僕の一ページ
懐かしい声がして、僕は反射的に後ろを振り返った。
けれどそこにいるのは、会った瞬間にはもうその存在を忘れている見知らぬ人々だけだった。
一人の女性が、突然振り返った僕と偶然目が合ってしまい、気まずそうに視線を逸らした。
僕は慌てて前に向き直り、睨み付けるように赤く表示された信号を見る。
新宿西口の交差点は金曜日の夜だというのに、携帯で仕事の打ち合わせをしているサラリーマンばかりだった。
僕はその人混みに飲まれながら、自分がその一員となってしまっていることに何とも言えないやるせなさを感じていた。
清潔感と若さを感じさせるのがウリのスーツに身を包み、履き慣れない革靴に悲鳴を上げている足を無理やり宥める。
今の会社に入社して二週間目。一回目の研修期間をやっと終えたばかりだが、早くも僕は転職を考え始めていた。
上司との関係は悪くない、出身大学を考えれば給料だってまずまずだ。
けれど入社当初から薄々感じていた、ここは僕の居る場所じゃないという思いは日増しに強くなっていくばかりだ。
いつの間にか青に変わっていた信号を受けて一斉に歩き出した人混みの群れに乗っかって、僕ものったりした動作で歩き出す。
それにしても先ほど聞こえたのは、確かに彼女の声だった。
大学卒業と共に僕を振ってくれた、木下朝香。今頃はきっと一流企業の新人として、さぞキャリアウーマンの卵を満喫していることだろう。
必死こいて就活しまくった僕と違い、朝香は親のコネを使って有名な出版社にこともなげに就職してみせた。
嫌な現実をまざまざと見せつけられた気がして、僕は羨ましいのを通り越して呆れかえってしまった。これが社会ってものか、と。
「そうそう、そのお店で待ってて」
考え事をしながら歩いていたにも関わらず、僕は光の速さで声のした方を見た。
一気に目が覚めた。
そこに居たのはまぎれもなく朝香だった。けれど、いやしかし、僕の想像していた朝香とは百八十度違う彼女が携帯を片手に楽しそうに話していた。
「朝香……」
思わず口をついて出た小さな声が彼女に聞こえたとは思えないが、朝香はゆっくりと僕の方を見ると、心底驚いた表情を浮かべた。
朝香は携帯を切ってから、人をかき分けるように僕に近づいてくる。
僕の心臓は激しく脈打っていた。朝飯抜きで満員電車に乗った時のように、あまりの早さに体がついていけず、気持ちが悪くなった。
もう朝香は目の前まで来ている。僕が逃げる必要などないのに、この場から走り出してしまいたくて堪らなかった。
「櫂……ひさしぶり」
朝香はそう言うと、あの頃とちっとも変わらない仕草で自分の髪をいじった。
「ひさしぶり」
なんとか声を押し出す。いま僕はどんな顔をしてるんだ? 情けなく狼狽した顔をしていないことを祈りつつ、僕は必死で言葉を繋いだ。
「朝香、なんていうか変わったな」
「そうかな?」
朝香は何でもないことのように笑いながら、自分の格好を見た。
それは変わったというよりは、変わっていると言った方がいいかもしれない。
胸元がざっくり開いた緑色のセーターは、体のラインを強調するようなぴったりしたもので、中に着ているキャミソールのレースがなければブラジャーどころか胸が丸見えになってしまうだろう。
ボトムスだってキャリアウーマンの図に激しく反する、スキニージーンズをウェスタンブーツの中に入れたラフなものだった。
「今日、仕事休みだったのか?」
僕は思わずそう聞いていた。だって朝香の格好はどう見たって、オフィス街を歩く帰宅途中のOLではなかったのだから。
朝香は一瞬困ったように顔を歪めると、驚くほど明るい声で笑い出した。
「まあ、休みって言ったら休みかな。と言ってもずっと休みのようなものだけど」
意味が分からず眉をしかめた僕を見て朝香は、相変わらず鈍いんだからと呟いてから言葉を付け足した。
「仕事辞めたのよ、私。今はフリーターやってるの。新宿のショップ店員」
僕は驚きのあまり言葉を失った。なんでとかどうしてという質問が頭の中をぐるぐる回りすぎて、逆に選ぶべきセリフが思いつかない。
「やだ、そんな顔しないでよ。クビにされたんじゃなくて、自分から辞めたんだから」
そりゃ、そうだろうと思った。新卒として雇った社員を二週間かそこらで辞めさせる企業があるわけない。
「いや……でもせっかく第一希望の、しかも一流企業に就職できたのにこんな簡単に。だから僕とも」
僕は慌てて言葉を押し込んだ。危うく未練たらたらの最低の男に成り下がるところだった。
朝香は自嘲気味に笑うと、一度はしまった携帯をバッグから再び取り出した。
「ちょっと待ってて。人と会う約束してたんだけど、そっちキャンセルしてくる」
僕から少し離れたところに言って断りの連絡をしている朝香を見ながら、僕は呆然としながら思った。
こちらのこれからの都合など全くおかまいなしで決めてしまうところが、まさに朝香らしい。ドタキャンされたこの後会う約束だった人も可哀想にな。
朝香はいつだって人を振り回すことについては天才的だ。
話がこじれているのか、朝香はなかなか戻ってこない。
この隙にいなくなってしまってもいいのだが、僕はもうすっかり逃げる気など失せていた。こうなったら、とことん朝香に付き合ってみるのもいいかもしれないとさえ思っていた。
人混みに見え隠れする朝香はうんざりしたように携帯を切ると、ようやくこちらに戻ってきた。
「まったくしつこくて困る。これであの人とも終わりね」
「頼むから、これからそいつの愚痴を延々話すのだけは止めてくれよ」
僕の言葉に朝香は小悪魔的な唇で笑うと、さっさと歩き出した。
朝香に連れてこられたのは、歌舞伎町の中にあるちょっと洒落たダーツバーだった。
人はちらほらいる程度で、金曜の夜にこんなに空いててよくやっていられると思うようなこじんまりとしたバーだった。
朝香は慣れた様子で店の一番奥のスツールに腰を掛けると、ドキッとするほど色っぽい動作で足を組んだ。
スカートじゃなくて良かった。僕が変なことに安堵している間に、朝香はスクリュードライバーを頼んでいた。
「櫂は、何飲む?」
「あ、じゃあジンジャー……じゃなくてスコッチで」
ソフトドリンクを注文しようとした僕を、朝香が意味深な目で睨んできたのだ。
「本当に相変わらずね、櫂は。そんなんじゃ出世できないわよ」
「うるせぇ」
朝香は何かを思い出したように僕の顔――正確には目?――をじっと見つめると、ふっと笑った。
「それで櫂は世の習いに従って、おとなしくサラリーマンやってるんだ。営業だっけ。楽しい?」
あまりにストレートな質問に、僕は咄嗟に返事を返すことができなかった。それはまさに僕がいま一番気にしていることであり、一人じゃ抱えきれないほど悩んでいることだった。
「楽しい。わけないだろ、仕事なんだから。もう学生じゃないんだ。好きなことばかりはやっていられないさ」
「ふうん、大人ぶっちゃって」
朝香は面白く無さそうにバーテンダーから差し出されたグラスを一気に傾ける。男の前で自らレディーキラーの異名を持つスクリュードライバーを頼む女は、朝香ぐらいじゃないかと思う。
「それよりさっきの続き教えろよ。なんで辞めたんだ。就職決まったとき、あんなに喜んでたじゃないか」
「まあ……ね。理想と現実は違うってとこかな。そりゃ私だって最初は燃えてたわよ。仕事一筋のキャリアウーマンになって、ブランドのスーツ着こなして、貯めたお金でマンション買っちゃうような女になってやるって」
でもね、と言うと朝香は半分ほどになったグラスを指先で軽く弾いた。
「毎日毎日、残業が深夜まであって、忙しい時なんて会社に泊まり込むこともザラで。女同士の抗争は激しいわ、上司は無茶ばっかり言うわで。同期で入った子の一人は鬱になって辞めちゃったし。最初からそんな目に遭ってみなさいよ。やる気なんて粉々に砕けちゃったわよ」
朝香はそう言うと、大きなため息をついた。心の底から滲み出ているような重いため息だった。
「……そうなんだ」
「そうなんだって、他にもっと言葉あるでしょ」
朝香が苦笑しながら、足を組み変える。僕は視線がそこにいかないように注意しながら、言葉を選んで話した。
「なんて言っていいかわからないんだ。辞めて当然だって言うのも無責任っぽいし、かといってそんなところにずっと勤めていけってのも酷な話しだろ」
「ほんっと櫂は変わってないね。いつだってくそ真面目に人のこと考えて、ちゃんと向き合ってくれる。……大抵の人はさ、そんな真剣に考えて答えないんだよ。もっと適当に軽く、その場だけ盛りあがればいいやみたいな感じで。中身も何にもない上っ面の話しばっかり」
僕がまたしても返事に窮していると、朝香はなんだか楽しそうにグラスの残りを飲み干した。お酒に弱い僕と違って、朝香は本当によく飲む。
僕はほどよく酔いが回ってきたことを自覚しながら、ふと朝香の横顔を見てぎょっとした。
一瞬泣いているのかと思った。
しかし朝香は眉を切なそうに寄せているだけで、泣いてはいなかった。正確に言えば泣くのを我慢しているようにも、ただ涙が流れていないだけのようにも見えた。
「朝香」
「ん、なに?」
「前みたいには話し聞けないけど……、もし悩んでることあったら」
「ダメだよ、櫂。……櫂は優しいから悩んでる人見るとほっとけないのはわかるけど、自分のことで手一杯のときまで人の悩みを一緒に背負い込んでどうするの。櫂はずっと私のこと支えてくれたでしょ。だから今度は私が櫂の悩みを聞いてあげるわよ」
朝香はそう言うと、今まで見たことない程の笑顔を僕に向けた。
不覚にもドキッとしてしまった僕に、朝香はいつも通りのいたずらっぽい顔で言った。
「そのかわり! 櫂の悩みが解決したら、今度は私の番。たっぷり付き合ってもらうからね」
朝香らしい提案に僕は思わず苦笑した。
グラスの氷が溶けて、澄み切った心地よい音を立てた。それは店内に低くかかっている洋楽にとても合っていて、まるで見知らぬ国のバーでグラスを傾けるハリウッドスターのような気分にさせてくれる。
「でも、よく僕が悩んでるってわかったな」
「そんなの簡単よ。櫂は悩み事があると、瞬きの回数がすっごく多くなるの。気づいてなかった?」
「そんなの自分で気づくかよ、普通。……え、じゃあ付き合ってた時、僕が悩んでることに気づいても無視してたってことか?」
僕はふと重要なことに気づいて、朝香に詰め寄った。
「まあ、ね。あの頃はそういうの面倒くさかったのよ。かなり最低の彼女だったわね、私」
朝香は僕の視線をするりとかわすと、悪びれた様子もなく笑いながら言った。
呆れて言葉も出ない。僕はため息のかわりに深呼吸をした。不思議と気持ちが軽くなっていた。
朝香から助言をもらったわけでも、ましてや話すらまだ聞いてもらっていないというのに、道を見失ってしゃがみ込んでしまっていた僕は、たった一時間話しただけで立ち上がっていた。あとは歩き出すきっかけの一押しさえあれば……。
「やれやれ、結局また僕が朝香の話を聞くことになるのか」
「なに?」
どうやら本気で聞いていなかったらしい朝香が、マスカラで大きくなった目を見開いて聞いてくる。
「いや別に」
「あ、そうだ! ここのお勘定よろしくね」
「は?」
「あら、まさか女性でフリーターの私と割り勘しようとしてたのかしら? ねえ、フェミニストの櫂くん」
瞬間、それまで存在すら感じないほど沈黙を守っていたマスターの目がぎらりと光った。
「やだ顔真っ青だけど、大丈夫? 飲み過ぎた?」
僕が財布の中身を想像して真っ青になっていることに、朝香はきっと気づかない。
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