第4話

   第四話 『彼女』の涙


 サミュエルだけが鈍感ドンだった。

「なあシンシア。あいつ、どこかで見たこと無かったかな?」

 シンシアの耳には届いていない。ジオークも答えてやるだけの義理はない。他の連中にわかるはずもない。一切合切無視されて、サミュエルは何となくいじけてしまった。

「まさか……あれがジオークの本体……?」

 先に気づいたのはセフィールだった。

 へ、へへ、というスピーカーから漏れる声がひどく他人っぽく聞こえる。

 人間、怒りを通り越すとかえっておかしな気分になるのかもしれない。今のジオークの声は、まさに笑い声だった。驚喜ではない。狂喜に満ちた笑い声だった。

「ずっと……ずっとこのときを待っていたんだ……てめえをぶち殺すこのときをよ!」

 視界が一瞬赤く染まる。目を開いたまま制御権を入れ替えるとき、瞳の色の変化を感じ取っているのかもしれない。身の内からわき上がる、炎のごとき熱気。神経が身体の隅々に行き渡っていく感触。ジオークに切り替わるその瞬間、

「だめっ!」

 ばちいっ! 両耳を力一杯叩かれたように、頭から首筋へ電流のような物が走り抜けた。たまらずジオーク──いや、シンシアか──は膝を突いてうずくまった。

(て、てめえ、シンシア……なんで切り替えを拒むんだ……!)

(だって……だってお兄ちゃん、今、あの人を殺そうとしたでしょ?)

(当たり前だ! あいつは、あいつはずっと追ってきたかたきだぞ!)

(だめだよ! だめ……だって、あれはお兄ちゃんなのよ!)

 精神世界で、兄妹が必死に制御権を奪い合っている。外側からは単にうずくまってつぶやいているだけであろうが。ともあれ兄妹は目をつむったときだけ見える世界の中で、激しく言い争っていた。

(お前だって予想はしていただろう? 俺の身体がどうなっているかは)

(してたよ。してたけど……こんな最悪なの、あんまりよ!)

 シンシアも予想はしていた。さらわれた兄の身体は、九割の確率ですでに死んでいるだろうと。そして残り一割の確率で生きていたとしても、ろくな事になっていないだろうと。予想はしていた。だが、覚悟ができていなかった。

(あんまりだったらなんだ? 奴をこのまま放っておけって言うのか?)

(違う、違うよ。けど、もっと良い方法があるはずよ。なんとかあの身体を取り戻す方法が……)

 5年前、黒の一族ダーク・ブラッドの襲撃に、ジオークの精神はシンシアの身体に避難した。どういった偶然によってそうなったのかは今もってわからないが、きちんとした原理があるはずだ。だから、ジオークがその精神を元の肉体へ戻す方法もあるはずだ。

(俺はあの野郎と同じ身体を共有するのなんかごめんだぞ)

(ヴァルハラだけ消す方法があるはずよ。ほら、黒の一族ダーク・ブラッドがちらりと言っていた生命の融合ソウル・フュージョン……)

 そこまで言って、シンシアは気づいた。認めたくないその事実を、淡々と兄は言う。

(ああ。そのために必要な知識、魔導書『ソウルウエイバー』は奴らの手中にある。下手にやろうとすれば、こっちの精神が消されてしまうな)

(…………)

 シンシアは何も言い返せない。精神移植に関しては、あちらの方が遙かに詳しい。そしてその方法を、敵が教えてくれるはずがない。

(わかるか? 奴を倒すしかないんだ。黒の一族ダーク・ブラッド、ヴァルハラを)

 八方ふさがりとはこのことだと、シンシアは絶望的に実感した。師匠のかたきを討つために、そしてこれ以上の悲劇を起こさぬためにも、戦うしかない。それはわかっている。実際、兄妹喧嘩は何度もしている。兄をグーで殴ったことだってある。だけど、今度のはそんな微笑ましいものではないのだ。

(だめ……私にはできないよ……お兄ちゃんと戦うことなんて……)

 とうとう、妹は泣き出してしまった。

 所詮、ジオークは妹の身体を間借りしているにすぎない。気がゆるんでいるときなら強制切り替えもできようが、こうまで拒絶されてはかなわない。ジオークがあきらめると、シンシアの身体は彼女の自由になった。硬直した身体から余分な力が抜け、汗が噴き出す。乱れた息は嗚咽にすら似ている。それをなんとか整えながら、シンシアはふらふらと立ち上がった。長く感じた精神内でのいさかいは、実際には短時間だったようだ。周囲の者達に、動きはまだなかった。

「そう……あれがジオークの本当の身体……」

 スピーカーからは漏れていなかったはずだが、しゃくり上げるシンシアのさまに、兄妹の間で何が起こっていたか、セフィールは感じ取っているようだった。深い悲哀の瞳を投げかけている。

「やはりヌシにも拒絶反応があるか……だが、ヌシにスピカの娘はやらん……完全なる“ソウルウエイバー”になるのは我だ……」

 水面みなもを揺らさぬくらいに静かな調子、しかし肝をつぶされそうなほどにすごみのある声。ジオークの声に間違いない。だが、中身は断じてジオークではない。兄には怖い一面もあるが、あんなに冷たい声はしていない。

 ジオークは、ヴァルハラの言葉が気にかかった。拒絶反応? ソウルウエイバー? 疑問を口に出す暇無く、ヴァルハラは語りかけの対象を変えた。

「母のかたきが憎いか……スピカの娘よ……」

 セフィールは、ヴァルハラをキッとにらみ返した。

「ええ、憎いわよ。お父さんの夢を奪い、お母さんの命を奪ったあなたがね!」

「仕方あるまい……今はハガーという名だったか……奴は黒の一族ダーク・ブラッドを知りすぎた……」

「何が知りすぎたよ! 全部あなたが仕組んだことじゃない!」

 セフィールの怒鳴り声など聞こえないかのように、彼は淡々と続ける。

「そして……われ生命の融合ソウル・フュージョンを成功させるためには…同族でなければならぬのだから……」

 遅々とした台詞の中に、聞き捨てならない言葉を聞いた。声に出したのは、ジオークだった。

「同族……? セフィール、まさかお前……」

 そして、答えたのはヴァルハラだった。

黒の一族ダーク・ブラッド、スピカ……その金髪ブロンドは……スピカの娘……」

「セフィールさんが、黒の一族ダーク・ブラッド……」

 絞り出すように、シンシアがうめく。ジオークもほぼ同じ気分だったが、当のセフィールも同様の様子だった。申し訳なさそうにかぶりを振り、悲しそうにシンシアへ向く。

「魔法は使えないけどね……。ごめんなさい。言わなきゃ、言わなきゃとは思ってたんだけど……」

「魔法は使えずとも……魔性の女……一族でもまれにみる力を持った魔性の女、スピカの娘……生命の融合ソウル・フュージョンの…最後の綱だ……」

「つまり、その乙女を良からぬ事に巻き込もうと、そういうことなのですかな、ヴァルハラ殿?」

 しばらく黙っていたリューベックが、巨体を惜しむことなく前へ出して言った。

「だったら…なんだ……?」

「私たちは、ヴァルハラ様の命令には従えないのよ」

 すぐ横についていたアーミュアが答える。その刹那、

黒の一族ダーク・ブラッドにゃ問答無用! くらえ、大塔裂壊弾タワー・マッシャー!」

 ごばあっ! 突如、サミュエルの攻撃魔法が発動した。夜の広野に紅蓮の炎が巻き上がる。これにはシンシアもたまげたが──

「あ、あれ?」

 顔も声も間が抜けたサミュエル。呆然と立ちつくしたその先には、数秒前と何ら変わることなく、三人の黒の一族ダーク・ブラッドが立っていた。

「あっはっは。カワイコちゃんのプラズマ魔法と同じくらいの威力だったかな? けど、ちゃんと防御すれば、ほらこの通り」

 うきうきといった調子で、アイヌラックルが声を弾ませている。こんな事態の中でも彼は相変わらず嬉しそうだった。

 とことん情けない顔を、サミュエルはシンシアへ向けた。

「いきなりやることが無くなってしまったんですけど……」

「知るかボケ」スピーカーから、ジオーク。

 大塔裂壊弾タワー・マッシャーは彼の最強攻撃魔法である。それが1ミリも効かないとなると、彼の出番はすでに終わってしまったということだろうか。そんなことよりも、とジオークは続ける。

「つまり、こういうことだな? あのタヌキジジイもお前も、最初からすべて知っていたと?」

 セフィールが今まで真実をうち明けなかった理由。それは彼女が黒の一族ダーク・ブラッドだからに他ならない。だから、連中をかたきとするイクティノス兄妹にうち明けられなかった。

「ヴァルハラがジオークだって事までは知らなかったけどね……。あなた達に会ってから、ずっと迷ってたわ……。けど、これでようやく決心が付いた」

 彼女は、静かにヴァルハラを見据えて言った。

「あたしは、あなたを止めに来たのよ。逃げ回っているだけでは駄目だから。同じかたきを持つジオークに倒してもらおうとも考えた。けど、あなたがジオークだったなんて皮肉よね……」

 ゆっくりと、両手を差し出す。呪文ではないが、何か儀式めいた動き方だった。

「あなたに、あたしの身体を差し出すわ。だから、ジオークにその身体を返してあげて」

「ばかな、セフィール!」

 信じられないといった風にジオークが叫ぶが、今はシンシアの制御下なので動きようがなかった。黙って彼女の話を聞いている黒の一族ダーク・ブラッドへ、彼女は続ける。

「けど、あたしも逆らうわよ? お母さんも、おばあちゃんもそうだったように……簡単に生命の融合ソウル・フュージョンなんかさせない。あたしの命に代えてでも、あなたの野望を止めてみせるわ! ……あなたを止めることが、あたしの役目だから……」

 くっく、と、ヴァルハラは低くつぶやくように笑っていた。

「そうか……ならば話が早い……生命の融合ソウル・フュージョンの最後の綱……いくら抗おうが……我は成功させてみせようぞ……」

 じゃり、と彼の足下の砂利がこすれた。すり足で一歩動いたのだ。覚悟が決まっていないのか、セフィールは一歩後ずさった。リューベック・アーミュア・サミュエルに緊張が走る。が、間に立ちふさがったのは、彼らではなかった。

「シンシア……」独白するように、セフィール。

 セフィールを守るように両手を広げ、シンシアがその碧の双眸を敵へ向けている。だが、口から出てきた言葉はあまりにも意外だった。

「セフィールさんを渡せば、お兄ちゃんを返してくれるの……?」

「シンシア!」

 兄の抑制にもかまわず、シンシアは必死に訴えかける。間に立ったのはセフィールを守るためではない、真相を聞き出すためだった。

「答えて! お兄ちゃんは元に戻れるの? 助けてくれるの!?」

 ジオークは歯がゆかった。他人を犠牲にしてでも兄を救おうというシンシアの一途な思いが、あまりにも歯がゆかった。だが、ジオークはそんな救われ方など望んでいない。シンシアもそれはわかっている。だが、それでも兄を救いたかった。

 ヴァルハラは、苦渋にゆがんだ兄の顔を、少しだけ笑みの形に変えた。だが、あくまでも、皮肉めいた笑みだ。

「そうだな……この身体…返してやっても良い……残り一年の時を……兄妹仲良く過ごすが良い……」

「い、一年……?」

「忌まわしきこの身体……拒絶反応で…すでに回復は不可能……あと一年が限界だろう……だから我は…次の身体を手に入れねばならぬ……」

 力つきたように、シンシアがしりもちをついた。抜け殻になったかのように、血の気も表情も失せていた。もう周りのことなんかどうでもいい。シンシアはその場で腰を下ろし、うなだれてしまう。

 いつか、いつか取り戻せると思っていた。幼き頃の、あの日々を。兄が元の身体を取り戻せば、それがかなうと信じていた。

 それが、根底から崩されたのだ。兄のあの身体は、あと一年も持たない。仮にジオークがあの身体を取り戻したところで、確実な死を待つ日々となる。

 絶望の中、シンシアは考える。私は何を望んでいたのだろう?

 私は、平穏が欲しかった。

 物心つく前に両親に死なれたけど、気づいたときには兄がいて、師匠がいた。

 しごきはきつかったし、冬の食器洗いや洗濯は手が痛いくらいにかじかんだ。

 服は継ぎ接ぎだらけでお洒落もろくにできないし、町から遠く離れた家だから、友達もほとんどいなかった。

 けど、そこには師匠がいて、兄がいた。

 つらいとき、励ましてくれた。

 くじけそうなとき、手をさしのべてくれた。

 楽しければ、一緒に笑ってくれた。

 豊かではなかったけど、そこには確かな平穏があった。

 ずっと続けば良いと思っていた。いや、続くと信じていた。

 それが、奪われたのだ。

 奪われた? 誰に?

 目の前にいるあの男だ。兄の姿を借りた、黒の一族ダーク・ブラッド

 あの日々があれば、それで良かった。それだけで良かった。

 それを、あの男が奪っていったのだ。

 あれは兄ではない。憎むべき、黒の一族ダーク・ブラッドだ!

 いつしか、シンシアは呪文を唱え始めていた。


 ──萌ゆる大地よ──


 凍り付くような美しい声。美しいが、あまりにも冷徹だった。サミュエルはどこかで聞いたその語句に身震いした。

(なんだ、あの呪文は?)

 なにか、非常に焦る物を感じる。早急に思いださないと、取り返しがつかなくなる。サミュエルはそう思った。


 ──息吹く大気よ──


 ぞくり。凛々しく、冷たく、そして一切の感情を廃した呪文に、また身震いする。

 右手を上空、左手を地上へ向けたその構えは、天上天下唯我独尊のポーズにも似ていた。

 どこか、どこかで聞いたことがある。……いや、見たことがあるんだ。あれは、協会に古書の整理を任されたとき、魔導師ローズマリーに渡されたんだ。これを奥深くへしまってくれと。そのとき、ぱらぱらと見た内容……自分の腕前ではとうてい使えない、超高度の破壊魔法──ローズマリーの極大魔法!


 ──美空を駆けし綺羅星よ!──


 全身の血の気が引いていく。頬が引きつっているのがわかる。間違いない、サミュエルは確信した。シンシアは極大魔法を使おうとしている!

「みんなこの場から離れ──いや、シンシアの元に寄るんだ!」

 珍しく真剣に叫ぶサミュエルに、セフィール・リューベック・アーミュアとそろってきょとんとしている。サミュエルはかまわず彼らの手を強引に引っ張り、シンシアにひっつくくらいに寄り添う。シンシアは全く気にもとめず、呪文を唱え続けている。

 右手をおろし、左手を持ち上げ、両の腕は大きく開かれていた。シンシアは今、十字の形に立っている。


 ──汝ら、星屑へと帰りて、おのが姿を取り戻せ──


 彼女の視線は虚空へ向いている。呪文詠唱に意識をトリップさせているのだ。両手をゆっくりと前へ構えていく。

 黒の一族ダーク・ブラッドは、総じて動いていない。シンシアの唱えている呪文に興味があるのだろう。じっと彼女の様子を見つめている。そしてその顔には落胆とも軽視ともいえる色が浮かび上がった。


 ──願わくば、我が前に立ちふさがりし、愚かなる者どもを道連れに!──


 前へ差し出した両手を胸の前へ、子供の頭ほどの球体を持つように構える。

 術者から放たれる構成が大したこと無いように見えることが、この魔法の一番恐ろしい点だろう。何しろこれを見た敵は、一度は必ず侮る。そしてこの魔法が成功すれば、二度目はない。

 日常言語による詠唱は終わり、魔法言語による詠唱へ移った。この後半の呪文は、波長を目標と寸分たがわず一致させるための調整段階だ。魔法言語は日常言語とは異なり、言葉としての意味はほとんど持っていない。発音やイントネーション、リズムが重要とされ、むしろ楽譜に近いと言えるだろう。

 放たれる構成に対する連中の緊張に、ヴァルハラは違和感を感じた。小娘の波長は、彼らにも見えているはずだ。なにをそんなに慌てる必要がある?

 違和感は疑問となり、彼の記憶を探らせる。あの呪文詠唱、誰かと似ている──傲慢で気分屋で衒学者ペダントで、だがそれに見合うだけの実力と実績を持った気高き女──

「ローズマリーの極大魔法か!」

 気づかれた。とシンシアは内心舌を打った。ヴァルハラは素早く両脇の部下に指示を出している。

 だが、こちらの方が早い!

星屑への回帰スターダスト・レボリューション!」

 魔法名と同時に再び両手を広げ、そのまま時計回りに大きく旋回させる。

 視界が真っ白に染まっていく。音がかき消えた。目に見える、耳に聞こえる限界を超えたためだ。そして代わりに大地の猛烈な震動が全身を突き抜けていく。この瞬間に発せられた光の渦は、遙か宇宙からでも観測できたに違いない。それだけのエネルギー放出が起こっていた。

 星屑への回帰スターダスト・レボリューション。周囲の物質から波動を抽出し、純粋な魔力波動として放出する純破壊魔法である。すべての物質は波長を持っている。この波長を限界以上に揺り動かし、素粒子レベルで分解する。ローズマリーの極大魔法のひとつだ。

 少しずつ晴れゆく景色の中、天へ向かってシンシアは叫んだ。

「お兄ちゃん!」

 身につけた薄衣を取り払ったように、五感が鮮明になる。妹に呼ばれ、ジオークが表へ現れた。

「っしゃあ!」

 真紅の瞳を野獣の美顔に乗せ、ジオークは歓喜に満ちた声を発した。

 気を引き締めて、あたりを見渡す。

 まだかすかな震動と砂煙が残っているが、夜の静寂は少しずつ取り戻されつつある。ジオークを中心に、大きな丸いクレーターが形成されている。そして自分にひっつくように四人の男女──セフィール・サミュエル・リューベック・アーミュア──が、半分意識を失ってうめいている。下手に逃げずに寄り添ってきたのは正解だろう。あのタイミングでは、逃げても間に合わなかったに違いない。

 天使の息吹エンジェル・ブレスは家一軒を破壊する。対し、星屑への回帰スターダスト・レボリューションは、町の一区画を破壊する。規模が二桁違うのだ。

 魔導師協会に、ローズマリーの極大魔法は6種類保管されている。

 そう。保管されているだけだ。どれも危険度が高すぎるため、禁呪とされたこともある。だが真の理由は、高度すぎて使える者がいない。この単純なわけにつきる。

 それを、シンシアが使った。実戦で使ったのは初めてだが、妹の底知れぬ実力に、ジオークは感服した。

 魔法戦士は闘者に勝てない。だが、極めし魔法は、闘者をもほふる。師匠に習った格言を、ジオークは思い出していた。

 無論、今の攻撃で黒の一族ダーク・ブラッドを倒せていないことはわかっている。逃げられるタイミングではなかったが、寸前で防御態勢をとっていた。だが、奴らの力の限界は、先刻の戦いで知れている。師匠の極大魔法なら、いかな黒の一族ダーク・ブラッドといえども防ぎきれるものではない。

 ──倒せはしなかったにしても、相当のダメージを受けたはずだ。ジオークはそう結論づけ、敵の波長を探ってみる。視界はまだ晴れきっていない。予想通り、弱まってはいるが依然として巨大な魔力が三つ、自分たちを取り囲んでいた。冷静に、敵の総合力と自分の魔力を照らし合わせてみる。

(今がベストコンディションだったら、まだ何とかなったかもしれないな)

(ごめん……消耗の大きすぎる魔法だったね)

 正直な感想に、シンシアが深刻そうに気落ちする。

 極大魔法は、それに必要な魔力も大きいのが欠点だ。今の一発で、魔力の大部分を削り取られた。極度の疲労感──身体のどこが痛いというわけではなく、力が込められない。そんな感覚である。

 しかし、別に慰めようと思ったわけではないが、ジオークはむしろ朗らかだった。

(なあに、ぶちきれシンシアにかかればさしもの黒の一族ダーク・ブラッドも大わらわだったからな。すかっとしたぜ)

(も、もう、お兄ちゃんの意地悪)

(だが……)

 カードを裏返すように唐突に、ジオークは真剣にささやいた。

(ここからは、少しばかり無理をするぞ)

 無茶ではなく無理。先刻のジオークの台詞を、シンシアは思い返していた。

 強い敵と戦う二つの方法。ひとつは無茶。もうひとつが無理。無茶と無理の違い、それは他人に迷惑をかけるか自分に迷惑をかけるかの違いだ。

 ジオークは極力無理を避けていた。それは自身のためにも見える。だが、シンシアは本当の理由を悟った。ジオークは、妹の身体を気遣っていたのだ。

「俺はいつでもそばにいる。だから、泣くな」

 5年前の兄の言葉を思い出し、涙があふれそうになる。そんなシンシアに気づいているのかいないのか、ジオークはしんみりとつぶやいた。

(すまないな、お前にばかり迷惑をかけて)

(それは言わない約束でしょう、お兄ちゃん)

(…………)

(…………)

(はは……)

(あはは。なんかありがちな会話だったね)

 どちらともなく笑っていた。苦笑混じりだが、純粋に愉快な気分で。

(冗談言えるなら、大丈夫だな)

(うん。私はもう平気。だからお兄ちゃん、存分に戦って!)

(ああ!)

 シンシアは覚悟を決めた。ジオークに制御権も渡された。後は、戦うだけだ。

 ようやく静寂を取り戻した闇夜に向かって、ジオークは魔竜剣を引き抜く。主人の魔力に反応し、剣身が巨大化し、淡い光を放つ。構え、表情。今のジオークは、まさに気高く凛々しいドラゴンそのものだった。

「今のは挨拶代わりだ、黒の一族ダーク・ブラッド。セフィールを手に入れたけりゃ、まずは俺を倒してからにしてもらおうか!」

 声とともに、暗黒の中から青年──ヴァルハラが現れた。赤い瞳を、憎々しげに向けている。

「ほう……今のが挨拶代わりときたか……おもしろい……さすがは……逆ハッタリの女帝…ローズマリーの弟子よ……」

 みょ、妙な異名を持ってたんだな師匠は。とかいう感想が一瞬頭をよぎる。

(弱いフリしてだまし討ちが大好きだったからね、お師匠様は)

 くすりとした笑いが身体からこぼれる。ヴァルハラは馬鹿にされたとでも思ったのか、渋面をさらにゆがめた。

「起きろ役立たず」

「うーん、あと5分」

 ひっついたままのサミュエルの頭をこづくが、こともあろうか寝ぼけたように太股へ頬ずりしてきた。ぞわわっ、と腰から背筋へ鳥肌が走る。さりげなくお尻を撫で回していやがる。

「キショイわあっ!」

 ごめす! みぞおちへ比類無き膝蹴りをたたき込む。はうっ、と激しくうめき、セクハラサミュエルは目を覚ました。

「お前らも起きろ」

 リューベック兄妹にセフィールも起こし、ジオークはつっけんどんに言付ことづけた。

「お前らはセフィールを守れ。俺はヴァルハラと戦う」

「な、なんで僕が……」

「シンシアがデートしてやるってよ」

「さあマドモアゼル、こちらへ」

(ちょ、ちょっとお兄ちゃん!)

(うそも方便だ)

 エスコートするようにセフィールを連れて下がっていくサミュエルに背を向け、ジオークは心の中で舌を出した。

「私たちはどうするのよ?」アーミュアが兄に問う。

「我々は……おのが信念に基づき、真理を求めて突き進むのみ!」

 なにやら難しいことを言っているが、黒の一族ダーク・ブラッドとの決別とセフィールの庇護を決心したようである。

 ガイアとアイヌラックルはジオークとは目を合わさず、セフィールの動きに注目している。隙あらばさらう意図なのだろう。そうはさせじとリューベック・アーミュア・サミュエルがかばうように彼女を取り囲む。

 どうやらそれぞれの対戦相手は決まったようだ。気持ちを切り替え、ジオークは呼吸を整える。

「ハッ!」

 こうっ! まずは、気合いの息吹とともに、光衣をまとう。敵が様子見をしているうちに、素早く呪文を唱え始める。野原で微風を感じ取る乙女のごとく、胸を反らし、遙か大空を微笑で仰ぐ。

活力の風モア・オキシジェン!」

 ぶ…ん、と、青い光衣の光が銀色に変化した。形も炎のような物から、身体をすっぽりと覆う球状になる。これは、元はシンシアの開発した魔法で、空気を固定してまとうことにより、風や寒暖から身を守るためのものだ。簡単に表現すれば、エアコン魔法といったところか。ただしジオークは、この固定空気の酸素濃度を上げることにより、激しい活動による肉体への負担を軽減するように応用した。

 そしてジオークは駆け出す。闘者の魔法は戦いの『型』の中に組み込まれている。この疾走も、呪文の一環だ。魔竜剣を振り上げ、跳ぶ。ヴァルハラは微動だにせず、振り下ろされた剣を片手で受け止めた。そこでジオークの次の魔法が発動する!

餓狼疾走がろうしっそう!」

「ぬぅ…!?」

 ずんっ! 衝撃が突き抜け、ヴァルハラの足下に亀裂が走る。力の急上昇にヴァルハラは目尻をつり上げ、剣から手を離して後ろに跳ぶ。させるかとばかりにジオークは間合いを詰める。蹴った地面にまた亀裂が走る。その速度は、赤い眼光が一本の軌跡を残すほどだ。

 餓狼疾走は、筋肉の収縮率・神経の反応速度を高める魔法だ。運動能力が飛躍的に高くなり、神経も向上するので力に振り回されることもない。活力の風モア・オキシジェンで酸素濃度も上げているので、この猛攻の中でも息が上がる心配はない。難点は、肉体の耐久力を考慮していない諸刃の魔法ということだ。地を蹴るたび、剣を振るうたびに、骨が、筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。

 だが、身体能力だけなら黒の一族ダーク・ブラッドに肉薄している。ヴァルハラは防戦一方になっている。

 兄がヴァルハラと戦っている間、シンシアは周囲へ意識を動かした。空はうすら青くなってきていて、星も明るい物しか見えなくなっている。広野の景色にも、色が付き始めている。まもなく、夜明けだ。

「残念だ。貴殿らとこうして相まみえなければならないとは」

「あっはっは。昨日の友は今日のあだって奴だね」

 顔のまんま重苦しいリューベックの言葉にも、アイヌラックルは楽しそうに受け答える。リューベックは戦斧バトルアクスを構えているが、黒の一族ダーク・ブラッドの兄弟はごく普通の立ち姿勢だ。このままでも十分に対処できるという自信からか。

「我々は、ヴァルハラを救わなければならない」静かに、ガイアは言う。

 この間、サミュエルはこっそりと呪文を唱えているようだった。唱え終わったところでずずいと前へ出る。自信満々の笑みで片膝をつき、手のひらを地面へ押し当てて言う。

「だからさあ、こいつら相手に問答は無用なの。というわけで、大地爆裂陣アース・ブレイク!」

 ごうあっ! サミュエルを中心に、竜巻のごとく土砂が巻き上がる。ラインハルト兄妹とセフィールは間合いの内側、ジオークとヴァルハラは効果の届かない位置だが、ガイアとアイヌラックルはまともに巻き込まれた。

 大地爆裂陣アース・ブレイクは、シンシアの地の巻き上げアース・レイズとほぼ同等の魔法だ。大塔裂壊弾タワー・マッシャーと同様、この魔法も若干名前負けしてるかもしれない。

「ちょうど良かったのよ!」

 ここぞとばかりに、アーミュアがダンスを始めた。これはもちろん呪文の一環だ。タップダンスがごとく地面を踏みならしている。専用の靴ではないし固い地面でもないのだが、コツコツと器用に音を立てている。そして──

「ぐもももがおーん!」

 サミュエルによって巻き上げられた土砂が、一カ所に降り積もっていく。それは大きな人型となった。3メートルを超す、角張った人型の人形──あれはゴーレムだ。彼女はこんな魔法まで使えるのか。と、シンシアは驚嘆した。

「あの二人を倒すのよ!」

 アーミュアの合図に、ゴーレムが黒の一族ダーク・ブラッドへ行き進む。敵は、サミュエルの攻撃を受けても(もちろん)無傷だ。

「うっわあ、可愛い人形だねえ」

 ひょい。ごついゴーレムのパンチを軽くかわすと、アイヌラックルは土人形の肩に飛び乗る。

「いやあ、可愛い可愛い。いいこいいこ……あれ? 壊れちゃった」

 頭を軽くなでるだけで、ゴーレムは砂粒に帰る。おもちゃを壊した子供のように、アイヌラックルは苦笑した。自慢の魔法を、いいこいいこで破られ、アーミュアは顔面蒼白で立ちつくしている。

 この間、リューベックはガイアを相手にしていた。戦斧バトルアクスで数回威嚇し、距離を置いたところで怒号を放つ。周囲の者には単なる叫び声にしか聞こえないが、正面に立つガイアの服が激しく震動し、波打ち際のごとく足下の地面がすり減っていく。猛烈な衝撃波が彼を襲っているようだ。しかしそれでもガイアには通用しなかった。腰を落として右手を前に出す。この防御姿勢だけで、リューベックの攻撃魔法を正面から受け止めていた。

 ぜいぜいと、リューベックの叫び声は激しい喘息に変わった。

「破滅への序曲がまったく効かないとは……」

「無理よ……黒の一族ダーク・ブラッドは、みんなローズマリークラスなのよ……」絶望的に、セフィールがかぶりを振っている。

 ガイアは腰に差してあった剣を抜き放つ。焦げ茶色の、堅そうな木剣だった。

「ジオークは魔竜剣を持っていたが、私のこの剣も魔力剣だ。名を、神木刀しんぼくとうという」

 し、神木刀!? 意外なその名に、シンシアは驚愕した。

 世界の中心にあるという伝説の世界樹イグドラシルから作られた木刀、神木刀。世界に3本しかないといわれ、魔竜剣と同等かそれ以上の力を秘めているという。

 その刀を正眼に構え、ガイアはひとつ息を吸う。

退け。我々は、お前に用はない」

 文字通りの鬼に金棒だ、とシンシアは歯の軋む思いになる。何とかしたいが、兄に制御権を渡している今、シンシアには何もできない。そして当のジオークは、ヴァルハラとの決戦真っ最中である。

 ジオークは残る魔力を振り絞り、左足を大きく踏み込んで、魔竜剣を力一杯、横に薙ぐ!

「魔竜烈光斬!」

 光の粒が竜と化し、ヴァルハラを飲み込む──はずが、寸前で大きくそれた。えぐれた地面がカーブを描く。

「ばかな……」

 九分九厘の魔力を失い、途切れそうな意識の中、ジオークは驚愕に打ち震えた。ヴァルハラは相変わらず苦い顔だが、ごく当然といった風に答えた。

「難しいことではない……物質や魔法は波動と同等……ならば…反発する波動をまとえば……たいていの攻撃は防げる……」

 化け物だ、どいつもこいつも。ヤケになって、ジオークはそう吐き捨てた。ほとんどの攻撃を防ぐ防御魔法? 簡単なわけねえだろうが!

 考え得る全ての技を駆使してもなお、敵は二本の足で立っている。どうする? 俺に、あとは何ができる? 絶望の波に必死に抗い、ジオークは考えを巡らせる。

 ヴァルハラと目が合った。奴は、薄ら笑いをうかべている。馬鹿にしているのだろうが、何か意味深長な感じ──

(お兄ちゃん後ろ!)

「けえっ!」

 やっぱりか、とジオークは横転する。空気弾・火炎弾・雷撃弾と様々な魔法弾が寸前までジオークのいた地面に穴を開ける。受け身をとりつつ素早く後ろへ向き直すと、そこにはアイヌラックルがいた。ひゅう、と感心の口笛を吹いている。

「やるねえ。まるで、お嬢ちゃんには目が二つついているみたいだ」

「普通は二つついているもんだろうが!」

 ジオークは吐き捨てる。たぶん、後ろにも目がついているみたいだ、とでも言いたかったのだろう。

 ひとつの身体にふたつの精神を持つイクティノス兄妹は、ジオークの注意の届かないところをシンシアに任せるようにしている。

 ──と、

 がつん! 揺れる視界と同時に、後頭部に衝撃が走る。痛みよりも、何かがぶつかったという感触の方が強い。痛みが走る頃にはすでに視界は暗転しつつあった。

(お兄ちゃん!)

 頭の中で響く妹の声。まずった、と思いながら、ジオークの意識は闇に沈んでいった。

「ふん…他愛のない……ローズマリーの弟子なら……もう少しマシかと思ったが……」

 苦渋によって刻まれたしわは、本物となりつつある。ヴァルハラは面白くなさそうにそのしわを撫でながら、気絶したジオークを見下ろしている。

 アイヌラックルに注意がそれたので、一撃を加えた。躊躇せず、右のこぶしに魔力をためる。呪文を唱える必要はない。黒の一族ダーク・ブラッドは意志力だけで魔法が使えるのだから。手のひらを彼女へ向けて、集中した意識を解放する。光の玉は地面に着弾し、火花となって展開した。

 ──地面?

「……気絶したはず……」

 訝って見ると、ローズマリーの弟子は身を反転させて今の攻撃をかわしていた。大の字で息を荒らげているところを見ると、もう起きあがるだけの力も残っていないらしい。その瞳は赤ではなく、碧色だった。

「ざ、残念ね……私たちは気絶しない体質なのよ……」

 苦しげに目を細め、シンシアはそう言った。

 一時間以内でも制御権が切り替わる例外がひとつだけある。制御中の精神が意識を失ったときがそれだ。これはもちろん一時的なもので、ジオークが目を覚ませば制御権も戻される。

「だったら…なんだ……?」

 特に興味もなさげに、ヴァルハラはシンシアを見下ろしている。シンシアに切り替わったところで、失った魔力が元に戻るわけではない。仮にフルパワーだったとしても、黒の一族ダーク・ブラッドに通用するのは極大魔法のみ。その呪文を唱える時間はもはや与えてくれまい。絶体絶命の状況に変わりはないのだ。

 そしてシンシアも意識がもうろうとしている。限界以上に魔力を使い、昏倒寸前なのだ。さすがに彼女まで意識を失えば、それは完全な気絶となる。

「最後の悪あがきだったな……」

 ヴァルハラのこぶしに、再び光がともる。

(さすがにもう駄目かな……)

 むしろ冷めた気分で、シンシアはそう考えた。けど、兄も自分も、やれるだけのことはやった。残念だけど、後悔はしない。それに、お兄ちゃんと一緒なら、こういう最期でも悪くはないかな──自嘲気味に思いつつ──夜が明けた。

 突如のまぶしい光。ヴァルハラの足下から長い長い影が伸び、シンシアの顔を横切っていく。シンシアの角度からは、ヴァルハラに後光が差しているようにも見える。

 しかしそのヴァルハラは身をこわばらせている。いや、かすかに震えているか。次第にがたがたと震えは大きくなり、ついには身体を支えきれず、膝を突く。

(な、何が起こっているの……?)

 途切れそうな意識を総動員し、シンシアはヴァルハラの異常事態に目をやった。

「しまった……! 間に合わなかったか……!」

 ガイアが心底口惜しげにうめいている。アイヌラックルからも笑みの色は消えていた。

「が……あああぁぁ! くるな……くるなああぁぁ!」

 両手で頭を押さえ、ヴァルハラがのたうち回っている。さながら、朝日を恐れる吸血鬼ヴァンパイアのように。振り回した腕から閃光が走ったかと思うと──

 ごっ…おおぉん……!

 遙か遠くで──いくつかは近くで──爆発炎上した。

(ヴァルハラの魔力が暴走している……)

 それも、とんでもない魔力だ。苦し紛れの一発が、天使の息吹エンジェル・ブレスに匹敵する。

「な、なんなのよなんなのよ!?」

 セフィールたちは無事なようだ。アーミュアがパニックを起こしている。

 ジオークもシンシアも、夜明けを本能的に恐れていた。その理由をようやく知った。

 この事態を、恐れていたのだ。

「昼間は、『彼』の支配力が高くなる。それに抗い、ヴァルハラは暴走する」

 誰にでもなく、ガイアが独り言のように説明している。ふと、シンシアへ振り返る。もはや敵の目ではなく、何かを求めるような目だ。

「もはやヴァルハラを救えるのはお前だけだ」

 救う? 誰が誰を? シンシアには言葉にするだけの力が残っていない。苦しそうな瞳に映ったのは……迫り来る光。

 ごうんっ! シンシアのすぐそばで、衝撃とともに爆炎が展開する。ヴァルハラのでたらめな攻撃がたまたまこちらに飛んできたか。

「あ、あはは……さすがに効いたなあ……」

 ガイアのすぐ後ろで、アイヌラックルが黒こげになってうめいている。今のは明らかに、シンシアを守るための行動だった。一瞬気遣うように後ろを見、ガイアはもう一度こちらへ向く。手のひらに魔力が光となってともる。しかしそれにまがまがしい物は感じられなかった。

「ソウルウエイバーに対抗できるのはソウルウエイバーのみ……頼む、ヴァルハラを救ってくれ……!」

 視界がゆがんだ。

 昔、師匠にテレビという物を見せてもらったことがある。いろんな映像を映すことのできる、先文明の遺産。そのテレビの調子がおかしいときの画像とよく似ている。くるくると回転したり、砂漠のような白い点滅や、左右に波打つように揺らいだりもする。そして次第に暗転していき──シンシアの意識も、そこで途切れた。

 ローズマリーの弟子、先日屋敷に迷い込んできた兄妹、よくわからない変な男、そしてスピカの娘。5人は安全なところまで跳んだはずだ。

 空間転送を終え、ガイアは立ち上がり、振り返る。笑いの絶えない弟は、父の無差別攻撃をまともに受けながらもやはりまだ笑っている。しかしその声も弱々しい。笑い以外の感情を失った、哀れな弟に肩を貸し、なおも暴走を続けるヴァルハラに立ちはだかる。

 ヴァルハラには、もはや何も見えていない。もはや、何も聞こえていない。百万本の針で細胞のひとつひとつをつつかれるような苦痛。頭蓋骨を割られ、脳をむき出しにされたような激痛。胃液だけでは足らず、内臓ごと吐き出しそうな嘔吐感。黒で塗りつぶされた景色の中に、幾筋もの稲光が駆け抜ける。落雷よりも大きな耳鳴りの中で、彼はひとつの言葉を聞いた。5年前から何度となく繰り返される、ただひとつの呼び声を。

(シンシア……シンシア……!)

「黙れ…黙れ黙れ黙れ……! これ以上…我の魂を…むしばむな……!」

 腕を振り、腕を振り、腕を振る。しかし呼び声は消えない。気が狂いそうなほどに、その呼びかけはいつまでも続く。

(シンシア……シンシア……!)

 ヴァルハラは知っている。この声が誰であるか。少しだけ落ち着きを取り戻し、対処を見いだした。この苦痛から逃れる方法を。

 貧血から立ち直るときのように、視覚と聴覚、平衡感覚が取り戻されていく。『彼』の支配から何とか逃れることができたか。ヴァルハラは四つん這いだった。脂汗を地面へしたたらせ、大きくあえいでいる。その苦渋の顔を、にやあっと不気味な笑みへと変えてつぶやいた。

「そうか……そんなに妹を案じるのならば……この手で葬ってくれよう……さすればヌシも……成仏できるであろう…!」


         *


 この二人の子供を拾ってからどのくらいの月日がたったのだろうかと、彼女は考えた。

 確か12年くらいか。生まれて間もない妹と、まだしゃべることもままならぬ兄。その二人が、今ではいっぱしの口をきくくらい生意気に成長した。生意気な子供達だが、この12年、退屈はしなかった。むしろ、楽しい日々だったかもしれない。

 彼女はほんの少しだけ頬をゆるめ、木目の床に倒れる兄妹を見つめていた。しかしそれもわずかな時間。彼女は表情を引き締め、いすに座って足を組む。テーブルの向こう側に座る、一人の老人──ヴァルハラを見据えて。

「で、わたしにいったい何の用だい? こいつらをこんな目に遭わせるからには、それなりの理由が欲しいもんだね?」

「なに……ローズマリーの弟子が…どのくらいの者かと思ったのだが……ふん、ひとにらみで卒倒するとはな……」

 くっく、とのどの奥からしわがれた笑いを漏らしている。ローズマリーは、はん、と鼻で笑い、大仰に肩をすくめて見せた。

「確かに不肖の弟子どもさね。恐怖フィアに対抗する手段も教えてあったはずなんだけどねえ」

「弟子か……まさかヌシが魔導師になるとはな……」

「なあに、老後の道楽さね」

「何の意味がある……我ら黒の一族ダーク・ブラッドに…呪文など不要だというのに……」

 ローズマリーは、眉根をひそめた。あまり触れられたくない過去を思い出したからだ。自分の生い立ちに負い目など感じてはいないが、お世辞にも良い思い出だったとは言えない。

 おどけた表情に、すぐに戻す。

「今言うたろ? 老後の道楽だと」

 17年ほど前、一族から離脱したローズマリーは、魔導師協会を訪れた。のちに伝説ともなる早さで免許を取得。数年を学園教師や協会直属の魔導師としてつとめ、この山奥へ隠居した。そういえばジオークとシンシアを拾ったのは、それからまもなくだったか。

「なにが老後か……ようやく目尻にシワが出始めたばかりのくせして……」

 ヴァルハラの言葉には、ねたみの感情が込められていた。

 喜寿(77歳)を迎えたにも関わらず、ローズマリーの外見は、まだ40に届かない。一般人と比べて倍ほど老化に時間がかかっているとわかったのは、ごく最近のことだ。なにしろ、伝説や文献を除けば、自分以外でこの体質の者がいないのだから。

「そうさね。わたしも40過ぎまでは不老不死かと思ったもんさ。ようやく年を取り始めて、安心しているよ」

「安心……? 何が嬉しいというのだ……?」

 彼女は、にんまりとした笑みで言った。

「そりゃ嬉しいさね。縁側でひなたぼっこをしながら膝に猫を抱いてお茶をすするのが夢だったんだからね」

 ヴァルハラは舌を打った。この女の言うことは、どこまでが本気でどこからが冗談なのかわからない。相変わらず人を食った女だ。

 少しばかり小馬鹿にしたように──それでいてどこか本当にうらやましそうに──彼女は目を細めた。

「年相応のあんたがうらやましいくらいさ」

「ならば……交換しようではないか……」

 途端、彼女から皮肉げな笑みが消えた。警戒心をむき出しににらみつける。

 ローズマリーは知っている。この老いぼれが、冗談を言うような性分たちではないことを。

「ソウルウエイバー……この言葉を知っているか……?」

 魔導師ローズマリーは即答した。

黒の一族ダーク・ブラッドに伝わる、伝説の魔導書。先文明の究極の技術が記されているあの書物に……あんたは手を出したのかい?」

われ一人では手に余る書物だった……が、ある一人の男が解読を手伝ってくれてな……」

「部外者を里に入れたというのかい!?」

 ばんと机をたたき、腰を浮き上がらせる。あの沈着冷静厚顔無恥なローズマリーが声を荒らげていた。ヴァルハラは少しばかり優越感を感じたか、しわだわけの顔をさらにしわくちゃにし、くっくと嫌みったらしい笑い声を漏らす。

「部外者か……あの男はスピカと思い合っているようだが……」

 口を開けたまま、ローズマリーはいすに座り直した。いや、腰の力が抜けたのかもしれない。嬉しいんだか悲しいんだかわからない複雑な顔を隠すように下へ向ける。

「そ、そうかい……あの馬鹿娘、結婚したのかい」

「子供も一人いる……ヌシに似て、なかなか気丈な娘だ……」

「……わたしに似たのなら、さぞかし美しい娘なんだろうね」

 しゃあしゃあと言うが、気を落ち着かせるために無理して言ってるのかもしれない。ローズマリーはそれを心の片隅で認めていた。

「ソウルウエイバーには三つの意味がある……ひとつは、この魔導書のタイトル……ひとつは、広義の魔法使い……そして、残りひとつは…生命の高みに立つ者という意……」

 ヴァルハラは話を戻し、いつものうめくような口調で続ける。

生命の融合ソウル・フュージョン……異なる肉体と精神を融合させる生命魔法……生命の融合ソウル・フュージョンにより人は生命の高みに立つ者ソウルウエイバーになれると……魔導書には記されている……」

「なるほど。それで身体を交換しようと?」

 目を据えて、ローズマリーは低く言う。肘をついた手に顎を乗せ、値踏みするようにヴァルハラを見やる。そして、吐き捨てた。

「冗談じゃないね」

「ヌシは…我をうらやましいと言わなかったか……?」

「うらやましいとは言ったけど、あんたになりたいとは一言も言ってないね。ばかばかしい。人はどんなに頑張ったって、他人にはなれないんだよ。人が目指すべきは他人じゃない。より成長した自分。違うかい?」

 ゆらりと、ヴァルハラは立ち上がった。聞く耳持たないといった感じだ。

「そう思うのはヌシの勝手……だが、我には我の目指すものがある……ヌシに…自分の考えを押しつける権利はない……」

「わたしにだって、あんたの勝手な考えを押しつけられる義務はないね」

 この男は、人の言うことを聞かない。それはローズマリーとて同じことかもしれないが。絶対の信念を持った強力な意志、と言えば聞こえは良いかもしれない。だがこの場では争いは必死だ。何より相手は黒の一族ダーク・ブラッド。魔導師協会最高峰といえども容易に戦える相手ではない。となると、久しぶりに呪文詠唱抜きスペル・レスでいくしかないか? だが、一族から離脱した彼女にとって、それは屈辱的なことだ。一瞬のいとまに様々な考えを巡らせるが──

 どうっ!

「!?」

 視界の隅に閃光が走ったと思った瞬間、胸に焼け付くような痛みが走った。すぐに熱い物がこみ上げてくる。血を吐き、ローズマリーは床にはいつくばった。

「ヴァルハラ、あんた……」

 せき込み、言葉が続けられない。

 小屋の壁に異変はない。今の魔法弾は、空間を跳躍してきた。時空魔法はヴァルハラには使えないはず……

「だまし討ちが…ヌシの専売特許とでも思ったか……?」

 彼の視線の先──窓の外に人影がふたつあった。

「が、ガイア~。いいのかよう? あれは、あのローズマリーだよ?」

「……ヴァルハラの命令だ」

 若い兄弟が、気もみ危ぶむように木陰からこちらを伺っている。

「紹介するのが遅れたな……息子のガイアとアイヌラックルだ……なかなか優秀に育ってくれたよ……力そのものはまだ我らに及ばぬがな……」

 残念ながら、ローズマリーは時空魔法を使えない。時空の波長は感じ取れないこともないが、相当の集中力を使う。刺客の存在をあらかじめ知っていれば防げたかもしれないが、時空魔法をだまし討ちで使われてはお手上げだ。

「鳶が鷹を生むってやつかい? まさかあんたの息子が時空魔法に長けるなんてね」

 この期に及んでも、ローズマリーは減らず口をたたくことを忘れない。

 しかし、まいったね。とローズマリーは胸を押さえてうずくまりながらそううめく。手に、ぬるりとしたなま暖かい感触。力一杯押さえつけても、血はどくどくとあふれ出てくる。口の中にも鉄の味がいっぱいに広がっている。急所を貫かれている。治癒魔法ももう手遅れだろう。

「我は…ならねばならぬ……至上の力…完成された肉体……ソウルウエイバーに……」

 盲信のように、ヴァルハラはぶつぶつとつぶやいている。

 ローズマリーは知っている。この男がなぜ闇雲に力を求めるようになってしまったのかを。

 それは、すぐそばに自分がいたから。兄よりも能力ちからに優れる妹がいたから。だから、彼女は里を離れた。だが、それでも彼は追ってきた。正気を失って。

(あんたたちは、こんな風になるんじゃないよ……わたしたちみたいな兄妹には……)

 彼女が最期に思ったこと。それはジオークとシンシアへ向けての言葉だった。

「重要なのは、肉体でも能力でもないんだよ、ヴァルハラ。まっすぐな精神、汚れ無き心、純粋なる魂……。それがわからぬ限り、あんたはソウルウエイバーなんぞにはなれないよ」

 気丈な瞳を最期に、ローズマリーは事切れた。最期に、彼を兄と呼ぶこともなく。

 動かなくなった妹を、ヴァルハラは感慨深げに見つめている。予定とは違ってしまったが、これで心の憂いはなくなる。

「う……」

 部屋の片隅から、少女のうめき声がした。確かあの少女は、ローズマリーの弟子だ。すぐそばには、彼女の兄が倒れている。

(……そうだ……)

 ヴァルハラはすばらしいアイデアを思いついた。

 あの少年に、力を授けてやろう。このヴァルハラの精神と少年の肉体で、ソウルウエイバーとなるのだ!

「シンシア! どこだ!?」

 少女は立ち上がると、少年口調でそう叫んだ。どういう偶然があったのか、兄の精神は妹の身体へ退避したらしい。

 まあ、いい。手間がひとつ省けただけだ。ヴァルハラは少年の身体を抱き上げる。

「お前、誰なんだ! なんで師匠を殺したんだ!?」

 ローズマリーは、自分が黒の一族ダーク・ブラッドであることを恥じていた。だから彼はあえて個人名ではなく、一族の通り名で名乗った。

「我か……我は黒の一族ダーク・ブラッド……出来ればローズマリーの協力が欲しかったのだが、あいにく殺さねばならなくなった……だが……」

 くっく、とのどの奥で笑い、続ける。

「代わりにおもしろい肉体を手に入れた……ローズマリーの弟子だ……」

 こみ上げてくる笑いを抑えられない。ローズマリーが選んだ弟子なら、相当の可能性を秘めているはず。若く大きな器を持った身体を手に入れたヴァルハラは、上機嫌で去っていった。


          *


 揺りかごの中にいるような、ほんのりとした心地よさ。自らの鼓動が、母の胎内を思わせる。ジオークとシンシアは、浅い眠りについていた。遙か遠くから、母の寝かしつけるような声が聞こえる。そんな気がする。

(ねえ、お兄ちゃん……)

 午後のうたた寝のような気分の中、シンシアが声をかけてきた。妹にもこの感触が伝わっているのだろうか? いや、伝わっていないはずがない。自分たちは、心も、身体も、運命をも共有しているのだから。

(なんだ?)

 この夢の中で、二人は抱き合って過ごしているのかもしれない。一種、背徳感のような物を感じながら、ジオークは問い返した。

(お師匠様の声、聞こえた?)

(……ああ)

 あんたたちは、こんな風になるんじゃないよ……わたしたちみたいな兄妹には……

 師匠の残した最期の言葉、それは確かに聞こえていた。長い間記憶の奥底に沈んでいたが、このまどろみの中、思い出した。

(妹が兄に勝るって、つらいことなのかな?)

(……さあな)

 正直、わからない。ジオークは闘者、シンシアは魔法使いと、別の道を目指していた。そして、運命共同体となった今、兄妹で争うということは非常にナンセンスだから。

 しかしジオークは、ヴァルハラが暴走したわけを、ローズマリーの苦悩を知ったような気がした。

(ヴァルハラを……救えるかな?)

(……さあな)

 先ほどと同じつぶやきで返し、続ける。

(俺がヤツにできることは……戦うことだけだ)

 ふわふわした感じが、少しずつ薄れていく。感じるのは、布団。そして──子守歌?


 未練み~れん~だらけの~ 人生~だ~けど~

 後悔こ~かい~~だ~け、は~ し~ちゃ~い~ない~

 そ~れが~わたし~の~ 男節お~と~こ~、ぶ~し~~~


「うどわあっ!?」

 耳元に響くこぶしの利きまくった演歌に、思わずジオークは跳ね起きた。最初に目に入った物体に握り拳をたたき込んでから、ぜいぜいと息をつく。

「い、いきなり非道いのではないか、美しき乙女よ……?」顔面に赤いあざを浮かび上がらせ、リューベックがうめいた。

「人の枕元で異様な歌を歌うからだ。おかげで最悪の目覚めだぞ」

「ぬう。それでは気分はどうかな?」

「だから最悪だって……」

 と言いかけて、事態を思い出した。確か、ヴァルハラに殺されかけていたはずだ。それが、なぜこんなところに?

 見回すと、天幕付きのベッド、ふかふかの掛け布団が目に入った。これには見覚えがある。ここはセフィールに借りた部屋だ。窓から日が射し込んでいるが、もう結構高い位置まで上っているらしく、ベッドには届いていない。

 ピンクのパジャマに身を包んでいる。これはたぶんセフィールの物だろう。丈が少し窮屈で、胸のあたりはぶかぶかだ。

「今、何時だ?」

「うむ。まもなく10時になるところだぞ」

 あれから5時間程度だ。肩を回し、軽く屈伸運動をしてみる。結構な筋肉痛と若干の疲労感が残ってはいるが、半死半生のあの状態が嘘のような回復度だ。

「お前、何かやったか? 回復魔法なんてのは存在しないはずだぞ?」訝って、問うてみる。

 普通、治癒魔法は存在するが、回復魔法というのはあり得ない。治癒とは傷をふさぐこと。回復とは体力を取り戻すこと。魔力とは精神力であり生命力であり、そして体力でもある。魔法で体力を回復させることはできないのだ。

 リューベックは角張った顔を得意満面にした。

「これこそが我が秘奥義、『男節』である! 確かに直に体力を回復させることはできない。この魔法は対象者の回復力を上げる魔法なのだ」

 ぬう。と、ジオークは腕を組んでうなる。これにはふたつの意味があった。

 確かに大した魔法だ。発想の裏というか、コロンブスの卵かもしれない。

 確かに大した魔法だ。歌詞じゅもんと効果がまるで一致していない。ついでに言えば魔法名タイトルとも。

「とはいえこの短時間でそこまで回復させるに、これを併用したのだが」

 リューベックの手元には、例のスピーカーがあった。

「スピーカーで魔力の増幅はできないはずだぞ?」

「うむ、なかなか鋭い質問だ、美しき乙女よ。男節は疑似回復魔法であると同時に治癒魔法でもあるのだ。スピーカーにかかる負荷は、治癒効果で相殺されるというわけだ」

「しかし、どうやって助かったんだ?」

 これにはシンシアが答えた。リューベックからスピーカーをひったくり、妹の声が出るように調整する。

「ガイアって人が、時空魔法で私たちを逃がしてくれたのよ」

黒の一族ダーク・ブラッドが?」

「ここはセフィール殿の屋敷。ガイア殿が、このエルランダの町の近くまで転送してくれたのだ」

「あのむっつりの方か……」

 敵の意図が分からなくなった。あいつらはヴァルハラを救うためにセフィールを狙っていたはずだ。

 ──と、

「めらめらぼーぼー!」

 どかーん! 黄色い叫び声と同時に、爆発音がとどろいた。

「くっ、また攻めてきたのか!?」

 爆発はすぐ近くだ。この部屋のすぐ外側かもしれない。ジオークは窓へ駆け寄って勢いよく開ける。そこにいた者は──

「ああっ! お肉が消し炭なのよ!」

「オー、マドモアゼル。今のは火力が強すぎたね」

「や、焼き肉……?」

 ジオークは激しい脱力感を憶え、窓枠に突っ伏した。アーミュアとサミュエル、ハガーやセフィールも一緒になって、屋外で焼き肉の準備をしていた。

「あ、ジオーク。目が覚めたのね。食事の用意ができてるわよ」

「あのなあ、今はメシを食ってる場合じゃ……」

 ぐきゅるるる。と狙い澄ましたかのように腹の虫が鳴る。おかっぱ頭をぼりぼり掻き、ジオークは諦めることにした。リューベックを追い出し、闘者の衣装に着替えてから外へ向かう。香ばしい香りがここまで漂ってきている。正直、空腹ではあった。あれだけ消耗していたのだから無理もない。

 ゆうべの戦いのあとも痛々しい庭の一角で、ちょうどサミュエルが鉄板に火をともすところだった。

煉獄火炎嵐バーニング・ストーム!」

 単なるフレイムに、どうやったらあんな仰々しい魔法名をつけられるのかね、とジオークは陰鬱げに毒づいた。まあ確かに魔導師協会の制定した標準魔法は、フレイムとか照明イルミネートとか治癒ヒーリングとか、味も素っ気もない物ばかりだが。サミュエルの魔法は、実効果よりも大げさなネーミングばかりなのが困りものだ。

「まあいい。メシのついでに、爺さんには洗いざらい話してもらおうか。どうせそのつもりなんだろう?」

「お見通しのようですな」

 焼き肉合戦と相成るラインハルト兄妹&サミュエルは耳目センサーに感知しないことにし、アデナウア親子の話に集中する。

 20年近く前、魔学者であるハガーは黒の一族ダーク・ブラッドの集落へたどり着いた。部外者を極度に嫌う彼らの内で、唯一好意的に接してくれたのが──

「スピカです。私は彼女と結婚し、セフィールが生まれることになります」

「そして、スピカは魔導師ローズマリーの娘──」

 ハガーは感慨深げに息を吐いた。

「そうです。私が集落にたどり着いたとき、ローズマリーは既にいませんでしたがな」

 彼は黒の一族ダーク・ブラッドについて調査を始めた。彼らが先文明人類の直系であること、精神力のみで魔法が使えることなどを知り、先文明の遺産もいくつか残されていることを知った。

「さすがにその調査まで、彼らは許してはくれませんでした。ある老人を除いて……」

 ハガーの前に現れた老人、彼は一冊の魔導書の解析を依頼した。

「それが、魔導書『ソウルウエイバー』……。その老人、ヴァルハラの野望のきっかけとなった書物です」

 ヴァルハラの野望を知ったハガーは、スピカとセフィールを連れて集落から逃亡する。追っ手もなく、別の町で過ごしていた。だが、監視の目は光っていたのだ。持っていた串の束を握りつぶし、ハガーは話を続ける。

「3年前、ヤツはまた現れました。若い肉体を手に入れて……尋常ならぬ苦痛に、正気を失って……」

 ヴァルハラはジオークとの生命の融合ソウル・フュージョンを図り、失敗した。同族でないといけないと判断したか、スピカを狙ってきたのだ。親子は這々の体で逃げるが、このときにスピカが犠牲となった。

「私たちは再び逃亡を続け、そしてエルランダにたどり着いたわけです」

 彼らからの話は終わったか、短い沈黙が訪れる。いつの間にか、リューベックらも黙って話を聞いていたようだ。

「……で、これからどうするんだよ?」

 口を開いたのはサミュエルだ。焼き肉をほおばりながらだから締まりが悪いが。

「決まってんだろ。腹ごなしが済んだらもう一度乗り込む」

「ばかな! て、ぅわちゃちゃちゃ!」

 焼けた鉄板をたたき、転げ回る。いつ見てもこいつは滑稽だ。しかしサミュエルは火傷の涙を拭い、ジオークへ詰め寄る。

「逆立ちしたってあいつらに勝てないことは、さっきの戦いでわかってるはずだろう!? お前が本来のジオークなら、僕だって止めはしない。けど、その身体はシンシアなんだ! お前は自分の妹を危険にさらしているんだぞ!」

 一気に吐ききり、言葉を詰まらせる。黙っていると、もう一度鉄板をたたきそうになり、慌てて手を引っ込める。

「この場は逃げるべきだろう? なんで勝てない戦いを挑むんだよ!」

 この馬鹿は、この馬鹿なりにシンシアを心配している。それだけは認めなければなるまい。ジオークは微苦笑を漏らす。たぶん、妹も同じ気分だったろう。

「師匠の言葉だからさ」

 目をつぶり、思い出しながらのように、ジオークは答える。

「守りたいものがあるのなら、その障害を取り除け。逃げるだけでは、いつまでたっても解決しないから……」

 そうだ。師匠は後悔していた。強き自分を、不老の自分をねたむ者から逃げたことを。そのせいで、さらなる悲劇を生んだことを。逃げることを師匠は望まない。逃げることを、シンシアは望まない。

「だから俺は戦うんだよ。大事なものを守るためにな!」

 ジオークの宣言には、ハガーもセフィールも耳が痛い思いだった。自分たちを逃がし、自らは勇敢に立ち向かった母の姿が脳裏によみがえる。優しく強く、たぶん祖母にそっくりであったろう母の姿が。

 遠くを見つめ、ジオークはつぶやく。

「それに──逃げるったって、もう手遅れだ」

 ごうんっ!

 轟音。震動。爆煙。そして悲鳴。

 ジオークの言葉とほぼ同時に、災厄は再開された。

「シンシア=イクティノス……そこにいたか……!」

 紅蓮の炎をバックに──これは比喩ではない──、ヴァルハラが一同の前に立っている。血走ったあの目は、狂気。もはや、ジオークの面影も残っていない。狂人の姿がそこにあった。

(私を狙っている……?)

 セフィールではなくシンシア。ヴァルハラのたくらみがわからず、シンシアは困惑している。ひとつだけ言えるとするならば、限りなき絶望がこの場に存在するということだ。

「死ね!」

「散れ!」

 敵と同時にジオークは叫び、跳ぶ。

 ずあっ! 巨大な光の軌跡が、空間を駆け抜けた。さながら光のトンネルが現れたみたいだ。鼓膜を破りそうなほどの轟音とともに、後方の屋敷が崩れていくのがわかる。素早く他のメンバーの安否を確かめようとするが──

「我が安息のために……シンシア=イクティノスよ……兄の元へゆけい!」

 体勢を立て直すだけの暇がなかった。視界いっぱいに広がる白い光。それは美しくさえもあった。この光の先に、あの世というものがあるのだろうか。逃げることを忘れ、そんなことを考えてしまう。

 だが、まだ死の世界を拝むことにはならなかった。

 光跡は横にそれ、屋敷の壁をぶち抜いて町の中で展開した。

 あり得ない曲がり方だった。まるで鏡にでも反射したかのようなあの強引な変化は、空間そのものをねじ曲げない限りは──そこまで考えて──一人、いや二人の男がジオークの前に出現した。

「もう、やめてくれ…ヴァルハラ……」

 ガイアとアイヌラックルだった。寡黙なガイアが、つらそうに顔をゆがめている。アイヌラックルも、いつもの不自然な笑みはなかった。ただじっとヴァルハラを見つめている。

 セフィール達は、総じて無事なようだ。多少の怪我は負っているみたいだが、遠巻きからこちらのやりとりを不安そうに見ている。

「そこをどけ……」

 ガイアはかぶりを振った。

「目を覚ましてくれ、ヴァルハラ。私は、こんなあなたの姿を見たくない」

「そこをどけと言っている……」

 ヴァルハラがにじり寄ってくる。ガイアはアイヌラックルと並んで、後ろのジオークを守るように立ちはだかっている。顔は向けず、声だけでこちらに語りかけてきた。

「ヴァルハラを倒してくれ。もう、それしか方法がない……」

「なんなんだよお前らは……」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。だが、それ以外に言いようがなかった。

「我々は、ヴァルハラを救いたかった。我々は、ヴァルハラとは戦えない。どんな姿になっても、あれは私たちの父親だからだ」

 簡潔な言葉の中に、全てが含まれていた。彼らがヴァルハラとともに暴走した理由が。彼らよりも力の劣るはずのジオークに討伐を頼もうとする理由が。

生命の融合ソウル・フュージョンに失敗はしたが、力だけはソウルウエイバーに匹敵する。あれは、完全なるソウルウエイバーをもってしか対抗できない。その可能性は、お前にだけ秘められている」

「わ、わけがわからねえよ、お前の言っていることは!」

「父は、魔導書の解析を誤った。単なる生命の融合ソウル・フュージョンではソウルウエイバーにはなれない。なるために必要な物は……」

 言葉は最後まで聞き取れなかった。ヴァルハラの放った一撃が、二人の息子を倒してしまったからだ。

「愚息が……手塩にかけて育ててやった恩を忘れおって……」

 ──何を言ってるんだ、この男は?

 ジオークもシンシアも、思考が停止していた。まるで、自分とは関係のない世界を見聞きしているような気分だった。

「あははあ……父さんは、最後まできっついなあ……」

 そこにあるのは、もはや黒い肉塊にすぎなかった。それでも、アイヌラックルは笑っていた。

「なんで…笑えるんだ……?」

 こぼれるようなこの声も、自分から出ているとは思えなかった。全ては劇で、自分は観客でありたかった。だが客であるはずの自分の言葉に、役者は答えた。

「アイヌラックルには負の感情がない。生命の融合ソウル・フュージョンに失敗したヴァルハラは、退避先にアイヌラックルを選んだ。そしてそれにも失敗し、弟は笑い以外の感情を失ってしまった」

 ガイアもまた、全身に大やけどを負っている。だが自分のダメージなどいとわず、弟に治癒魔法をかけている。もはや、手遅れであろうにもかかわらず。

「役に立たない子供達だったな……やはり頼れるのは自分だけか……」

 目の前の兄弟は、お互いをいたわっている。それなのに、その先にいる父親は、なぜぞんざいでいられるのだろう?

 ジオークもシンシアも、幼くして両親を失っている。だから、親のぬくもりを知らない。人一倍、親というものにあこがれていた。

 だから、わからなかった。わかりたくなかった。

 ジオークだって知っている。シンシアだって知っている。

 子に手を挙げる親がいることを。親を親とも思わぬ子がいることを。

 子育てを放棄する親がいる。親に寄生する子供がいる。煩わしいこともある。疎ましいこともある。

 だが、それでも肉親なんだ。手を挙げられるはずがない。見捨てられるはずがない。

 愛情は押しつける物じゃない。愛情は要求する物じゃない。愛情は、感じ取る物だ!

 激しい動悸とともに、熱い物が全身を駆けめぐっている。

 息子の、親への情を理解しようともしない男へ、ジオークもシンシアも全く同じ思いを抱いていた。

「お前を許さない!」

 空が、割れた。

 天へ走った光が天球をまっぷたつにし、そこにあった雲は切り開かれていった。曇りかけていた空に、青々とした明るさが取り戻される。

 全ての人が言葉を忘れ、そのすさまじい光景に見入っていた。

 止まった時間が再び流れ出したかのように、セフィールは我に返ってジオークへ目を向けた。

「ジオーク……? シンシア……?」

 セフィールにはわからなかった。その場にいた他の人にもわからなかっただろう。

 静かにたたずむ女性がいた。肩ほどで切りそろえられた黒髪で、闘者の衣装に身を包んでいる。微かに光を放っているように見えるのは、あれは光衣だろうか?

 母性と野性を同時に秘めた美しい顔立ち。右の瞳はルビーのように赤く、左の瞳はエメラルドのような碧色に輝いている。

「誰だ…ヌシは……?」

 ヴァルハラもまた困惑していた。自然と、そんな疑問が口から漏れる。

 シンシアの声で、ジオークの口調で、『彼女』は言った。

「お前の死に神だ」

 『彼女』は駆けた。途端、我を取り戻す。ヴァルハラは危険を感じ、眼前に力を込める。不可視の壁が彼を守るはずだった。が──

 ぶしゅあっ! 最初に耳に入ったのはそんな奇妙な音。肩から噴き出した血しぶきだと気づくのは半瞬後である。

「馬鹿な……」

 肩に手を当てすぐに傷をふさぐが、ヴァルハラには何がなんだか理解できなかった。

 今し方張った防護壁は、そう簡単に壊せる物ではない。しかし『彼女』は剣を抜き、こちらを見据えている。あり得ないはずの攻撃を受けたことに間違いはなかった。

「空間を斬った……」

 ガイアはとぎれとぎれにつぶやいた。腕の中の弟は、もう動いていない。

 『彼女』は、ジオークでもシンシアでもなかった。いや、ジオークでもシンシアでもあるというべきか。

 ヴァルハラは魔導書の解読を誤った。それを再入手したガイアは、改めて解読を行った。時間がなかったので、彼にも全文は理解できていない。だが、肝心の部分だけは解読できた。そこにはこう書かれていた。


 ソウルウエイバー。私はこの単語に三つの意味を用意した。

 ひとつは、この書物のタイトル。

 ひとつは、生命いのちの波動の使い手という意。

 そして残りひとつ。

 ふたつの純粋なる魂が全く同じ激情を抱くとき、その波動は何倍にも高められる。私はそれをこう呼ぶ。

 魂を高めし者。すなわち“ソウルウエイバー”と。


「馬鹿な……」

 もう一度、ヴァルハラは同じうめき声を上げる。

 彼も理解していた。理性が拒否しても、『彼女』に恐れる本能が、目の前にいる女がソウルウエイバーであると訴えている。それでも彼は理解を拒否した。

「そんな馬鹿なことがあるか!」

 呪文詠唱無しで、自分の周囲に無数の光弾を作る。それら全てを『彼女』に向けて射出する!

 ごうっ! ごばおっ!

 遙か上空で、それは炸裂した。光弾は『彼女』の寸前で上空へ跳ね上がっていった。

 『彼女』との魔力の差は、ほとんどないはずだ。それでもヴァルハラの劣性は明らかだった。同じ魔力なら、時空魔法の使い手の方が有利だからだ。全ての攻撃はねじ曲げられてしまう。全ての防御は切り裂かれてしまう。しかも『彼女』は、戦いの『型』を呪文とする闘者である。こと戦いにおいて、呪文詠唱によるタイムラグは、黒の一族ダーク・ブラッドと同様、存在しない。

 屈辱・醜態といった単語がよぎる。ますますふくれあがる負の感情は、彼の奥底に眠るもうひとつの精神を呼び起こしつつあった。

「あの世で師匠にわびてこい」

 シンシアの優しい声、ジオークの厳しい口調で、『彼女』は剣を突きつけた。

 異変はそのときに起きた。

 ヴァルハラが膝を突く。土下座でもするのかと思ったが、どうやら違うようだ。頭を抱えてうずくまっている。

「やめろ……やめろ……!」

 ひたすらうわごとのように、ヴァルハラはうめいている。その声に、別の声が混じっていく。

「……ア……シア……」

 ──誰だ、こいつは?

 そこにいるのはヴァルハラのはずだ。確信は、疑惑へと降格していた。のたうち回る彼は仰向けに倒れ、苦悶の瞳で『彼女』を見上げた。『彼女』からは逆さになった彼を見下ろす格好だ。

(ばかな……)

 脳裏でつぶやくこの言葉は、ジオークの物なのか、シンシアの物なのか。

 『彼』はヴァルハラではなかった。苦悶の顔の中に、赤い瞳が力強く輝いている。

「シンシア…か……そうか……無事だったか……」

 『彼』はジオークだった。苦渋の中に、安心したような笑みを浮かべている。

(ばかな……)

 もう一度、『彼女』は脳裏でつぶやいた。

 ジオークはここにいる。シンシアの内側に。

 『彼女』の内のシンシアは、無意識に言葉を漏らしていた。

「お兄ちゃん……」

「綺麗になったな、シンシア……」

 『彼』が手を伸ばす。『彼女』は膝立ちになり、その手を取った。

 大きく温かい手。優しい兄の手。

「心配だった……苦しかった……けど、良かった。お前にまた会えたから……」

 苦渋の様子はもう無かった。穏やかに、『彼』は語る。

「俺は、ヴァルハラに支配されている。何年も抵抗を続けた。そのおかげかそのせいか、まもなくこの身体は滅びるだろう。けどな、ヴァルハラを責めないでくれ。何年も一緒にいたせいか、俺にはこいつの気持ちがよくわかるんだ」

 強く優しい瞳は、じっと『彼女』へ向いている。

「強くありたい、大切なものを守りたい。だから、ヴァルハラは暴走した。いつの間にか、手段と目的を取り違えて、な。俺にだって、その可能性はあった」

 『彼女』を握る手に、力がこもる。『彼』の思いが直に伝わってくるような気がする。

「温かいな、お前の手は」

 『彼女』の膝の上で、『彼』はしばしの時を送る。ほんのわずかの時間だが、兄妹の蜜月の時が確かにそこにあった。名残惜しそうに、『彼』は目を開ける。

「さて、ヴァルハラがまた抵抗をはじめやがった。そろそろお別れだ」

「え…?」

「お前の手で終わらせてくれ。この無意味な戦いを」

 『彼』は真剣だった。真剣に、自分にとどめを刺せと言っている。

「わかるだろう? こいつは、きっとまた暴走する。もう、俺にも止められない。俺は、お前の悲しむ顔を見たくない」

 『彼』は、にっこりと微笑んで見せた。

「なあに、心配するな。一番大切なものは、お前の内にある」

 全てを見透かしたような瞳。そして『彼』は目をつむる。

 その『彼』に、滴が落ちた。

 『彼女』は泣いていた。赤い右の瞳から、碧の左の瞳から。

 シンシアは泣いていた。今もなお変わらぬ、兄の強さと優しさに。

 ジオークは泣いていた。端から見ればあまりにも哀れな、自分の生き様に。

 万感の思いは涙となり、止めどもなく流れていく。

 『彼女』は静かに剣を振り上げる。この悠久なる一瞬に、全ての思いを込めて。

「さよなら、兄さん」

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