誰も救えない
僕は物心ついた時からずっと、他人には見えないものが見えていた。
けれど小さい頃なんかはそれがおかしなことだとは理解出来なくて、嘘つき呼ばわりされたり、気味悪がられたりしていた。
どこかで聞いたことがあるような話だと、自分でも思う。
小学校の高学年にもなると下火になった――正確には皆が興味を失った――僕の話題も、中学に上がって他の小学校からの人間が増えれば、また噂されるようになるもので。
面白半分で近寄ってくる人や、遠巻きに話のネタにする人、馬鹿にして白い目を向けてくる人にその他諸々、全部全部煩わしくて、僕は独りでいることを選ぶようになった。
そこで出会ったのが彼女、
休み時間や放課後、僕がいる所為なのかは知らないけれどあまり人が近寄らない図書室の奥の方に、ある日彼女は現れた。
淀んだ、悲しげなオーラを背負う花邑さんは、誰かから隠れているようだった。
何故だか放っておけなくて――放っておいてはいけない気がして――話し掛けた僕に、初めは怯えていたようだったけれど、それを続けていれば花邑さんは徐々に心を開いてくれるようになったのだ。
けれど、もしか、僕は寂しかっただけなのかも知れない。
僕より辛そうな花邑さんを見て、救われたかっただけかも知れない。
だからあえて、何かをしてあげることもなかったのかも知れない。
たらればなんて、最早何の意味がないのは重々承知だ。
それでも、頼りないとしても、もっと何か出来ることがあったかも知れないのに、何もしなかった。
むしろ、可哀想な花邑さんが可哀想なままでいてくれることを、心の底では願っていた――そんな気さえする。
その僕が、今更、花邑さんを助けたいだなんて。
「そんな虫が良い話……許されるはずがなかったんです」
吐き捨てるように呟いた声が震えていてあんまり情けないものだから、つい自分自身を嘲笑したくなる。
隣に並んで太い煙草をくわえていた男は相変わらず視線を宙に投げたまま、紫煙を吐いた。
「花邑蘇芳は、お前に助けを求めたのか」
その男――知り合いの刑事である
違うのだろう、と、言外に滲ませた少しだけ掠れた低く響く声がまるでボディブローを撃ち込まれたように鈍く突き刺さる。
そうだ。
決して、花邑さんは僕に助けを求めなかった。
玄井早百合にあの頃、金を取られたときも。
汚い水を掛けられたときも。
殴られ痣だらけにされた時も。
――口に出すのがおぞましい目に合わされたときだって。
花邑さんは黙って、首を振った。
――私は、大丈夫。
そう言って。
他人に被害が拡がることを恐れていたのか、それとも、誰も助けてくれやしないのだと痛感し、諦めていたのか。
どちらか、或いは違う感情からだったのかは最早、知りようもない。
けれどとにかく、花邑さんは首を振った。
やんわりと気弱そうに口角を上げ、悲しげなオーラを漂わせて。
親の都合で県外の高校へ進学した僕には、その後彼女がどう過ごしていたのかは分からない。
この間の事件があった日、五年ぶりに再会したのだから。
それでも花邑さんがああして玄井早百合に寄生されていたところを見ると、ずっとずっと辛い思いをしてきたのだと、考えなくても判る。
「せめて、連絡先のひとつでも交換していれば……話だけでも……聞いてあげられていたら…」
「こんなことには、か」
石蕗さんが、胸ポケットから取り出した携帯灰皿にフィルタのぎりぎりまで吸った煙草を押し付ける。
煙草に恨みでもあるのかと聞きたくなるその手付きに思わず視線を外して、アスファルトをただじっと見つめた。
線香のにおいが、紫煙に混じる。
「お前に何が出来た」
石蕗さんの淡々としたその声に、脳味噌の真ん中が途端、スパークした。
神経を逆撫でされ爆発した激情のまま、よれたスーツの襟に掴み掛かる。
何を言いたいかも解らないままに滅茶苦茶に声を上げようと、歯を剥き出すように口を開く。
けれどそれは、怒声に成らず行き場を失った。
「所詮他人だ。他人の考えることなんざ分かりゃしねぇ。親だって、恋人だって、別のもんなんだ。分かるはずがねぇだろう。お前は他人に見えねぇもんが見えるかも知れねぇ。だから何だ。本人が言葉にしなきゃ、どんなに見えたってどうなってるかなんて、分かるかよ。お前は聞かなかった。花邑蘇芳も言わなかった。それが答えだ」
石蕗さんの言葉と眼差しは、悲しいほどに真っ直ぐだった。
あの時花邑さんに声を掛けたのは、本当に偶然だった。
むしろ、こう言ってはなんだけれど、あのオーラが綺麗さっぱり無くなっていたから、最初見掛けた時は花邑さんだと全く気付かなかったくらいなのだ。
けれど僕の前を、あのオーラに塗り潰されそうなほど取り巻かれている人物が通り過ぎた。
まさか花邑さんじゃないかと焦燥に駆られて目で追った先に、本物の花邑さんがいた。
このままじゃいけないと自然を装って花邑さんに声を掛けたところで、オーラに取り巻かれているのが玄井早百合だと――鬼気迫る異様な風体に気を取られ誰なのか考えることすらその瞬間、失念していた――気付いて、そして、取り殺されそうになっていることにも気付いたのだ。
僕に向かって悪態をつく玄井早百合に、何よりも早く、オーラが反応した。
白い手と化したそれが、じわじわと玄井早百合の首を締める。
色を変えていく首に回された左手の、薬指の先が曲がっているのが判った。
あれは、中学二年の頃にさせられた怪我の、後遺症。
「花邑、さん」
花邑さんは、曲がった指先を隠すように袖を握っていた。
玄井早百合の首には、自身のつけ爪で掻き毟った生々しい傷が増えていく。
化粧の下の肌がおかしな色になっていく。
止めなきゃいけないと思うのに、身体が動かない。
玄井早百合の茶髪の後ろから、黒が混じった。
背後から肩を這い上がるように現れたそれは、天辺は丸みを帯びていて、あれは頭だ、とすぐに解った。
「ひっ」
隣から聞こえたのは決して悲鳴ではない。
玄井早百合の肩へ現れた顔もそれに合わせ、にたり、と口角を上げる。
あの頃僕にも見せた気弱さは、欠片もなかった。
――止めなきゃ。こんなこと、花邑さんにさせちゃ駄目だ。
花邑さんの肩を揺さぶって、正気に戻ってくれるように呼び掛けた。
けれど花邑さんは妙に楽しげで、ただがくがくと首を揺らす。
玄井早百合が苦しみもがいている。
「ね、柳井くん。ドッペルゲンガーに会ったら死んじゃうって本当かなぁ?」
その言葉で、花邑さんが、玄井早百合を現在進行形で殺しているのが自分だと、理解していることを理解した。
それでも、と。言い募った僕に花邑さんが返したのは。
「…ごめんね、柳井くん。もう遅いんだよ」
あの時と同じ、気弱そうな笑みだった。
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