誰にも救えない
相良あざみ
誰にも救えない
彼女が言うところの、私の親友である
悩んでみてもとんと覚えがないくらいだから、随分と前だったかも知れないし、そうではないかも知れない。
ただ、それが人間の指先である、と気付いたのは、ここ二ヶ月程であると思う。
そう、初めは確か、ゴミがついているのだと思ったのだ。
早百合ちゃんの肩に白いものが見えて私は、おや、と思った。
持ち物はいつも安物な地味でぱっとしない私と違って早百合ちゃんはいつも良い物を持ってお洒落だし、服装にもかなり気を使っている。
だから、ゴミをつけて歩いているなんて有り得ないだろうと思って、きっと何かの見間違いだと口を噤んだ。
それが、気にするようになったはじめ。
それまでもずっと、視界の端には入っていたようには思う。
わざわざ気にするような事物ではないと、感覚的に察知していたのかも知れない。
次に顔を合わせた時も、そのまた次に顔を合わせた時も、早百合ちゃんの肩には白いものが見えて、そこで漸く何かがおかしいと気付いた。
けれども、私があえて口に出すことはなかった。
おかしいと気付いたのは、他の人間が誰もそれについて言及しなかったからでもあるのだから。
白いものは、徐々に形を成していった。
楕円形の棒のようなものが四つ、肩へ並んだ時には既に、早百合ちゃんの鎖骨を掴める位置まで白は伸びていた。
「指だ」
咄嗟に口を塞いだ時にはもう遅くて、早百合ちゃんは綺麗に調えた眉を思いきりひそめて私を見た。
何かと訊かれた私は、ただただ首を横に振る。
早百合ちゃんはそんな私を、鼻で笑った。
次に顔を合わせた時には、反対側の肩に指が増えていた。
長さや太さで判る。
右肩には右手。
左肩には左手。
同じ人間の指だ。
その次は、位置が少しずれていた。
僅かだったけれども、確かに、首の方へ。
早百合ちゃんと顔を合わせる度に、私はコマ送りの映像を見ているような気分になっていた。
徐々に、徐々に。
早百合ちゃんの首に、女の両手が掛かっていく。
そして、それに比例して、早百合ちゃんの様子がおかしくなっていった。
最近は化粧が濃いと、内心では思っていた。
ただ私は静観していただけだったけれども、漸く理由が判明する。
――目の下の隈だ。
幾らコンシーラーを塗りたくっても隠せなくなった、濃い青黒いような隈。
肌は荒れ、化粧の乗りがかなり悪い。
目蓋が落ち窪み、私と同い年の大学生にはとても見えなくなっていた。
私が買った服はよれて、パンプスは傷だらけになっている。
何があったの、とは、訊かなかった。
早百合ちゃんは私が干渉することを嫌がるから。
だから私はずっとずっと、何週間も、コマ送りの映像を静観した。
ああこれは死ぬな、とは思ったけれども、決して何も言わなかった。
「あれ? もしかして、
そんな折りに再会したのが、彼だった。
中学の同級生である
あの頃ちょっと変わっていると遠巻きにされていた彼は、けれど、私にとっては大切な友達だった。
友達、というには人付き合いが苦手な私だったから、少しだけ距離はあったけれども。
彼は、すっかり普通の大学生になっていた。
きっと成長するにつれ周囲に溶け込む術を見付けたのだと思う。
声を掛けられなければ、柳井くんだと私は気付きもしなかったろう。
予想外だったのは、早百合ちゃんだった。
「あんた中学の時こいつにちょっかいかけてたヤツでしょ。へぇ、あのダサい眼鏡辞めたワケ?」
そう言って私達を鼻で笑う。
早百合ちゃんは、寝不足なのか血走った目をしてぼろぼろになってもやっぱり、早百合ちゃんだった。
私は、早百合ちゃんの親友という名を冠したお財布で、サンドバッグで、都合の良いオモチャ。
そんなオモチャと関わろうとする人間も、人間という価値を持たないただのがらくた。
早百合ちゃんは、自分が世界の中心だと、ずっとずっと思って生きてきた。
欠片も、片時も、疑わなかった。
白い手が、ぐ、と、力を込める。
透けたそれの下で、指の形に鈍い赤紫の痣が出来る。
異変を察知した早百合ちゃんがそこに手を持っていくけれども原因を掴むことは出来ず、魔女のような長い爪で喉を掻き毟ることしか出来ない。
かは、と、声なのか息なのか判らないものが早百合ちゃんの半開きになった唇から洩れた。
細長い痕がぷっくり腫れ上がる。
赤が滲む。
何本も、何本も。
周囲の人間が早百合ちゃんを見てざわついている。
警察か救急に電話しようとしているのか、携帯を持つ人。
どうするつもりなのか、ムービーや写真を撮っているらしい人。
事態に着いて行けない人や、テレビ番組か何かと思っているのかカメラを探している人。
早百合ちゃんはまるで、熟語としてでなく文字通り、真綿で首を締められているようだった。
決して全く、呼吸が出来ない訳じゃない。
でも苦しい。
痛い。
どうしようもなくて、ただ自分を傷付ける。
その様をじっと見つめながら私は、指先まで全て隠れる長さの袖をぎゅっと握った。
「花邑、さん」
掠れた声で呟いた柳井くんが、茫然と早百合ちゃんを――早百合ちゃんの背後を、見ている。
柳井くんは中学生だった頃、見えると噂されていた。やっぱり、事実だったらしい。
「柳井くん」
「は、な、むら、さん…あれ、は、あれは」
血の気が引いて青白くなっている柳井くんと、鬱血して赤黒くなっている早百合ちゃん。
下手くそな紅白幕か何かみたいで、妙に笑える。
でも流石に喉を掻き毟りながらもがいてる早百合ちゃんの前で笑うのも気が引けて、我慢したら、ひっ、と引き攣った声が洩れた。
ああ、笑ってるってばれちゃった。
「だめ、だ、駄目だよ、花邑さん、だめ」
壊れたオモチャみたいにだめだめ繰り返す柳井くんに、肩を掴んで揺さぶられる。
首ががくがくと前後に振れて、私こそ壊れたオモチャのようだ。
それこそ、壊れた、なんて今更だけれど。
「ね、柳井くん。ドッペルゲンガーに出会ったら死んじゃうって本当かなぁ?」
くひっ、と変な声が洩れた。
横目に見えた早百合ちゃんの顔が人間じゃそう出せないような色になっていて、なかなか芸術的だ。
きっとこう言うものをシュールレアリスムと呼ぶんだと勝手に決め付けてみる。
当の私は、良さが理解出来ない。
「しな、ない、よ、誰も、死なない、だから花邑さん、もう」
柳井くんの黒い眼に映っている私と早百合ちゃんと私。
誰かが悲鳴を上げている。
沢山の人が上げている。
早百合ちゃんの喉からは到頭空気が出入りしなくなって、太陽は真上にある。
「…ごめんね柳井くん。もう遅いんだよ」
にっこりと笑ってみせたら、アスファルトに重いものがぶつかる音と、柳井くんの嗚咽が返ってきた。
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