眼鏡女子、卒業します
眼鏡を外すと、辺りは一瞬にして虚構の世界になった。
三桁に達するであろう視力を通して見る人の顔は、うごめくアメーバみたいで気持ち悪いが、星がまたたく夜空は眼鏡のレンズを通して見るよりずっときれいだ。
風景がぼんやりと溶け合う様を見ることができるのは、視力の悪い人の特権なのだ。
世の中に眼鏡があって本当によかった。
私はクラスの女子で眼鏡をかけている最後の生き残りだ。
不便だったから、顔が明るくなるから、洋服と合わないから。それぞれの理由でみんながコンタクトレンズに移行していく中、私はまるで意地のように眼鏡をかけ続けた。
「梨緒もコンタクトにすればもっと可愛くなるのに、もったいないなぁ」
友達がそう言うたびに私は、
「ほら、コンタクトって色々と大変じゃん。だからもうちょっとしてからでいいかなって」
そう誤魔化してきた。
私だって眼鏡が大好きでかけているわけじゃない。医者に眼鏡が必要だと言われたときはショックだったし、眼鏡をかけないと読めなくなってしまった黒板を恨めしく思うことだってある。
それでも私が眼鏡をかけ続けるのは、ちゃんとした意味があるのだ。理にかなっているかどうかはわからないけど、私個人としてとても重要なことが関わってくる。
大泉大地。
世の中には子どもに信じられないような名前をつける親がいるが、彼もその被害者の一人だった。これで、おおいずみだいちと読む。まるで野生児のようなその名前の通り、彼はスポーツに生き、スポーツに死にそうな根っからのスポーツ野郎だった。
小さい頃、サッカー選手になるか野球選手になるかを一ヶ月悩み続けた結果、アメフトを選んだというのだから正真正銘のバカだ。
それでも彼が放課後のグランドで泥まみれになっているのを見ると、たまらなく走り寄って行って、タオルでも飲み物でもを差し入れたいと思う私も相当なものだと思うが。
とにかく私が眼鏡をかけ続けている理由は、こいつなのだ。
大地の気を引くために、私は眼鏡最後の生き残りとして有名になろうとしているというわけだ。
アメフト部の朝は早い。冬のうちなどはまだ真っ暗な時間に家を出て、やわらかな朝日を浴びてボールを追いかけている。
そんな彼を見たいがために一番のりで教室に入る私は、最近違う意味でも有名になりつつある。
「おふぁ、よー。相変わらず早いね、梨緒は」
「まあね。けど今日は間に合わなかったのよ。なんか知らないけど、今度の地区大会に出場が決まったらしくて、猛特訓だってさ。私はいったい何時に起きればいいっての」
眠そうにあくびをかみ殺しながら入ってきた佳織に、私はさっそく今日仕入れたネタを話し始める。
佳織はアメフト部のキャプテンが好きらしいが、そいつのために貴重な睡眠時間を減らすほど酔狂じゃないらしい。
「三時半に起きれば確実だろうね」
「冗談でしょ。ただでさえお弁当のレパートリーが減ってんのに、これ以上早起きしたら毎日コンビニ弁当になっちゃうよ」
「どれどれ、今日のおかずはなにかな?」
佳織が楽しそうに、机の横にかけてあった私のカバンを探り始める。携帯やらMDプレーヤーやらを、ガチャガチャさせながらまだほっこりと暖かいお弁当箱を引きずりだした。
いつものことなので私も佳織の好きなようにさせておく。文句を言ったところで手を止める彼女じゃない。
「お、いい匂い。今日は……肉じゃがだね。それとキムチ?」
鋭い嗅覚でおかずを言い当てる佳織に、私は指で当たりのポーズをしてみせた。
「キムチは昨日の残りで、肉じゃがは今朝作った。二品だけど朝の忙しい時間には、これが限界。寝癖とる時間を削って作ってるんだから」
私はそう言うと物欲しそうな危険な目つきをしている佳織から、お弁当箱をさっとかすめとった。急いでカバンの中にしまい、しっかりとチャックする。
「でも梨緒はえらいよね。自分でお弁当作ってるんだもん。私だったら絶対にいやだけどなー。だって睡眠時間は減るわ、お弁当は自分で作らなきゃだわで、ダブルで損じゃん」
未練がましく私のカバンを見つめていた佳織は、諦めたように顔を上げると言った。
「いいの。その分きっちりと得してるんだから」
「見てるだけで得してる気分味わえるうちが華だよね。欲望なんてさ、際限なく出てくるじゃん。メールしたい、付き合いたい。私なんて見てるだけで満足、なんて時期とっくに過ぎちゃったよ」
「その欲望ってやめてくれない? なんか響きが悪い」
私はいやそうに眉をしかめてみせた。佳織は私の顔を見て楽しそうに笑っている。
「梨緒はいったい何を連想したのかなー?」
始業のチャイムが鳴り、自分の席に戻っていた佳織の後ろ姿を見送りながら、私は密かにため息をついた。
本当に見ているだけで満足する人なんて、いるわけないじゃないか。
その日の放課後、私はない根性を振り絞ってアメフトの部室に行ってみた。と言っても、色々な部室がずらりと並んでいる廊下を歩いているだけなのだが。
高校に入ってからは専ら帰宅部だった私には、そこは全く関係のない場所だった。入学する前に見学に来たきりだ。
六時間目の授業を終えた生徒たちが続々と地下一階に下りてきては、それぞれの部室へと消えていく。
獣じみた体操部の生徒で溢れかえり、地下は独特の匂いが漂っていた。
私はできるだけその空気を吸わないように呼吸を小さくして、話のわかりそうなアメフト部の人が降りてくるのを待っていた。
と、見覚えのある顔が階段を下りてきた。毎日アメフト部を影からウォッチングしているおかげで、いまではほとんどの部員の顔を覚えている。
アメフト部にしては小柄な――それでも普通の男子高校生と比べたらごつい――その男子に、私は意を決して近づいた。
「あ、あの」
まさか自分が話しかけられているとは思わなかったのか、その人は私の声を無視するように通り過ぎようとして回りに自分しかいないことに気がついた。
「俺に言ってる?」
私は救われたような思いで二度頷いた。
「大泉、君いますか? 私、二年の斉藤ってい」
「え、斉藤。って、あの斉藤か?」
その人は私の言葉を遮るようにして訊いてきた。一瞬なんのことかわからなかったが、咄嗟に私の脳裏には眼鏡のことが浮かんだ。
もしかしたらアメフト部の中でも有名になったのだろうか。
首を傾げている私と体のでかい彼が道をふさいでいるため、ただでさえ狭い廊下が通行不能になってしまっている。
彼は私を奥へ入るように促すと、まるで刑事が名前を確認するようにどこかひそめたような声で言った。
「弁当の斉藤?」
そのとんちんかんな質問に、私は間の抜けた声を出した。ベントウ、って弁当のことか?
「えーと……弁当って?」
「あ、いや。弁当を自分で作ってるやつが二年にいるって聞いてさ。しかも朝早くから時間かけてすげぇの作ってるって。そいつの名前が確か斉藤って。同じクラスのって言ってたから……、きみC組?」
「はい、C組ですけど」
私の頭はフル回転していた。なぜ弁当のことを知っているのだろう。いやそれ以前に、なんでそんなことが有名に……。
私が考え込んでいるうちに、その人は部室に顔だけ突っ込むと体に負けない大きな声で大泉大地を呼んでいた。
「おーい! 大泉、ちょっとこっち来い」
ぎょっとして部室の方を見た私を、彼はにこにこと見ている。
「なんすか、キャプテン?」
奥から大地の声が返ってくる。
「え、キャプテン? キャプテンだったんですか?」
私は隣でにこやかに笑っている彼を見上げた。私がウォッチングしているときのキャプテンは常に怒声を張り上げ、すごい形相をしているから、彼がキャプテンだと気づかなかったのだ。
ということは、キャプテンに私の弁当のことを言ったのは佳織だ。まったく、いつの間にキャプテンと付き合っていたのだか。ちゃっかりしていることだ。
「ほら、前に話したろ。うまい弁当つくる子が来てるぞ」
「おぉー、マジ! 俺、きみに頼みたいことがあったんだよ」
突然のお願い事に、私の心臓は寿命を縮まらせるぐらい早く脈打つ。
「あのさ、頼みにくいことなんだけど」
早く言ってくれないと貧血でも起こしてぶったおれそうだ。
「俺の分も弁当作ってくんないかな?」
私はいまどんな顔をしているのだろう。あまりにも現実離れしたその一言に、私の思考はどこかに投げ飛ばされてしまった。
「こいつな、親が作る弁当だけじゃ足りねぇって言うんだよ。それだけでも十分な量なのに。で、俺がきみのことをちらっと話したら、ダメもとで頼んでみるとか言い出しちゃって」
私たちの会話の成り行きを見守っていたキャプテンが、真っ白になってしまった私に助け船をよこしてくれる。
「断ったほうが無難だぞ。こいつの食う量はゾウ並だ」
「ちょっと、キャプテン。おどかすようなこと言うなよ」
でかい男たちが冗談混じりに小競り合いを始めた。
私はまたとないチャンスに乗ることにした。大地の弁当を作るために、さらなる早起きが必要になるとしても本望だ。多分。
「いいよ。私で良かったら」
大地が弾かれたように私を見た。その隣でキャプテンが目を剥いて、お手上げをした。
「やった! もちろん食材の金は出すからっ」
「いや、そんな」
喜々として話す大地の言葉に、私は慌てて首を横に振る。
「もらっとけ、もらっとけ。破産したくなかったら」
キャプテンが悟ったような目で言うので、私は素直にその提案を受け入れることにした。
「それじゃあ、さっそく明日からでもいいか?」
私が頷いたのを確認すると、大地は満面の笑みを浮かべてキャプテンと共に部室の中へと入っていった。
一人残された私は呆然としながら思った。
明日からはコンタクトレンズにしよう――。
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