は子供たちのはだけた布団を直し、寝巻き姿のまま庭に出た。

青白い砂利の上を静かに歩く。

敷地を出るとゆるい坂になっていてその向こうに田んぼの稲穂が月の粒子を浴びて佇んでいた。

私はあなたの面影を稲穂に映しながらその光景を見詰めていた。



「丘」


それから僕は胸の中に空虚なものを抱えながら毎日を過ごした

彼女を見る度に針が刺さるように心が痛んだし

あの男と一緒にいるところを見ただけで死にたくなるような絶望感に襲われた

何もかもどうでもよくなって

何もかもつまらなくなった

そして僕は少し柄の悪い連中と付き合いだして

学校もよくサボるようになった

今考えれば幼稚で馬鹿な奴だと思うけれど

その時は本当に真剣に悩み、苦しんでいたんだ

初恋など破れて当然なのに

それから僕はずっと誰も好きにはなれなかった


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