五  一切の望みを捨てよ、我を入る者

 Vexilla regis prodeunt inferni.

――地の獄のルチフェロの幟ぞ出でましぬ。






 シャシュ・タマーシュというマジャール人は、飄々として神秘的な佇まいからつねひごろ何を考えているかわからないように見えて、そのじつ至極明快な行動基準に従って生きてきている人間であった。

 危険きわまる場所からはとっととずらかるが、退屈でつまらない場所にも長居しない。

 この行動基準を以って彼は己自身を、と自認している。

 タマーシュは主人が近くにいない折をつかまえて、エーリカに喋りかけた。

「俺の勘が告げています。なぜに俺みたいな流れ者がオスカーの従者なぞ勤めているのかをあなたは知りたがっておられると。ええ、人品の本当のところを知るには、利害関係のない他人から人物評を得るのがいちばん確実。これは俺が死地をくぐりつつ磨いてまいった“生き抜くすべ”の一つでもあるんです。さて、オスカーことヤーコプ・ヴィルヘルム略してオスカーについてですが、あれは悪い人間じゃありません」

 口調はやはり飄々としたもので、選ばれた言葉以上の意味を含ませない。

「そりゃもう、びっくりするほど、悪い人間じゃないのです。俺は地球の四分の一くらいの土地は踏んできたやくざ者ですが、万国共通してたいてい人間というのは悪いものです。ほとんど誰しも日常的に平凡な悪事をしでかしながら生きております。貴賎も金の余裕のあるなしも関係ない。悪というのはどこにでも、〈支配〉というかたちで現れるものなので。赤ん坊ですら、依存心からの泣き声ひとつで母親を支配しようとするんですよ。人間とは悪こそが普通で、悪こそが凡庸なのです。しかしここウィーンでオスカーに会って俺はびっくりしました。こんなに綺麗な人間がいるのかと驚きました。外見ではなく、心がね。あいつはどんな局面でも悪手を打ったことのない百戦百勝の天才チェス打ちみたいな奴です。あいつの金ぴかな頭のなかには、醜いことや狡いことが最初から選択肢にないらしい。いつ何どきも、〈善〉の見本を実行しつづけて間違わない人間。それが俺には刺激的なんですよ。とても面白いんです」

 凡庸なるタマーシュにとっては、眺めているだけで未体験な娯楽の得られる珍品なのであった。

「キーナには【鶏群の一鶴】という言葉があります。結論としまして、オスカーって鶴っぽいよね、ということで納得していただけましょうか」

 鶴、という呟きが落ちる。

 タマーシュは遠くから伝わり響いてくるアリアに耳をすませる表情をして、エーリカが鶴のことわざの解釈のためにかける時間を待った。

 ――ヨーロッパにむかし読まれた動物寓意譚では、鶴は片足に石をもって寝ずの番をする夜警の鳥。睡魔が襲うと石が落ちて大きな音をたてるから。眠りヒュプノスと通じるタナトスに抗うもの。でも北欧ケルト神話では、鶴は不吉なものとされている――

 傍目には読みとれぬほどわずかにタマーシュの表情が笑みに傾く。

 彼の主人とエーリカは、同じ欠点をもっている。

 知識の詰めこみ病。

 頭で考えすぎなのである。

 オスカーの蔵書数は人見知りによってもてあます暇に比例しているが、エーリカのそれは夢の実現のための努力だという点で、まったく似て非なる二人だったりもする。

 これが吉と出るか凶と出るかは、未知なる娯楽の展開次第だ。

 主人がエーリカを目印にまっすぐ歩いて戻ってきたので、タマーシュは飄々と話を切りあげた。

「だからオスカーをよろしく、とは申しません。善悪の尺度は人それぞれなので。ただ、ご参考までに」





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