ハルの季節

 いつだってあいつは突然にやってくる。

 春の優しい風に乗って舞い散る桜の花びらのように。確固とした目的を持って吹きすぎてゆく春の嵐のように。


 なんの前触れもなくやってくると思っていたが、最近になって彼が現れるためには「条件」があることに気づいた。

 それはまず季節が春であること。桜の花が咲き乱れ、街が華やかに色づく頃だ。

 物事の始まりを意味する春は、希望や期待に満ちあふれた時期であると同時に、不安や恐れといったマイナスの気持ちも連れてくる。光があれば影もあるというわけだ。

 そう、彼が現れるにはもう一つ大事な条件がある――。



「やあ、こんにちわ。……元気ないね?」


 にっこりと笑った顔を心配そうに崩しながら、あいつ――ハルは私の顔を覗き込んだ。

 今まで誰もいなかったはずの目の前に突如として現れたハル。

 閑静な住宅街から少し歩いたところにある長い長い遊歩道は、私のお気に入りの道だった。一昔前はこの遊歩道もなかなかに賑わっていたらしいが、中学生だった私が発見した時にはもう既に忘れられた道のようにひっそりと静まりかえっていた。

 それ以来、私は毎日この遊歩道を通って駅まで行くようになった。


「ほら見てよ、かりん。ウグイスがいるよ。あれってつがいかな。向こうの方では菜の花も咲き始めたし、ほんと春だねー」


 のんびりと楽しそうに私の隣を歩きながら、ハルは次から次へと季節を感じさせるものを挙げていく。


「いいよね、ハルはいつも気楽で」


 私が恨めしげに呟くと、ハルは待ってましたとばかりに私を見た。


「かりんが元気がない理由はなに? クラス替えで友達と違うクラスになったから?」


 私はため息をつきながら首を横に振った。その拍子に髪に舞い落ちていた一枚の桜の花びらが、ひらひらと足下に落ちていく。


「クラス替えはもうないの。高校はもう卒業。でも次に行く場所はなし」


 私が踏みそうになった花びらをハルはしゃがみこんで大事そうに拾いながら、不思議そうに尋ねた。


「じゃあどこに行くの?」


「予備校」


 隣でハルがさらに首を傾げるのがわかった。でも今の私に予備校の意味をいちいち教える気力はない。できることなら、小さい子どものようにこのまましゃがみ込んでしまいたいくらいなのだ。


 遊歩道沿いに植えられている桜が、風に身を任せるように揺られている。どこか楽しそうなウグイスの鳴き声とは裏腹に、私の気分は猛スピードで急降下していた。

 誰かに気を遣うのも、気を遣われるのも嫌だった。こういう気分のときは一人で居るに限る。はずなのに、ハルだけはなぜか特別なのだ。そばに居ても邪魔じゃない、ではなくそばに居てほしいと思わせる何かがハルにはあるのだ。


 風がウグイスの鳴き声と共に花粉を運んできたらしく、私は立て続けに二回くしゃみをした。反射的にバッグからティッシュを取り出そうとすると、ハルが私の手をそっと止めた。


「目を閉じて」


 ハルの優しい声に導かれるように、私はいつもように目を閉じた。途端に鼻の奥がすっきりとしていく。ちょっと痒かった目まで治っていく。

 はっきりと身体が癒されていくのを感じた。


 たぶん……ハルは人間じゃない。じゃあ何者なんだと聞かれたら困るけど、人間じゃないということだけはわかる。だって普通の人間が超能力のような力を使えるわけがないし、そもそもいきなり現れたり消えたり出来るわけがない。

 これは私の勝手な思いこみだが、ハルはきっと春の妖精か何かだ。

 目を開いた私の視線を上手に捕まえると、ハルは得意げな顔をして言った。


「かりんには僕がいるよ。だからヨビコウでもどこでもかりんなら大丈夫」


 根拠なんか全くなくてもハルのこの言葉を聞くと、なぜだがそう思える自分が不思議だった。

 そう、ハルが現れるための一番大事な条件は、私の心模様だ。春の安定しない天気のようにぐらぐら揺れて、わけのわからない不安に掻き乱される私の声なき悲鳴によって、ハルはどこからともなく現れる。まさに居て欲しいときにそばに居てくれる最高の相棒だ。


「ねえ、ハルって何歳なの?」


 私はたくさんの参考書やら問題集やらが詰まったバッグをぶらぶらさせながら、思いついたことを訊いてみた。


「んー、よくわからないけど、きっとかりんと同じくらいか、もうちょっと上かな」


 にこにこしながら屈託無く答えるハルは、確かに見た目からなら同年代に見えないこともない。彼が童顔だとしても大学四年生くらいと言ったところだろう。あくまで見た目はだが。


「じゃあハルは……」


 何者なの、という言葉を私は無理やり飲み込んだ。もう何度もこの言葉を言いかけては途中で止めている。これを訊いたが最後、四月に降る雪のように音もなく消えて、もう二度とハルと会えなくなってしまう気がするのだ。

 他のことはどんなことでも訊けるのに、この言葉だけは絶対に訊けなかった。


「かりん? 大丈夫?」


 ハルが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「大丈夫だけど大丈夫じゃない。……あーあ、予備校行きたくないな」


 こういうときハルはお説教じみたことも言わなければ、意味のない慰めも言わない。ただいつものようににっこり笑ってこう言うのだ。


「じゃあ少しだけ寄り道していこうよ。せっかくの春なのに、部屋の中に閉じこもってベンキョウするなんてもったいないよ」


「浪人生はそれが仕事なんだけどね」


 私は苦笑しながらそう言うと、来た道を少しだけ戻り、使われなくなって久しいベンチに腰をかけた。

 ハルも嬉しそうに私にならってベンチに座った。


 風が頬をなでていく。今まですごいスピードで流れていた時間がテンポを取り戻したように、ゆっくりになった気がした。

 春で溢れた遊歩道を改めて見ていると、室内に居るのは損というハルの言い分もよくわかる。

 バランスを崩していた心が、雨の降った砂漠のように静かに満たされていくのがわかる。

 このまま時間が止まればいいのに、と私は本気で思った。


「……ねえ、ハル」


「ん?」


「ハルはどうして私の前に現れるの?」


 瞬間、ハルの動きが止まった。

 恐る恐る様子を窺った私をじっと見つめながら、ハルは驚いた顔からいつもの優しい顔に戻ると言った。


「かりんが好きだからだよ」


 臆面もなくそう言ってのけるハルに、私は言葉を失った。本当に顔が真っ赤になるかと思った。いや、なっているかもしれない。今時こんなストレートに感情を表現する男の子がいるのか。


 突然の告白に内心舞い上がっていた私は、ふと嫌な予感を感じて尋ねてみた。


「ね、ねえ。じゃあさ、もし私に好きな人ができたって言ったらどうする?」


「もちろん応援するよ。僕にできることならなんだってする」


 私は呆れたようにため息をついた。


「やっぱりね……」


 一人で盛りあがったり落ち込んだりしている私を、ハルは楽しそうに見ている。悪気はないのだろうが、ある意味とても残酷なことをされている気がする。


「まあ、いっか。ハルが居てくれるなら」


 独り言のように呟いた私にハルが大きく頷いた。


「僕はずっとかりんと一緒にいるよ。かりんが僕を必要としてくれるなら、いつでも」


 まるで童話に出てくる騎士のようなことを言うハルに、私は思わず吹き出した。

 鼻元をやる気に満ちた春の匂いが掠めていった。


「さーてと、私は予備校に行ってこようかな。もう始まっちゃってるけど」


 私はそう言うと勢いよくベンチから立ち上がった。さっきまでずっしりと重かったバッグが不思議なくらい軽く感じられた。


「うん、いってらっしゃい」


 ハルの優しい笑顔に見送られながら、私は駅に向かって再び遊歩道を歩き出した。

 二人の暗黙の了解で、私は決して振り返らない。私が前を向いた瞬間にハルは消えてしまっているのかもしれないけど、私にはハルがまだそこに居て、ちゃんと私が駅に辿り着くかを見守ってくれている気がするのだ。

 風を受けて散りゆく桜の花びらに向かって、私は小さな声で話しかけた。


「ずーっと春だったら良いのにね」

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