禁煙席
「すみません、そこ禁煙席なんです」
僕の声が聞こえなかったのか、彼女は物憂げな瞳で窓の外を見たまま、小さくため息をついた。
「あの、すみません!」
さっきよりも大きな声でそう言うと、その女性は煙草を指に挟んだまま僕の方をゆっくりと見た。
「ああ、ごめんなさい、気づかなかったわ」
ほどよく茶色に染められたストレートの髪を耳にかけながら、彼女は携帯灰皿に煙草を軽く押しつけた。その仕草が妙に色めいていて、僕の心拍数が少し跳ね上がる。
歳は二十代の後半から三十代といったとこだろうか、ナチュラルメイクなのにすっぱりとあか抜けているのは、顔立ちがはっきりしているからかもしれない。
気の強そうな眉とは裏腹に、目元が妙に寂しげなのがとても印象的だった。
「喫煙席に、変えましょうか?」
もみ消した煙草を名残惜しそうに見ている彼女に、僕は思わずそう口走っていた。
「ん? いいのよ、ここで」
「そうですか、それではごゆっくり」
何か物足りなさを感じながらも、僕はくるりと向きを変えて歩き出そうとした。と、ふいに呼び止められた。
「ねえ……名前なんていうの?」
あまりにも唐突な質問に、僕は言葉を失った。
かなり間抜けな顔をしていると思うが、いきなり投げかけられた注文の内容が内容だけにしょうがないと思う。
数秒のうちに、色んな答えが僕の中を駆けめぐった。その中から一つの答えを選び出し、なんとかそれを口の外へと押し出した。
「小林陽平。……あの、もしかして逆ナンしてるんすか?」
違う、間違えた。これは俺が選んだ言葉じゃない。
と思うのに言葉は僕の意志をあざ笑うかのように、口から次々に零れていく。
「僕は答えたんだからさ、あなたも名前教えて……くれませんよね」
そこまで言ってから水をかけられたように、我に返った。
乾いた笑いと、苦笑いを足して二で割ったような引きつり笑いを口の端に浮かべて、僕は視線を泳がせた。
いったい、俺はなに変なこと口走ってるんだ?
せっかく今まで好青年のバイトで通してきたのに、お客に、しかもかなり歳の離れた女の人に、タメ語を使ったなんて店長に知られたら、即刻クビにされてしまう。
「申し訳ありません。今のは独り言です、お気になさらないで下さい」
大学生に出来る範囲で精一杯の敬語を使い、僕は慌ててその場を離れた。
そそくさと調理場に入ってきた僕を、二年先輩のバイト仲間が目ざとく見つけ、にやにやしながら近寄ってきた。
「さっき、なにやってたんだ?」
「いや……お客さんが禁煙席で煙草吸ってたから、注意を……」
少しどもりながらも、僕は出来る限り冷静に言った。
バイト仲間は頭をかきながら例の席を見て、笑いながら僕の肩を叩いた。
「なーに言ってんだよ。あの人、まだ煙草吸ってんじゃないか。ったく、あんな歳の離れた女を口説きに行ってどうすんだよ」
僕は慌ててさっきの席を見た。
確かに彼の言うとおり、彼女はまたしても煙草を指に挟みながら窓の外を見ていた。
煙草を思いっきり吸い込んで、煙を楽しむかのように息を少し溜めては、ゆっくりと吐き出す。その動作をくり返しては、合間に小さなため息をついているのが、ここからでもよく見えた。
「おまえ、注意してこいよ」
「また俺かよ……。さっき言いに行ったばっかなんすけど」
今度こそ何を言い出されるかわかったものじゃない。出来るなら、行きたくなかった。まだそこら辺の高校生の相手でもしていた方が、マシってものだ。
「おまえみたいなタイプの方がいいんだよ、ああいう傷心な女の人にはさ」
意味深にそう呟くと、そいつは他の客の注文を取りに行ってしまった。
僕は深いため息をつきながら、再び彼女のテーブルへと向かった。
店の中で一番奥にあたる窓際の席は、今日も外からの柔らかな日差しが零れていた。
日だまりの中に、ふわふわと煙がくゆっている。
彼女の回りだけ空気の流れが違うかのように、煙が静かに彼女を包み込んでいる。
高校生数人が座っている賑やかな席を通り過ぎ、書類をまとめているOLの脇をすり抜けて、僕は彼女の前に立った。
僕の影に気づいた彼女は、ゆっくりと僕を見ると微かに微笑んだ。
「煙草吸えば、また来てくれると思って。どうやら私の作戦は成功したようね」
彼女の不思議な微笑みを受け止めるには、僕はまだ若すぎた。明らかに経験不足だ。
「やっぱり向こうの喫煙席に」
「ねえ、それより私の名前は聞かなくていいの?」
この人が飲んでいるのは、ロイヤルミルクティーじゃなくて酒なんではと疑ってしまう。
「あ、いや……」
「ふふっ、そんなに困った顔しないでよ。ねえ、もう一本だけいいかしら?」
彼女はそう言うと、僕がまだ何も言わないうちから箱から一本取り出していた。
「本当にこれで最後にして下さいよ」
「オーケー」
すっと煙草をくわえると、銀のごついライターをフィルターに近づけた。
「これね、彼の忘れ物なの。ヘビースモーカーのくせに、ライター忘れるなんてね」
彼女はライターを閉じたり開いたりしながら、僕の前にかざして見せた。
あまりにも彼女に不似合いだなと思って見ていたのを、どうやら気づかれてしまったらしい。僕は慌てて視線をそらした。ライターから……そして彼女から。
いつの間にか煙草を吸う彼女に、見とれてしまっていた。
「あの……」
僕は思いきって言ってみることにした。
彼女の切れ長の瞳が、僕だけに注がれる。その視線にドキマギしながら、僕は回りをちらりと見回した。
お客さん達はそれぞれの話に花を咲かせているし、店長たちも仕事に忙しそうだ。
「なんで、わざわざ禁煙席で煙草吸ってたんですか?」
この質問が彼女のプライベートなことに立ち入ることになると知りながら、僕は言ってみた。
「どうしてだと思う?」
逆に聞き返されて困っている僕を見て、彼女は可笑しそうに笑うと、窓の外を見てから、再び僕を見た。
「あなたが注意しに来てくれると思ったから」
危うく持っていたおぼんを取り落としそうになった。
「私の名前は、白石奈緒子よ。いつも面倒な役を押しつけられるお人好しのバイト君」
くすっと笑った彼女の目のふちで、雫が日の光に反射してチラッと光った。
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