+五日目-駄菓子屋-

 彼菜はひどく重い体を布団に横たえて、間もなく独りで眠った。耳が痛くなるほどの静寂でありながら、あっという間に規則正しい寝息が響いた。

 じきに彼菜が目を覚まして、起き上がったかと思うと首や口元に触れる。薄く開いていた瞼が突然見開かれ、そこにある乾いた膜が粉となって剥がれ落ちた。

 指先に付着したそれを見つめて、ぶるりと震える彼女は立ち上がり、室内を見渡す。遊び道具やふすまなど、特別変化はない。ふすまを開いてみたり、廊下を覗いても何もない。

 何度か首をかしげて、彼菜は部屋から出た。向かった先は倉庫だった。淀んだ空気にさらされながら、山積された荷物には、本棚に納まりきらなかった本や、武器が置かれていた。そこから彼菜は、棒を見つけ出した。

 それは彼菜の胸までくらいの長さで、先端は丁字に分かれている。その真ん中あたりを右手で握り、倉庫を後にする。

 それから彼菜は食事も摂らずに、かつんこつんと棒を鳴らしながら、父親のものだった部屋を、息をのんで開いた。そこには泥のような闇は存在せず、無人の空間がそこには広がっていた。それと同時に、ほっとした笑みがこぼれた。

 彼菜はふすまを開き、畳をひっくり返したが、息が荒くなるだけであった。

 次に、母親の部屋、兄の部屋、姉、使用人、と回っていく。彼女の知る限りの部屋と廊下を見て回った。誰もいない。闇の中にぽつんとたたずむこの平屋には、彼菜だけが歩いていた。

 時折、大きく息を吸い込んだ彼女は、一瞬遅れてはっと目を見開く。それからゆっくりと息を吐く。そのたびに目尻を下げながら、薄ら涙を浮かべながら、棒を握って平屋を練り歩く。

 最後の畳をひっくり返した彼菜は、そこには闇しかないことを確認して、蓋をする。ふすまを開いて、何もない空間を見て、閉じる。

 それから、玄関にも等しい駄菓子屋の部分へとやってきた。相変わらず誰もいない。

 裏手から彼菜は、変化のない空間を見て、会計の机につく。棒は隣に置く。机には彼菜が幼い頃に描いた落書きが残っていた。小銭を貯める箱も、在庫の書かれた紙も、そのままだ。

 なぜか闇ではなく、土のある土間の上に机がある。その上には様々な駄菓子がたしかにある。駄菓子屋の娘は近くにあった箱を開いてみた。そこには瓶に詰められた飲み物があった。

 それを開けて、口にする。ぼんやりと玄関の向こう側にある闇を見つめていた。


---


ある日のことである。まだ彼菜が霊を送り始めるよりも少し前。すっかり万芽に懐いてしまった彼菜が目覚めたときに、彼女の姿を探したのである。いつもなら枕元にいたり、部屋の真ん中で身づくろいをしていたりするのだが、猛禽の姿はそこにはない。

ゆえに、朝食の席で父母や使用人に尋ねた。どこへ行ったのかと。

父母は口を揃えて知らないと言い、そのうち戻ってくるだろう、とあまり気にする様子はなかった。使用人たちも互いに顔を見合わせ、首をかしげるばかりだ。

だが食事を終えて、彼菜が部屋へと戻ろうとしたときである。使用人が声をかけたのである。彼菜がずっと大きくなって、霊の存在に悩みだす頃に言葉を交わした使用人に。

 彼は万芽が、今朝早くに飛び立ったというのだ。庭の手入れをしている際、こそこそと障子の隙間を通り抜けてしまったらしい。

 どこに行ったの、彼菜が使用人の膝にこぶしを押し当てて、好奇心に満ちた満面の笑みを向ける。すると使用人は、ひとつの方角を指さして、飛んで行ったらしい方向を示した。

 すると彼菜は心細かったのか、あるいは伝えたいことがあったのか、ありがとう、と言い残してそちらへと駆け抜けていった。残された使用人は一瞬だけ悩むそぶりを見せてから、雇い主である父親の部屋へと向かった。

 彼菜はやがて、いつしか迷い入った山へと入り、あっちへこっちへと走り回った。まだまだ早い時間だったこともあり、道に迷うこともなく、いつしか友達と遊んだ山端の広場へとたどり着いた。

 彼菜は万芽の姿を探し、山へと入った。怪鳥と出会った、守られた場所に。

 まだまだ有り余る活力を使って、過去の記憶がないかのように友達の行方を探す。やがて彼女がたどり着いたのは、彼女が数年後、父親に連れられてやってくる広場だった。そこは円を描くようにして木が生えておらず、代わりに背の低い草が絨毯を作っている山の中腹だ。

 彼菜は走ってそこまでやってきた。そこには背中を向ける怪異の姿がある。

 少女がいつしか目にした怪鳥の姿がある。彼女は艶のある土の色をした羽でその身をまとう。それは翼の先に移るにつれて、土から雪の色へと変化していく。だが今は、赤く汚れている。

 万芽は当時と同様に、嘴を赤く濡らしている。彼菜はかけようとした言葉さえも、息さえも飲み込んで、濡れた音をただ聞いていた。

 怪鳥は振り返らず、頭を足元にやった。もぞもぞと動き、そして濡れた音が再び鳴り、持ちあげた嘴には赤い肉がぷらぷらとぶら下がる。彼女はおいしそうにそれを口内へと収めていく。

 半歩、彼菜が歩を進めると、猛禽の足元が視界に入った。鬼や獣が倒れていた。ぴくりとも動かないそれらを次々についばんでいく。

 蹂躙されたのであろうそれらは、彼菜の視線を釘付けにした。わずかに瞳を揺らすものの、真っすぐとそれらを見つめる。山中にある広場からわずかに離れた場所で、手を力なく広げ立ち尽くす。

 やがて万芽は小娘に気づくことなく、食事を終えた。まだまだ下に転がる獲物があったものの、飽きたかのように止めた。

 彼菜はただ見守っていた。たまに後ずさりしたものの、踏みとどまる。

 そして怪鳥はふらふら歩を少しだけ進めて、座り込む。屍のない位置で首を折りたたみ、瞳を隠す。静けさがさらに増し、じきに怪鳥の笛のようないびきが、大地を包み込む。

 それから数分して、ようやく少女は近づいた。亡骸から距離を置いて眺める。人間の姿をしたような不気味な鬼に、どこで捕獲してきたのか分からない獣が数匹いる。赤い肉や骨が見えているが、少女は驚くこともなくしげしげと見つめていた。

 それから怪鳥の背後付近に近づいて、距離を少し取って座り込んだ。上下する背中に時折、まだまだ青い葉が落ちてくる。だが目を覚まさない彼女を、少女はじっと見つめていた。

 陽が高く昇るまで、二人はそのままだった。高くなると、万芽がぱちくりと目を開けて、体をゆさゆさと震わせる。落ち葉が背の低い草に落下して、音を立てる。ずいぶんと寝ちまったね、と一人呟くと、のそりと立ち上がる。首を左右に軽く曲げてから、帰ろうかと続けた。

 のしのしと振り返ると、そこにいる彼菜に気が付いた。膝を立て抱くようにして眠っている少女は、顔を伏せていた。背中が規則正しく上下している。

「馬鹿だねぇ。ついてきたのかぃ」

 目が覚めたばかりだからか、彼女は穏やかだった。再び座り込み、少女をただ見守る。やがてそれに飽きたのか、次は少女を抱くように移動した。

 するとようやく、娘は目覚めた。柔らかい羽毛が背中に触れたことに驚いのだろう。半開きの眼で景色を眺めた、起きたかい、と万芽が言うものの、ぼんやりとし続ける。

 虚空を見続けている彼菜の頬に、ため息をついた万芽の赤い舌が踊った。すると彼菜の背筋がぴんと伸びて、何事かと万芽の方を見た。舌をだらんと垂らしながら、万芽は起きたね、と呟くと、何か思いついたように声を上げる。

「ちょうどいいや。彼菜、ちょっと遊ぼうよ。ここならあんたの兄も姉も、親父さんもいないからさ」

 猛禽の発する甘い声に、即座に彼菜はうん、と答えた。何をするの、と続ける少女は、興奮した様子で立ち上がり、振り返った。期待の眼差しが注がれると、万芽は座り込んだまま、そうだねぇ、と瞳を閉じる。

「じゃあさ、これにしようよ。あたしゃ、面白いことができるんだよ。お兄さんたちが今、何をしてるかっていうのを当てるのさ。例えば、親父さんが仕事をしていたら、仕事をしているって、ね」

 どうやって、と彼菜が首をかしげる。見てからのお楽しみさ、と万芽は笑う。

「それでさ、当たれば彼菜がしたいことをしようよ。当たらなかったら、あたしのしたいことをやろうよ」

 彼菜がそうだなぁ、と考え始めた。万芽もふむ、と目を閉じる。そして、彼菜が言った。父上は駄菓子屋の机の上で寝ている、と。

 それでいいんだね、と尋ねると、うん、と彼菜は大きくうなずいた。じゃあ見てみようかね、と万芽は翼を広げた。すると彼女と少女の間に景色が浮かんだ。切り取ったかのように見えそれは駄菓子屋を映し出している。

 そこには父親が頬杖をつきながら筆を握っていた。紙にそれを滑らせている。時折ぎゅっと目を閉じるが、眠ってはいなかった。

 残念だったね、という言葉と同時に、駄菓子屋の景色が空気に溶けて消えた。彼菜はえー、と声を上げながら、軽く握りこぶしを作る。負けは負けだよ、と念を押す。

 それから、何をするの、と小さく頬を膨らませて尋ねる少女に、少し待ちなよ、と首を傾げ始める万芽。うーん、とうなる彼女に、

「さっきのって、どうやったの、万芽。わたしも、できる」

 期待の眼差しを向ける彼菜。返事として、無理だろうね、とあっさりとしたもの。

「まず無理。人間にできる芸当じゃないさ。できるんだったら、大したものだよ」

 くく、と笑う万芽に、えー、と残念そうな声を上げる彼菜。それから他愛ない会話がしばらく続いた。そして猛禽はようやく切り出した。

「そうだ、いいこと思いついたよ、彼菜」

 にやり、とでも笑いだしそうな声を出しながら、すっくと立ち上がる万芽を追って、彼菜の視線も上る。何をするの、と再び期待に輝く目だ。

「そうだねぇ、きっと、楽しいと思うよ」

 ずい、と少女との間隔を縮めてぴたりと止まると、再び動き出して押し倒した。短い悲鳴を上げても、猛禽は何も言わずに翼を広げて、彼女を光から遠ざけた。

 勢いよく倒れた少女は体についた土を払って、立ち上がった。先ほどまでそこにあった柔らかい羽毛はそこにはなく、夜のような暗闇が広がる。

 呆然と闇を見つめる少女に、猛禽の声が届いた。

「かくれんぼさ。あたしを見つけてみなよ。時間は、そうだねぇ、夕方になったら出してあげるよ。それか、見つけてごらんよ」

 光の見えない空間全体に響く声は、むっとする少女に足を動かさせる。見つけてごらんよ、と楽し気な猛禽は闇へと誘う。

 彼菜は歩き続けた。どこまでも続く闇に涙も見せず、毅然とした態度で進む。しかし、目の前にあるのは闇ばかりである。

「あたしはどこだろうねぇ、彼菜」

 この空間全てが彼女のようである。

「父上と母上が恋しいかい」

 娘がふと眠気に誘われそうになった時、声がかけられる。見えているように、気遣うように。

「兄と姉が、恋しいかい」

 近くにいるかのような言葉を発する。友達が、使用人が、と繰り返し怪異は尋ねた。だが頑として首を縦には振らない少女に、強く、ねぇ、と関心に満ちた声が響く。じゃあさ、と思いついたかのようにさえずった。

「あたしが、恋しいかい」

 いたずらっぽい台詞が木霊すと、きょろきょろとしていた少女が足を止め、天を仰ぐ。

 そして彼女は口を開いた。すると、へぇ、と闇に潜む彼女は答えた。

「はは、嬉しいねぇ。ただの馬鹿なのか、それとも本気なのかは知らないけどさぁ」

 すると怪異は、闇の中から現れた。少女の目の前に、闇から溶け出すように現れた彼女は、ぱっと顔を輝かせる娘に近づく。娘は怪異の胸元に抱きついて、その柔らかい感触を堪能する。

「そうかい、あたしがねぇ。はは、あたしなんかが、好きかい」

 くすくすと、なおも笑い続ける怪鳥は、顔をこすりつける娘にされるがままだった。曲がっては元に戻る細い羽毛はふわふわと柔らかいらしい。

 彼女が現れたことにより、なかなか離れようとしない娘は疲れていたのか、ようやく座り込んだ。それでもぎゅっと掴んだ羽毛は手放さない。

 いまだに闇だけの景色を見渡す少女に、怪異はさえずる。

「ねぇ、彼菜。あたしさぁ、言いたいことがあるんだよ」

 なぁに、と闇から視線を外し、見上げる。きらりと輝く一対の瞳が頭上に。

「おいしそうだねぇ、あんたって子は、さぁ」

 わざとらしく、文字ひとつずつを区切り口にした彼女は嘴を大きく開いた。そこには別の闇があり、入口は赤く、舌が躍る。

 少女に近づくそれらは、まず頬を舐めた。きょとんとしている娘は顔を這っていく舌に抵抗もせずにいた。

 それから猛禽は人間を押し倒して、首筋を丁寧に味わった。彼女がぼんやりと空を見つめていることなど意に介さず、味わい続けた。

 やがて猛禽は彼女の口を塞ぎ、口づけをした。とはいっても、嘴の大きさ故に、唇をぺろりと舐めたに過ぎない。

「すまないね、彼菜」

 その言葉を最後に、少女の瞼は閉じていく。満足気な怪鳥の姿を焼き付けて。

 その後、彼菜が次に目覚めると見慣れた部屋であった。万芽も隣で座り込んで眠っており、彼女自身も布団の中で眠っていた。とっさに首や頬に手を当てて、眉をひそめる彼女は、布団から出てふすまを開けた。

 そこには、不意を突かれたらしい父親がいた。彼菜は今朝のことを覚えているかを慌てたように説明する。だがはてなと首をかしげる父親は、今の今まで寝ていただろう、と返す。

 え、と声を上げる彼菜は、立ち去る父親に次いで母親に、使用人にも同様のことを尋ねた。ばたばたと音を立てて、静かに、と怒られたにも関わらず。

 やがて彼菜は小難しい顔をして部屋へと戻った。そこには目覚めたらしい万芽がいて、どこに行ってたんだい、と尋ねてくる。少女は空気を大きく吸い込んでから、ふすまを閉めて、口を開く。

「万芽、山の上に、いた」

 質問に質問で返す彼菜に、猛禽はただ言った。

「いいや、知らないねぇ。真昼にしか、出ていかない主義なんだよ、あたしゃ、ね」

 まっすぐと見つめる視線は、揺れない。


---


 最後の一口を飲み干して、ため息をつく彼菜は玄関をただ見つめる。その向こうにある闇に変化はない。空になった瓶を土間に置き、ゆっくりと立ち上がった彼菜は、駄菓子の並ぶ土間に下り立つ。そして商品を眺め始めた。

 一口大のお菓子を手に取り、包み紙をはがす。そこにある甘いものを口に運ぶものの、彼女の表情に変化はない。ひとつ、またひとつと、大量にある駄菓子は数は減っていく。

 やがて満足したのか、彼女はふと手に取ったものを元に戻した。包み紙はひとまとめにして、机の近くにある箱の中へと放り込む。それから口の周りについた食べかすをぬぐい取る。そして棒を再び握り、次に彼女が向かったのは、訪れていなかった、食事をするための部屋である。

 かつん、と棒廊下にぶつけながらたどり着いたふすまを開けてみても、そこには誰もいなかった。彼女が目覚めてから少し時間が経ったとはいえ、猛禽の姿も、お面をかぶった少年の姿もない。しかし、食事の用意だけはされていた。

 すでに冷めてしまった料理に近づき、座る。匂いを嗅いで、しかし彼菜は立ち上がる。そして、

「万芽、どこにいるのよ。出てきなさいよ。ねぇ」

 と叫ぶ。しかし返事はない。

 次に向かったのは台所である。彼菜の知る限り、この平屋の中で調理できる空間はここしかない。包丁などの調理器具が使われた形跡は一切なく、誰もいない空間は続く。

 かつんこつんと棒がぶつかる音が家屋中に何度も、再び木霊す。ただ今回は一部屋ずつ、隅々まで隙間なく響く。ふすまを開け閉めする音も、再び。

 やがてたどり着いたのは彼菜の愛用している部屋だった。最後にそこを見て回ってから、彼女は棒を傍に置き、布団に入ってしまう。天井を見つめても眉尻を下げるばかりで、数度の寝返りの後、眠りについた。

 人間の娘が眠りについてしばらくすると、外へと続くふすまから万芽が現れた。遠くから彼菜の寝顔をじっと見つめる。

 しばらく見つめた後に目を閉じて、はは、と弱弱しく笑う。軽く首を傾け、目を閉じて、近づこうとはしない。

 ぺろり、と嘴が濡れる。それから再び、はは、と。

「彼菜、すまないねぇ。怖い思いさせちまって、さ」

 笑って、呟いて、踵を返す。照らされているように見える彼女の巨体は闇へと飲み込まれた。

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