ウィーンを北、西、南の三方向から囲む〈ウィーンの森〉は、緑深き丘陵地帯。アルペンフォアラントとも呼ばれるこの地はヨーロッパ中央部をよこぎるアルペン山脈の一部であり、山脈の最北に位置している。

 その南の森に、ルドルフ皇太子が悲劇の死を遂げたマイヤーリングの狩猟場がある。

 地図上、そこから北東に目を転じたところにはハイリゲンクロイツ――ここは十二世紀に設立されたハイリゲンクロイツ修道院で有名な街だ。ちなみにハイリゲンクロイツ修道院を建てた辺境伯レオポルド三世の孫が、デュルンシュタインのケーリンガー城にリチャード獅子心王を誘拐・幽閉してローマ教皇から破門されたオーストリア公レオポルド五世である。

 

 それはまあいい。

 元諜報員で元死刑囚で煙突掃除夫のドミニクが【反転城】の所在地として報告した座標は、マイヤーリングとハイリゲンクロイツを結んだちょうど中間地点の山中であった。

「紡錘形とはおそれいったな」

 馬車を降りて、二分間きっちりと〈城〉の全景を眺めると、オスカーはそう言った。

「本気でひっくりかえそうというのか」

「……世界のほうを」

 エーリカは控えめに呟いた。

「なるほどね」

 腐葉土の森の地面につきささる【反転城】はあたかも卵を縦にひきのばしたようなかたちだ。上下の概念を捨てているのだ。ただ、この重力の世界では構造的な不安定さを免れないため、鉄骨の補強がなされている。斜めに穿たれて四方から城を支える杭はおそらく岩盤まで達していよう。

 【反転城】とはいえ、城がさかさまにひっくりかえるわけではない。

 に錯覚を起こさせるのだ。

 そのによって。

「『仮現の形。虚妄の詞。心を転じ、境を転ず。ここにあれ。またかしこにあれ』――メフィストーフェレスの魔術のなかに入っては、現実を見極めようとしても仕方がないな」

 習慣で取りだしかけていたメモ帳を、『ファウスト』の台詞を諳んじながらオスカーはポケットに戻した。

 後続の馬車から、タマを筆頭に男たちが降りてくる。武装した官憲だ。十五人程度というまにあわせの先遣隊ではあるが、オスカーが短時間で当局を動かしえたのは某・老政治家の力であろう。

 そのなかでタマはただひとり正装である。

 白虎ヴァイス・ティーガーの毛皮をまとい、軍隊ズボンの上に百花繚乱な刺繍の朱いキモノヤパニシェス・クライト。華奢な腰骨からは古びた銀バックルのついた革ベルトの端を揺らして。

 倒錯の戦装束。それこそがシャシュ・タマーシュの正装。

Hojotohoホヨトホー! Hojotohoホヨトホー! Heiahaハイアハ!! 」

 固まった体をのばすと、枯れ葉の上で狂乱したように跳びはねてまわり、森に戦乙女ヴァルキューレの歓呼を谺させた。

 建設地まで舗装整備された道には縦列に馬車が並び、城のなかが無人の空っぽではないことを教えてくれる。灰色の城には窓がひとつもなく、銃眼のようなものもみられない。

 一行は正面突破の一本道に踏みだした。





 玄関について語るべきことはない。この【反転城】の意味はその内部にある。扉を閉めて外部を遮断したときから、それははじまる。

 それがはじまる。

 反転への誘惑が開始される。

 案内者などいない。

 かたちによって誘われるのだ。

「『創世記』の〈ヤコブの階段〉は昔から多くの画家に好まれてきたモチーフだが、階段を螺旋状に描いたのはウィリアム・ブレイクが最初だとされる。それまでの画家はみな、まっすぐの階段を描いている」

 壁にそって螺旋にめぐらされた階段を昇りながら、オスカーが言った。

「『ヤコブの夢』という絵ね。先生の書斎で模写画集を借りた。ブレイクの関連書はほとんど揃っていたと思う、どこの図書館よりも充実していたから。ダンテの『神曲』につけた挿画を先生はイギリスに観にいったこともあるって……」

 イギリスの詩人で画家で銅版画職人であったウィリアム・ブレイクはまた、幻視者の系譜につらなる人物でもある。

「ダンテにブレイク、それじゃあスヴェーデンボリなんかも読んでいたのじゃないか?」

 オスカーの口調は皮肉げだ。

「スヴェーデンボリ、あった」

 いずれも異能を以って覗いた神秘の世界をつまびらかに記して遺した人物たちだ。有名どころの幻視者たち。

 オスカーの皮肉はたやすく連想できる自分に向けたものだろう。

「言っておくけど僕は」

「天界も地獄も信じていないのでしょう。もう聞いた」

「うん……」

「目に見えるものしか信じないなんて、オスカーが言うと逆説的で面白い」

 彼にとっての唯一はっきり見えるものとしてのエーリカは、まあ、それでさんざん迷惑してきたのだが。

「褒められてるのか?」

「いいえ、同情しているの。私たちの現代人病に」

 懐疑と警戒をぴりぴりと漂わせつつ集団はなだらかな螺旋状の階段を上昇する。

 城の上半分はほとんど空洞だ。踏み外せばがらんどうの奈落。仰ぎみればアンモナイトの殻をおもわせる螺旋の階段の裏がわ。ふりかえると城の中心部をつらぬくのは四角錐の構造物。薄闇にしらじらと浮かぶピラミッドの底部が、【煉獄】と呼ばれる機関部分だ。

 螺旋の階段は城のてっぺんでどこにも辿りつかずに途切れた。採光の硝子天井からそそぐ黄金の光のなかで――。

 天使の楽隊は迎えてくれない。

「先生は受注の仕事では依頼人の趣味を優先したけど、【反転城】の設計には装飾性の入る隙を許さなかった」

 芸術は必要にのみ従うArtis sola domina necessitas

 あのひとの本当にやりたい仕事はそれなんでしょう、とベアトリーセは言っていた。最近ではわたくしたちはいつも喧嘩ばかりよ。だって装飾の否定は、わたくしの魂の否定じゃない。

「非装飾の可能性をつきつめるうちに、彼は〈階段〉にとらわれた……?」

 頂きから階段を俯瞰して、オスカーは建築家の頭蓋を透視するかのように呟いた。

 〈階段〉――そこにこそ、【反転城】の理論の基がある。

「階段は昇るものでもあり降りるものでもある。人々の願望や恐怖によって、階段の見え方は変わる。J・ジャストローが発表した錯視図と同じだ。あの〈うさぎにもあひるにも見える絵〉と――」

 さまよう魂を向こうにおくることが出来るのならば、向こうから魂を呼び戻すことも出来るはずではないか。魂を導く道があり、戻るべき肉体いえさえあれば、戻ってこられるはずではないのか。

 天上からの、地獄からの、

 この理論ゆえに城には、【反転城】という名が与えられた。

 途切れた階段はそこから垂直の螺旋階段でピラミッドとつながっており、ベンベネト――降臨の丘ベンベンを模したピラミディオンの片面に穿たれた入口から先は、トンネル状の壁にかこまれた階段を降りてゆく。

 しだいに階段は扇状にひろがって、そして【煉獄】に辿りついた。




 そこに彼女がいて少しも驚かない自分にエーリカは失望した。たしかに可能性のひとつとしてはありえた。だがエーリカは、ありえない、と信じていた。固く信じていた。

 とはいえ信じる気持ちは確信ではなくて、ただの祈りだったらしい。そうでなければこの現実はもっと鮮烈な衝撃と哀しみをともなったはずだ。

「お姉様」

 ベアトリーセは微笑んでいた。〈幸運な七月〉の結社員たちを従えて。

 柔らかく体の曲線を流れる象牙色のレースをまとい、亜麻色に輝く髪を垂らして。その美麗さが醸す支配力といったらまるで女神イシュタル――いや、その姉で冥界の女主人であるエレシュキガルのよう。

 両腕をひらいてベアトリーセは言った。

「エーリカ。せっかく再会したのに抱擁もキスもなしなんて味気なかったわよね。さあ。こちらへきて、わたくしへの愛情表現をちゃんとやりなおして」

 間髪を容れずオスカーがエーリカを制す。

「だめだよ」

 くすくすと口元に曲げた指をそえてベアトリーセが笑った。

「丁寧にこなしてくださっているのねオルフォイスさん。わたくしの依頼を」

 エーリカは怪訝に首をかしげる。

 ……依頼?

「余計なことは言うなよ? 慎重に運んできたすべてが無意味になってしまう」

 ベアトリーセを睨みすえてオスカーが低く返す。

「そう? でもわたくしは別に構わないのよ。本当のことを教えられたその子がどうなろうと」

 ……本当のこと?

 何の話をしているのだ。

「オルフォイス、だなんてココシュカもずいぶん悲観的な名前をつけてくれたものじゃない? でも大丈夫よ。だって、やりなおせないことなんてないのだもの」

「お姉様、わけのわからない話し方はもうやめて。頭が痛くなる。なぜ、お姉様がここにいるの。あなたはここで何をしているの。私から隠れて今まで何をしていたの。どうして【反転城】がもうこんなに完成しているの」

 機関部分――【煉獄】もすでに稼働できる状態にみえた。

 ドーム天井をもつ四角い室、この空間全体を【煉獄】という。一方にはエーリカたちが降りてきた階段があり、反対側にはさらに下りの階段口が闇色のあぎとをひらいている。あの階段は地の底につづいているものだ。

 【煉獄】の中央には十二の台座が屹立し、そのひとつに、一個の石棺が安置されていた。

「それで、エーリカ。鍵はもってきたのでしょうね」

 〈幸運な七月〉の結社員たちは十二の台座の影から銃器をかまえ、官憲の捜査員たちは階段を降りきらず壁に背をつけ突入の時機をはかっている。

「鍵? ……鍵を探していたのもお姉様なの。そうだったの。そんな……」

 ベアトリーセは〈幸運な七月〉の人質としてここに連れてこられているわけでもなく、むりやり協力させられているなどということもない。

 彼女の仕草ひとつで新たな結社員たちがやってきた。

 死体……いや、昏睡した人間が五人、六人と運びこまれた。数人がかりで空の台座に押しあげられる。ぐにゃぐにゃと力の抜けた体を物体のように扱われているのは、いずれも身なりのよい紳士に見える。地位があり、金をもっていて、そして……ほかに特筆すべき共通点があるだろうか。

 エーリカは模型上で経験した手順を脳裏にたどり、両手を握った。

 彼らにはあるというのか。

 にまつりあげられるべきものとしての共通点が――。

 あきらかな犯罪行為の進行をみとめ、官憲が〈幸運な七月〉に対して法手続きに則った行動に入る。警告の笛につづいて、投降が促された。

「【煉獄】で撃ちあいはやめてね。階段でやって頂戴」

 不快そうにベアトリーセが手をふる。

 そのときオスカーの背後のタマが耳聡く城内の気配に反応した。

「挟み撃ちってことっすか。さっきの玄関から三十名ほど来ますねー。官憲サンはそいつらを外に押しかえせ。こっち側は俺が面倒をみてやんよ」

 日本刀と柳葉刀を抜きはらい、タマはもたつく官憲の尻を蹴りあげて号令した。

「先手必勝ー」

 台座の影から〈幸運な七月〉が雪崩をうった。トンネルの隘路に誘いこむようにタマがキモノの裾をひるがえす。

 Hojotoho! Hojotoho! Heiaha!! 

 銃声と剣戟の響いてくる【煉獄】で、エーリカはただひとり残った姉と対峙していた。

「この贄たちは〈シャムハト〉の常連客なの。落とすだけお金を落として、最後にはみずから血と肉を提供してくれる上客というわけ」

 まるで改良服運動の展示会でデザイン意図をあかしてみせるように。優雅に語られる声とその内容の落差がエーリカに言葉を失わせる。

 オスカーが一歩、進みでた。

「資金と贄の調達のために〈シャムハト〉の娼館を開かせた。すべて、この一年のあいだにあなたが一から考えたことだな」

「ダヴィトの死で大口の出資者が怖気づいたらしいのね。設計者の抜けた計画を信用しない者もいたし。そうじゃなくても、彼が生きていたころの計画のままやっていたら、こんなに早くは完成させられなかったでしょうね。尋常じゃなくお金を喰うのよ、このお城は」

「エンゲルマンの家を荒らしたのもあなただ」

 アトリエから【反転城】に関する書類を持ちだしたのも、私邸の内部をめちゃくちゃにひっくりかえしたのもベアトリーセだったのだ。

「一応は、わたくしの家でもあったけれど」

「設計図を持ちだしたのは一年前。しかし、ある程度【反転城】の建設再開が軌道にのったころに、あなたは設計図に重大な欠落があることに気がついた。反転の装置を起動するための〈鍵〉が、足りないことに気づいた。それで――」

 オスカーは考えの瑕疵につまずいたように頭をふった。

「それならアトリエもぐちゃぐちゃになっていないとおかしい。なるほど、アトリエは整然と片付いたままだったからこそ、書類箱の空白が目についた。わざと目を向けさせようとしたんだな」

「〈鍵〉がどういうものなのかわからなくて、家中をさがしたのは本当よ」

「だが嵐のすぎていったかのような惨状は最近になって残した作為だ。〈女は存在しない〉というメモも」

 あれもベアトリーセが書いたものだ。「ユリウス・フェリックスもわざとか?」

 悪戯の暴かれていくことがベアトリーセは楽しいらしい。

「わたくしは筆圧が高くて」

 くすりと笑った。

 震える声でエーリカは呟いた。

「おかしい」

「ねえ、完璧な供給路だと思わなくて。あの柱の上で寝ている男たちが〈シャムハト〉の館で何をしたかわかる。何をしてもいいと言われたからって、本気にする馬鹿もそんなにいないでしょうと思っていたら、いるのよ。いくらでもいるの。紳士のふりして社会に紛れこんでいる鬼畜を炙りだして地獄に送れるのだから、われながら素晴らしい仕組みだとしか思えない。【反転城】で社会に有用な人間を復活させるための贄になれば鬼畜の命も少しは意味をもてるかもしれないわね」

 エーリカは激しく首をふった。

「お姉様、何もかもおかしい」

「あなたがいちばんおかしい、エーリカ」

 一歩前にいるオスカーをすりぬけて、冷たい言葉の矢がエーリカにつきささった。

「どうしてダヴィトを裏切ったの」

 零度に燃えたつ怒りをベアトリーセの瞳に感じてエーリカは後ずさる。

「私は、裏切ってなんか……」

「ダヴィトは物事を曖昧にはしない。あなたに想いを伝えたのはわたくしと同居を解消した後だったはずよ。まさか、それでも姉に遠慮して心をねじまげるなんて、自立したひとりの大人としては恥ずべき行為だということぐらいわかるわよね? どうしてあなたはダヴィトを捨てたの」

 弾劾の矢が、エーリカの体をばらばらにする鍵穴に、狙いたがわず刺さった。

「私は……」

 エーリカの踵は階段につきあたった。

 もう逃げ場がない。

 これ以上は逃げられない。

 自分のなかの真実が、ベアトリーセの怒りに反応して暴れている。外に出たがって暴れている。〈私〉から目を背けつづけるのはいい加減にしてくれと言っている。

 私はダヴィト・エンゲルマンを愛していた。けれど私はダヴィト・エンゲルマンの想いを受けいれなかった。愛する姉ベアトリーセに忠誠を通したかったからではない。そうではないのだ。それは欺瞞にまみれた言い訳だったのだ。

 私は、私のことだけを見てほしかった。

 先生が私を必要としていたのは本当だろう。愛してくれてもいただろう。大切に育ててきた弟子を愛憎劇の泥沼に陥らせることがわかっていて、なおその罪をひきうける覚悟で、先生はベアトリーセよりも私を選んだのだから。でも私は、その手をとらなかった。私は私のことだけを見てほしかった。私は先生のベアトリーセへの愛を、知りすぎていた。上手くいかなかったものだとしても、彼と彼女の愛が本物だった時間ときをいちばん近くでみていたのは私だ。

 私の父は、母を愛しながら同時に外にも愛人をもっていて、私の母も、クレーフェ伯爵夫人のまま今では愛人と暮らしている。人間の愛とはそういうものだと私は思っている。そして、先生の過去の愛さえ許容できなかった自分のような人間は、とても傲慢なのだと私は知っている。

 知っているのだ。

「私はきっと地獄のいちばん深いところにゆく魂。そんなことはわかっている」

 地獄の底のどんづまりは、恩義ある人を裏切った者が堕とされて氷づめにされるところだ。

「エーリカ」

「見ないで、オスカー」

 鋭くエーリカはオスカーにふりむくことを禁じた。

 恩人も、肉親も、自分自身の心さえ信じることをしなかったエーリカ・フォン・クレーフェ。それでもまだ、この真実は地獄まで自分の胸だけに抱いていくつもりの、狡くて傲慢な人間。こんな女の姿を映したら。

 彼の美しく正しい氷青の瞳が、けがれる。

「ねえ、いい加減にしてくださる」

 要領をえないことに痺れをきらしたベアトリーセが、【煉獄】の稼働スイッチに歩みよる。

 天井から垂れさがる武骨な鉄の鎖を手首に絡めて一気に引いた。

 足元で歯車の回りはじめる音がする。ニコラウス・オットーの4ストローク・サイクル内燃機関を動力とし、遊星歯車機構をもとにした駆動装置によって、【煉獄】の核心が起動する。

 幾重もの黄金の環がせりあがり、屹立する台座をめぐって三百六十度に回転する。次第に高速化し、残像が黄金の半球ヘミソフィアかたどった。ひとつひとつの環には、〈日のもとに出現するための呪文〉の陰刻――。

 模型の段階からさらに洗練を経ているが、基本構造はそのままだ。

 黄金の残像によって隠される半球のなかで起こることは、人知の預かり知るところのものではない。エーリカはかつてそれを、〈闇色の秘密〉シュヴァルツ・ゲハイムニスと戯れに呼んだ。内部のつくりや動作原理を理解せずとも人々が機械を使いこなす時代が到来している。ならば〈闇色の秘密〉とて、技術者の手を神の手に置き換えたというだけのこと。

 ただ、稼働の契機にはもうひとつ理屈が必要だろう。この【煉獄】の足元には、そっくり同じ容積を逆さにした空間がとられている。半球をかたどる黄金の環は床下でも同じ半球を描いているわけだ。床材を透視できればそれは完全なソフィアだ。回転の加速につれそれまで明るかったドーム天井の照明は徐々にしぼられ、まるで砂時計の砂がしたたりおちるように、足下の虚無空間で新たに点った微光がそっと膨らんでゆく。

 〈闇色の秘密〉を抱えた黄金の球のまわりは、天のそれも地のそれも薄灰色に近づいてゆく。そして天と地の光量が均衡にいたった瞬間――そのとき、反転の可能性はようやく整うのだ。


 ――鍵を、君に預けておく。


『もしも私に不慮のことが起きたら、その先の判断は君に任せたい』

 と、先生は言った。『あの〈鍵〉なしに〈反転〉は完遂されないようにしてある』

 最後に呼びだされた日のことだ。

 助手としてアトリエに戻るつもりはないかと初めに先生は訊いたが、エーリカの決意に変わりはないと承知した上での、それはの問いだった。前と同じいいえナインをくりかえすだけでもエーリカの胸は精一杯で重たかったが、答えじたいは揺るぎがない。では第二希望を伝えるよ、先生はあっさり頷いた。先生は他人行儀な言い方はしない。物事を曖昧にせず、はっきりと伝えたがるひとだ。

『不慮の……?』

 エーリカは不穏な単語に眉をひそめた。

『それが完成後なら、私の意図をはなれて【反転城】の計画が暴走するということもありうる』

 先生は街路からリングシュトラーセ沿いの建築群を眺めていた。

 栄華の果ての荒野に建ちならぶ様式のカタログ。

 虚飾の環。

 すべてがそこにあるようでいて何一つわれわれのものなどありはしない。

 何もない。

 街全体が歴史と主義の博物館と化した黄昏の帝都。

『そのときは私が〈鍵〉を壊せばいいんですね』

『君のしたいように。それでいい』


 【煉獄】の灰色にかすんだ空気は、生者の世界と死者の世界の融合かさなりを意味する。

 ふいに、エーリカの足元に真っ赤な毛糸玉がころがった。誰かがそれを拾って通りすぎた。姿は見えず、足音だけがぱたぱたと響く。どこか遠い地の底で、軍隊式の行進の音がする。かとおもえば、細切れの交響楽が南東の風コシャヴァのごとく気まぐれな音圧で耳にとどく。

 ふりむくことを禁じられているオスカーが、居所をなくしたように天を仰いだ。片腕の肘をもう片方の手でつかみ、くいこんだ指が漆黒の生地にしわをきざむ。何事かに耐えて踏みとどまる姿勢でオスカーはうつむいた。

「あらどうなさったのオルフォイスさん。具合でもお悪いのかしら。それは困るわ。あなたがいないと、妹から鍵のしくみを教えてもらえませんから」

 オスカーは貌をあげてベアトリーセを牽制した。

「それはエーリカが決める」

「間違えないでいただきたいわ。依頼をしたのはわたくしよ、オルフォイスさん」

「お姉様……?」

 ふたたびベアトリーセの話が不可解なものとなり、エーリカはまばたきを増やした。

「エーリカ、聞いていた? オルフォイスさんに依頼をしたのはわたくしなのよ、エーリカ。そうよエーリカ、あなたを探してつれもどしてほしいって、わたくしが依頼したの。視えざるものをご覧になれる〈幽霊卿〉にね」

「ベアトリーセ。だめだ、まだ……」

「待って、オスカー」

「構わないでしょう? だっていくらでもやりなおしはきくわよ。これが成功すれば次はダヴィトを。〈シャムハト〉たちだって生き返らせてあげるつもりよ。あの子だって資格はあるわ。ダヴィトの偉業を支えた功労者だもの。鍵さえよこせば、裏切りの罪もそそがれるのだし――」

 待って、私に考えさせて。エーリカは痛みの気配の差しはじめた頭蓋をふった。頭に手をやる。私に考えさせて。私がここにいないみたいに話さないで。〈女は存在しない〉。違う。いいえ、そんなことはない。私はここにいる。私はここにいる。私に考えさせて。

 じゃないと、私は。

 〈私〉は。


 ――悍馬のいななきが耳を聾した。


『もしものことなんて絶対にないようにしてください。でも、わかりました。第二希望まで断ったら、アトリエの日々まで嘘にしてしまいそうだから』

 エーリカは了承し、頷いた。『ただ……最後にひとつだけ、訊いてもいいですか。なんとなく、訊きそびれていたことなんですが』

 どうぞ何でも、と先生は首肯した。

 エーリカは顔を少しかたむけ、傍らの先生を見あげる。

『先生は、誰かのお墓の前で泣いたことなんてあるんですか。本当に誰かをどうしても死者の世界からとりもどしたいと希ったことが、先生にはあったんでしょうか。ギリシャ神話のオルフォイスみたいに?』

『ないよ』

 先生は街並みを眺めたまま答えた。

『【反転城】は、そういうものではないよ』

 エーリカの距離でしかわからないほど僅かに、その横顔に辛辣な笑みがうかんだ。

『建築家は……』

 馬のいななきが夕暮れを裂いた。

 音にふりむいたときはすでに視界が茶色で埋めつくされ、大粒の汗のきらめく馬首の下にエーリカは立っていた。背中を押されて足元を失った直後、衝撃と破壊の響きを真後ろに聞いた。エーリカは悲鳴をあげる。だが声が喉から迸るまえに、割り砕かれるような痛みがこめかみを貫いた。エーリカは地面に落ちた。意識が水切り石のように点々と跳んで、瞬くごとに野次馬と血だまりが倍々にひろがって、騒がしく聞こえていたすべての音が遠ざかってゆく。やがて重たい暗黒の泥がエーリカの体をすみずみまで捕え、底なしに深い沼のなかへと沈めた。





 地の底へとつづく階段を先生が上ってくる。

 城の造形者にして主である彼は、いつでも城のなかを建築家の眼でめぐり歩いている。その仕事は最後まで彼に責任と権限がある。死者となっても、なお。

 建築現場でいつも彼がそうだったように、アトリエと同じく袖をまくったシャツ一枚の姿で【煉獄】に現れ、階段口の壁に背中を凭れた。

「先生……」

 エーリカはたったそれだけ言えた。

 眼前にいるオスカーの全身に怒りが満ちてゆくのがわかる。

 制御できない憤りにかすれる声でオスカーは言った。

「建築家は最大の犯罪者だ」

 断罪――。

「無論。人間は建物にその存在を規定されてきた。ひとつの城塞が一国の興亡を決し、歴史を左右することもあった。虚構と欺瞞の技巧を凝らして聖堂は神の言葉を独占する装置となった。つねに建築家は権力の側にいた。建築の犯罪性はあきらかだろう」

 あのとき、リングの空虚な建物群カタログを眺めて先生が呟いた言葉。『建築家は最大の犯罪者だ』その横顔を、エーリカは鮮烈に憶えている。罪のもたらす悦びに濡れた、その声を。

「先生」

 さまよいつづけた救われない魂が、天の梯子ヤコブのはしごを見たように、エーリカはダヴィトを仰ぐ。

 そうだ。

 私はあのとき、先生と一緒に死んだ。

 暴走する馬車に轢かれて、共に、死んだのだ。

「オスカー、私は、思いだした」

 オスカーがふりかえった。

 死したる妻を冥界から連れ戻すまでふりむくことを禁じられた、Orpheusオルフォイスが。





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