第2話

   第二話 『彼女』の過去


 恐怖があった。

 天も地もわからないほど真っ黒に塗りたくられた世界の中で、ジオークはただ恐怖に打ち震えていた。

 いったいなにがこんなに怖いのか? 恐ろしさのあまり、それすらもはっきりとは思い出せない。

 怖い話を聞かされた夜に一人でトイレに行くような感じ? 夜道を一人で歩いているときに、後ろから感じる気配? それとも凶悪犯に袋小路へ追いつめられたとき?

 今感じている恐怖は、どれとも違う。ただ、訳も分からずになにかを恐れている。

 恐怖フィア。必死に自分を落ち着かせようと努力しながら、ジオークは何とかその魔法名を思いだした。

 だが、どうしてもその魔法を受けた瞬間が思い出せない。ぐるぐる回る頭を押さえ、直前の記憶を探るが、思い出せることはただひとつ。

(そうだ。誰か訪問者が来たんだ。そいつを見た途端──)

 漆黒の闇の中、ジオークは少女の泣き声を聞いた。聞き覚えのある声──いつも自分のそばにひっついている娘の声だ。

「えーん、お兄ちゃーん、お師匠様ー、怖いよー、いやだよー」

「シンシア!」

 足下も見えない中、ジオークはその声に向かって走った。いや、本当に走っていたのかはわからなかったが、とにかく走った。闇の中に一人の少女が浮かび上がる。シンシアは涙でくしゃくしゃになりながら、ジオークに気づいて飛びついた。

「怖い、怖いよ」

 ただただしきりに恐怖を訴える。彼女もなにが怖いかわかっていないのだろうか。ジオークの腕の中で、懸命に泣き叫んでいる。

「大丈夫、大丈夫だ。俺がここにいる。だから泣くな」

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……怖いよ、シンシアを一人にしないでよ」

「するわけないだろう。俺はいつだって、お前のそばにいてやる」

 ジオークは気づいた。そうだ、これは孤独の恐怖なんだ。

 がたがた震える妹の肩を力強く抱きしめ、ジオークは心に誓った。

 幼くして両親に死なれ、身寄りを亡くした兄妹は、遙か辺境に住む老魔導師の元で暮らしている。ジオークにとっては、たった一人の肉親。このかけがえのない妹は、命に代えても守らなければならない。そう、たとえこの身体を無くしたって、魂だけになったって守ってやる!──

「う……」

 闇が少しずつ薄れ、自分のうめき声でジオークは目を覚ました。

 ……なんだか身体に違和感を感じる。とりあえず手を握ったり開いたりをしてみる。神経は通っているようだ。違和感はあるが、痛みはない。うつぶせで倒れているようだった。ジオークは肘をつき、続いて膝をついて四つん這いになり──ぱらりと髪の毛がたれてきて気づいた。

(俺、髪の毛なんか伸ばしてたっけ?)

 少しずつ目を開ける。まず視界に入ったのは、木目の床。師匠の家の床だ。毎日掃除をしているから見飽きている。次に確認したのが、髪の毛。やはり長髪になっている。柔らかい、猫のような髪の毛だ。

「なんで……」

 耳に響く声もジオークとは違っていた。もっと甲高い、女の子のような声──

「まさかっ!?」

 がばっと起きあがり、手のひらを見つめる。毎日の師匠のしごきのせいで少しかさついているが、白くしなやかな手のひら。これには見覚えがあるが、明らかにジオークの物ではない。その手を頬へやり、顔の輪郭を確認する。ほっそりとしたこの感じも、今までの自分とは違う。

(う……ん……え、私……?)

 少女の声が聞こえた。いや、耳に聞こえる声とは違う。頭の中で直に響いた感じだ。

「シンシア! どこだ!?」

 天井に向かって、ジオークは叫ぶ。だがむろん、シンシアは天井になどいない。

(え、なに? なんなのこれ!?)

 妹もこの異変に気づいたようだ。

 この髪はシンシアの物だ。この声はシンシアの物だ。この手はシンシアの物だ。鏡がないので顔までは確認できないが、間違いない。ジオークはシンシアになっていたのだ。

「ほぉ……。娘の方へ逃げ込んだか……」

 濁った男の声に、ジオークはハッとなって目を向けた。

 そしてまた恐慌に陥りそうになる。

(だめだ、直視できない)

 ジオークは目をそらした。それでも肌が粟立ってくるが、直接相手を見るよりはマシだった。背けた視線の先に、一人の女性が倒れていた。

「師匠!」

 木材をそのまま使った板張りの床の上に、師匠が血を流して仰向けに倒れている。

 師匠、魔導師ローズマリーは確か喜寿(77歳)を過ぎていたはずだ。だが目の前にいるのは、どう見ても40絡みの中年女性。極端に魔力の高い者は老化が遅くなると師匠はそう言い、自らそれを証明していた。

 その師匠が死んでいた。老衰などでは決してない。胸と口元から血を流し、なにかを訴えるように目を見開いている。中年ながらも相当な美女だった師匠の顔は、今にも襲いかかってきそうな迫力のまま固まっていた。

 部屋の中に争ったような形跡はない。あの師匠が、一撃で殺されたってのか?

(な、なんで……)

 悲しみというよりもなにがなんだかわからないといった口調で、シンシアが頭の中でうめいている。ジオーク自身、さっぱり訳が分からなかった。

「まあ…いい。ローズマリーは死んだ……」

 風邪をひいたときのような、しわがれた声。老人のようだ。師匠を殺したらしいその人物へ、ジオークは目をそらしたまま怒鳴りつける。

「お前、誰なんだ! なんで師匠を殺したんだ!?」

「我か……我は黒の一族ダーク・ブラッド……出来ればローズマリーの協力が欲しかったのだが、あいにく殺さねばならなくなった……だが……」

 くっく、とのどの奥で笑い、老人は続ける。

「代わりにおもしろい肉体を手に入れた……ローズマリーの弟子だ……」

 愉快げなその声に、鳥肌が立った。同時に死すら生ぬるいほどの危険な予感が駆け抜ける。

「てめえ、俺の身体を……!」

 恐怖をこらえ、ジオークは敵をにらみつける。

 相手は呪文を唱えていないのに、恐怖フィアの波長が身体を貫いてくる。あの老人は、呪文を介さずに魔法が使えるのだろうか?

 激しい動悸に、身動きもしていないのに息が上がる。そのせいか、直視しているはずなのに、はっきりと相手の姿をとらえることが出来ない。わかるのは、老人らしいということだけだった。

(いやあ! こないで! お兄ちゃん、怖い、怖いよ!)

 がんがん響くほど、シンシアが頭の中で泣き出した。ジオークはかろうじて耐えているが、妹はあの圧倒的な魔力に正気を維持できないらしい。たまらず、また目をそらした。

「私は機嫌がいい……今日はこれで去ることにしよう……兄妹、仲良く暮らせよ……ふふ、ふふふふふ……」

 結局、相手が何者なのかもわからぬまま、静寂が取り戻された。ジオークは膝をつき、痛いほどに鼓動を打つ胸を押さえる。

(いやだ、やだよう……助けて、お兄ちゃん……)

「俺はここにいる……お前を残して、どこにだって行きはしないよ。だからシンシア……泣くな……」

 妹を、そして自らの身体を抱きしめながら、ジオークはつぶやいていた。たとえ身体を無くしたって、魂だけになったって……と、呪文のように、何度も、何度も──


          *


 ──あれから5年。

 ジオークはひたいに手を置き、まぶしそうに目を開けた。見えるのは床ではなく、天井。天幕付きのベッドの上に、ジオークは寝ていた。

 アデナウア家でのひと騒動の後、軽く事情説明だけし、気を落ち着かせるために休憩をとらせてもらった。どうやら少し眠っていたようだ。

(また、あの夢だったね)

(ああ……)

 独白気味の妹の声に、ジオークもまたうつろに答えた。

 身体を共有している関係上、この兄妹は同じ夢をよく見る。一緒に眠りについたときは必ずと言って良いほど夢まで共有してしまう。ジオークが先ほど夢で見た5年前の出来事を、シンシアも見ていたようだ。

 5年前に師匠を亡くし、ジオークの肉体も行方不明になった。

 手がかりは『黒の一族ダーク・ブラッド』という言葉のみ。修行と放浪を続け、ついにその手がかりを見つけたのだ。あの連中からなんとしてでも聞き出さなければならない。──ジオークの身体の行方を。

 そのためにはまず、アデナウア親子に尋ねなければならないことがたくさんある。ジオークはベッドを降り、乱れた衣服を整える。現在はいつもの闘者の衣装だ。

「もう1時間経ったな。シンシア、代えるぞ」

 そう言い、ジオークは精神の奥底へ潜り込む。目をつむったときに見える赤い星空の中でシンシアと会い、バトンタッチするように入れ替わる。

 シンシアはゆっくりと目を開ける。自らの意志で動く視界に、彼女は制御権が自分へ移ったことを知った。

「事態が事態なんだし、私は引っ込んでても良かったんだけど」

(一日交代は、一応約束したことだからな。せっぱ詰まらない限りはちゃんと守ろうぜ)

 変なところで律儀な兄である。さっきはお風呂に入るためだけに制御権を奪ったくせに。

 シンシアはひとつ深呼吸をし、部屋の扉を開ける。幅の広い廊下の壁際に、セフィールが待っていた。いつも元気そうなその顔は、今は少しかげっている。

「もう大丈夫?」

「はい。ご心配おかけしました。兄はもう少し休みたいとのことなので、お話は私がします」

 セフィールは少し安心したように軽く息をつき、シンシアを応接間へ案内する。夕べと同じ景色の部屋へ入り、ソファーに腰掛ける。向かい側にはアデナウア親子が座った。

「そういえば、お母様はいらっしゃらないのですか?」

「妻は、3年前に他界しましてな」

「あ……すみません」

「いえ、それよりも先ほどの話の続きをしましょう。この屋敷を襲ったのは、黒の一族ダーク・ブラッドを名乗る者で間違いないのですな?」

 真摯な瞳を、初老の男はこちらへ向けた。シンシアは軽くうつむき、表情を引き締めてから顔を上げる。

「はい。彼らは『ソウルウエイバー』という魔導書を手に入れたと言ってました。心当たりはありますか?」

 ハガーはテーブルの上に置かれた小箱から葉巻を一本取り出し口にくわえ、ライターで火をつける。葉巻は古風でライターは近代的。少々アンバランスに見えた。老紳士は白い煙をひとつ上へ向けて吐き、

「あれが持って行かれましたか……いや、それだけで済んだのが不幸中の幸いか……」

 使用人に何人かの怪我人が出たのと、建物の一部が火災の被害を受けたが、さほどではなかったそうだ。野盗は役所へしょっ引かれたが、黒の一族ダーク・ブラッドのことはよく知らないと言っているという。ただの雇われちんぴららしい。

 質問の色がシンシアの顔に浮かび上がっていたか、ハガーの方から説明を始めた。

「魔導書『ソウルウエイバー』は、端的に言えば魔法の神髄について書かれた書物です」

 当時は魔導書ではなくレポートと呼ばれる物だった。

 生命いのちの波動。魔法の原型とも言えるこの波長について、レポートには書かれている。先文明の末期に体系づけられた、生命いのちの波動の使い方や覚醒の方法。現在の魔法使いには及ばぬ事すら記されているという。

 生命いのちの波動の使い手──つまり広義での魔法使い──を、このレポートではこう呼んでいる。

 すなわち、ソウルウエイバーと。

「残念ながら私には難しすぎる書物でしてな。しかし書かれている内容の危険性は理解できるので、人目に触れぬよう倉に保管しておいたのですが……」

 魔法の神髄が記された魔導書『ソウルウエイバー』。元々強力な魔力を持つ黒の一族ダーク・ブラッドがなぜこれを狙うのか?

「教えてください。黒の一族ダーク・ブラッドとは、いったい何者なんですか?」

 静かに、しかしはっきりと強い口調で、シンシアは問うた。ハガーはしばし黙っていたが、答えるのをためらっているのではなさそうだった。考えをまとめているような沈黙に見えた。たっぷり1分以上、振り子時計の針の音を聞き、ハガーは言葉を紡いだ。

黒の一族ダーク・ブラッドとは、彼ら曰く、先文明人の生き残りだそうです。つまり、最初のソウルウエイバーということになりますな。その子孫が、彼らです」

 呪文無しで魔法を使う黒の一族ダーク・ブラッド。かつてソウルウエイバーであった名残ということか。シンシアの内で、ジオークはそう考えた。

「そうなると、昨夜セフィールさんが襲われそうになったのとか、さっきのレストランでの襲撃は別件なんでしょうか?」

「断言は出来ませんが、可能性は高そうですな」

 魔導書が目的なら、ハガーへの見せしめのために娘をひどい目に遭わせようとしたり命を奪おうというのは不自然である。シンシアの言葉に、ハガー氏も鷹揚にうなずいて返した。


 応接間では、こつこつと大きな振り子時計の音だけが響いている。いや、窓の外では少し風も吹いているようだ。ハガーは葉巻をくわえた口から、ため息のように白い煙を吐き出した。

「シンシア殿は……?」

 力無く、後ろの娘に声をかける。

「役所へ行くと言ってたわ」

「役所?」

「うん。魔導師課に用があるって。この町には魔導師協会がないからね」

 魔導師協会はたいていのどの町にも存在するが、その勢力は地方によって大きく異なる。魔導師協会が町を支配するくらいの勢力を持ったところもあるが、エルランダの町では役所の一機能になっている。

 しかしハガーはセフィールの話を聞いていなかったようだ。もう一度大きくため息をつくと、今の質問とは別の話題を持ち上げる。

「あれから3年か……名前を変え、何千キロも離れた地へ逃れても、たったの3年で突き止められてしまうとは……」

「お父さん……」

 悲しみと絶望の色が、老いた父の背中からにじみ出てきている。3年前、母を亡くしたときのことでも思い出しているのだろうか。

「やはり、奴らから逃げることはかなわぬか……ならばジオーク殿とシンシア殿に懸けるしかない」

 なにかを決意したように、大きな背中はまっすぐに伸びる。

 彼らも黒の一族ダーク・ブラッドと深い関わりを持っている。あの兄妹に出会ったのは運命なのかもしれない。セフィールも、イクティノス兄妹に命運を託すしかなかった。たとえそれが自分にとって最悪の結果になろうとも。


 鉄筋コンクリート製の3階建ての建物。その2階に、魔導師課はひっそりとたたずんでいた。

 電気が通っているはずなのに、この課はほとんど消灯されている。隣の課からの光を恵んでもらっているようにすら見えた。職員も一人二人、机に突っ伏して居眠りをしているようだ。ちなみに今は昼休みも過ぎた時間のはずで、省エネのために電気を消しつつお昼寝タイム、ということはない。

 魔導師協会の力が及ばない町はいくつか見てきたけど、ここまで寂れたところは初めてだわ、とシンシアは独白した。

「うーん、これじゃあ無駄足だったかな」

 黒の一族ダーク・ブラッドについての報告をしに来たのだが、これではするだけ無駄かもしれない。

 兄妹の師匠、ローズマリーは魔導師協会でも特に有力者で敬愛もされていたので、魔導師協会はイクティノス兄妹による敵討ちを黙認している。積極的にかたきの情報収集まではしてくれないが、申請すればある程度の路銀の都合くらいはつけてくれる。

(そう。俺たちにとっては路銀の給付が受けられないことが大問題だ!)

「だからそれは全部お兄ちゃんのせいなんじゃないの~」

 嘆息気味に、シンシアはうめく。ハガー氏から少し前払いしてもらおうかしら、と思ったとき──

「やあやあ、誰かと思えばシンシアじゃないか」

 あまりにもさわやかな声が背中から響いた。寂れたこの課にはふさわしくないほどの軽やかなこの声に、シンシアは思い当たる節があった。それもあまり良い思い出ではない。

 おそるおそる振り返ると、消えていた電気に光がともり、カウンターの上に颯爽と立った(これだけで尋常でないことが窺える)男を照らし出す。

 着ている服はグレーの役所の制服。場違いなラメ入りネクタイを締めている。くすんだ金髪を丁寧に後ろへ流し、清爽な笑顔をシンシアへ向けている。

 年齢は20歳だったろうか。勝手に住所氏名年齢職業趣味特技などを事細かに告げられた覚えがある。

 顔はまあ、二枚目だろう。細い眉、くっきりとした瞳、鼻は少し高めだが嫌みっぽさは無い。にこやかに開かれた口から覗く歯は、逆光なのになぜか光を照り返していた。

 この前の狂戦士バーサーカー風の男よりは、こちらの方が遙かに吟遊詩人っぽく見える。──が、この男は吟遊詩人ではない。

「な、なんでサミュエルさんがこの町にいるんですか?」

 忌々しく──いや、苦々しく──いや、あまり変な表現はしたくないが──ともあれシンシアは後込みしながら声を絞り出した。

「僕のことはサミーと呼んでくれよハニー。ちなみにハニーといっても君の名前はハニュエルじゃないんだなあこれが」

 わはははは、と一人笑いにふけるサミュエル。すたたんっ、と軽やかにカウンターから飛び降り──足下をすくって転ばしてやりたくなったがなんとかこらえた──伸ばしてもいない髪の毛を、ふぁさあっと後ろへ手で流す。

「魔導師協会にサミーあり。君の行く先には必ず僕がいるのさ」

「す、ストーカー?」

「それは違うよハニー!」

 激しく肩をすくめ、サミュエル(サミーとは呼びたくない、断じて)は大いに嘆く。

「僕はこの町へ派遣されてきたんだよ」

「ああ、左遷されたのね」

「おお、ハニー。直訳しないでくれたまえ!」

(直訳もなにも、この寂れた状況を見ればまるわかりじゃねえか)

 胸の内の兄の声が聞こえるはずはないのだが、ふとサミュエルはシンシアの内側へ向けるように、敵対的な視線を投げかけた。

「ところで、ジオークはまだ君の中に感染しているのかね?」

(人を病原菌みたいに言うんじゃねえぞコラ!)

 耳につんざくほどのボリュームで兄が叫ぶが、もちろん彼には届かない。

「ええ、まあ、そのために旅を続けてるんですし」

「まったく嘆かわしいことこの上ないな。早くジオークを追い出さないことには、僕とシンシアの明るい未来が築けないじゃないか」

(ぬぐう。俺が引っ込んだのは間違いだったか。このたわけとはいつか決着をつけなければ気が済まないぞ)

(まあまあ。結果的にはサミュエルさんも私たちの目的に手を貸してくれてるんだから)

(んなもん、どれほどの役に立ったってんだ! っていうかヤツの得体の知れない情報のせいで、俺たちがどれほど振り回されたか忘れたか!)

 たしなめるシンシアだが、ジオークはかなり息巻いているようだ。

 目の前のちゃんちゃら男サミュエルとの出会いは、ジオークと身体を共有するよりも前だから6年くらい前だろうか。兄妹は師匠に連れられ、ある町の魔導師協会へ行った。そこで出会ったのがサミュエルだ。彼はシンシアを見るなりナンパを始め、ジオークと大喧嘩になった。それ以来ジオークとサミュエルは天敵ともいえる関係なのだ。

 兄と共有関係になってから彼と再会したとき、サミュエルはまずジオークを指さして笑い、次にシンシアを大いに嘆き、そして協力を申し出た。

「それで、今日はどんな用事だい? 君の頼みとあれば、無試験で魔導師免許だって交付してしまうよ」

 ──それって違法なんじゃ?

 とか思ってみるがそれは口にせず、ぱたぱたと手を振る。

「あー、いえ、今のところ魔法使いでもそれほど不自由してませんし」

 ちなみに魔導師と魔法使いとでは微妙に意味が異なる。魔法使いとは、広義では魔法を使う者全員を指し、狭義では魔法で生計を立てる者のことをいう。それに対し魔導師は、魔導師免許を持っている者のことを指す。

 魔導師免許を持っていると都合の良い場面が多々あるのだが、シンシアは魔導師免許を持っていない。

「当然さあ。魔導師でなくたって、君に不自由な思いなんか僕がさせやしないよ!」

 手を握ろうとしてきたので素早くそれをかわす。サミュエルは軽くつんのめった。

(馬鹿野郎! 魔導師協会下っ端その1のてめえにそんな権限があってたまるか! 俺たちが魔導師協会にそこそこの扱いを受けるのは、師匠のおかげなんだよ!)

 そう。師匠が高名だったおかげで、兄妹が魔導師協会から受ける待遇はかなり良い。どっちかというとそこのサミュエルの方が扱いが低いのではないだろうか?(なんせ左遷されてるし)

「ところでシンシア、その闘者の衣装はジオークを彷彿させていけないね」

「いえ、これは私も気に入ってるんだけど……」

「そこで! 僕が特別に用意した衣装があるんだ。是非君に着てもらいたくてね。遠慮しないで受け取ってくれたまえ」

 人の言葉を聞かない男である。サミュエルは半ば押しつけるように、どこからか取り出した衣装をシンシアに手渡した。

「あの、これ……」

「どうだい、かわいい衣装だろう? これは20世紀の極東アジアで流行したというセーラー服という衣装だよ。他にも看護婦さんとかメイドさんとか婦警さんとかもあるからついでにプレゼントしよう」

(こ、コスプレ趣味だったのかこいつ……)ジオークが苦々しくうめいている。

 シンシアも、サミュエルの怪しい眼光に悪寒を覚えていた。無意識のうちに二・三歩後ずさっている。変態男は笑顔を張り付けてにじり寄ってくる。

「さあさあ遠慮しないで着てみてくれたまえ。さあさあさあ」

「いやあこないで風の圧力波ウィンド・プレッシャー!」

 ぶばあっ! 魔法込みの平手打ちに、金髪優男は扇風機の羽根のように全身をぐるぐる回転させながら、ついでに役所の備品やら書類やらを巻き込みながら、役所の反対端まで吹き飛んで行った。爆音と共に埃を巻き上げ、頭からだくだく血を流しつつ、目を回したサミュエルが瓦礫の中から顔だけ出す。

「い、今のは効いたよ、マイハニー……」

 がくり、とサミュエルはこうべを垂れる。我に返ったシンシアの頭から、さーっと血の気が引いていった。

(でかしたシンシア! 収束烈風弾でとどめを刺せ!)

「で、できるわけないでしょう!」

 一声叫んでシンシアはきびすを返す。役所内の視線が彼女に降り注がれているがそれを振り切り、一目散に役所から飛び出た。

 晩夏とはいえ日差しはまだまだ厳しい。そろそろ日が傾き出す時刻だが、今の騒動ですっかり汗だくになってしまった。シンシアは懐から手ぬぐいを取り出し、額の汗を拭う。

「あああああ、状況報告と路銀申請に来たのに、完全に無駄になっちゃたよう」

(まったく、サミュエルの馬鹿には困ったもんだ)

「……お兄ちゃんにもちょっとは問題あるんじゃない?」

(なにを言う。俺はお前の内側から叫んでただけで物理的にはなにもしてないぞ)

「お兄ちゃんがが頭の中でうだうだ言うから私の行動に無茶が生じちゃったのよお」

(わはははは。サミュエルのあの様は傑作だったぞ)

「サミュエルさん、大丈夫だったかなあ。風の圧力波ウィンド・プレッシャーだけど、思いっきり撃っちゃったからなあ」

(あれくらいで死にゃしないよ。ヤツも一応魔導師だからな)

 なんやかんやと兄と言い合いながら(端から見れば変人かもしれない)、シンシアはアデナウア家へ戻ることにした。


 エルランダの町からはかなり離れた山間部に、彼らの屋敷はある。崖と一体化したような三階建ての屋敷で、幅と高さはあるが奥行きはそれほどでもなさそうだ。アートなのか、それとも単に手入れが悪いのか、壁には植物の蔓が縦横無尽にからみついている。一種、自然と一体化したような屋敷ともいえるかもしれない。

 その屋敷で、黒の一族ダーク・ブラッドとラインハルト兄妹はなぜか食事を共にしていた。

「いやあ、はっはっは。そうかい、失敗したのか」

 いつもは抜け目のなさそうなぎょろ目を笑みの形に、アイヌラックルは骨付き肉にかぶりつきながらそう言った。

「うむ、すまなんだアイヌラックル殿」

 リューベックは作法に則った完璧な仕草で、スープをスプーンですくって口へ運ぶ。外見に全く似合っていないのが、アイヌラックルの愉悦感をくすぐってくれる。

 洋風の部屋で、6人座れる長テーブルに、アイヌラックル・リューベック・アーミュアの三人がテーブルの半分を陣取って食事をとっている。窓の外は橙色から紺色へ変わってきている。ちょうど夕食の時間だ。

「気にすることはない。今回はあの親子を引き離しておくことが目的だったのだからな」

 狂戦士バーサーカー風の男の謝罪に答えたのは、ガイアである。

 ガイアは食事には参加せず、腕を組んで壁により掛かっている。見ようによってはなかなかクールで渋い男といえよう。

「だが、お前達には後でもう一働きしてもらう」

「うむ。我ら兄妹は、受けた恩義は忘れぬ故、何でも申しつけてくだされ」

 ──確か盗み食いじゃなかったかのよ?

 大仰にうなずく兄に、アーミュアは嘆息気味に独白した。

 何日か前、雨の降りしきる中、兄妹は一見廃屋にすら見える寂れたこの屋敷を発見した。実際中も手入れが行き届いておらず廃墟とばかり思い、雨宿りがてら屋敷の中をうろついてみたのだ。台所にはいくつか食料があったのでそれをついばみ、二階・三階と探検して発見した。

 この屋敷の主、ヴァルハラを。

「それにしても、ヴァルハラ様って格好良いのよ~。とてもガイア様達の父親とは思えないのよ~」

 ほふう、と頬に手を当ててため息をつく。

 見た目は20歳前後だったろうか。極度に魔力の高い者は老化が遅いというから、もしかしたら高名な魔導師なのかもしれない。

 しかしヴァルハラは、ベッドに寝たきりの生活を送っていた。

 魔法は怪我を治すことは出来るが、病気を治すことは出来ない。ガイアとアイヌラックルは父親の病を治すために、いろいろ手段を講じているという。

「そういえばアイヌラックル殿もガイア殿の弟には見えませぬな」

「それは僕が老けて見えるということかい?」

「いやいやいやいや、そういう意味ではありませぬぞ。30過ぎに見えるなどとはミジンコほどにも思っていませんぞ。うむ」

「思ってなくても口に出してるのよ。お兄ちゃんは失礼なヤツなのよ」

「わはは、気にすることはないよ。昔から老けて見られてたからね。けど、僕にはアーミュアちゃんが21歳っていう方が信じられないな。僕より年上なんてさあ」

 ガイアは24歳、アイヌラックルは20歳だそうだ。口には出さないがアーミュアにも兄弟が逆のように見えたりする。けど、性格面では確かにガイアの方が落ち着いているので、彼が兄で間違いなさそうだ。ちなみにガイアは見た目通りの年齢といえよう。

「それよりも」

 きらーん、とアイヌラックルの眼底が輝いた。ような気がした。

「これは僕が作った物なんだけど、ひとつ食べてみないかい?」

 テーブルの上の皿をひとつ取り、リューベックに勧める。

 中身は、鳥の唐揚げだった。皿にはレタスがぐるりと敷かれ、その上に一口サイズの鳥の唐揚げが無造作に積まれている。なかなか香ばしいにおいが漂っている。東洋系のスパイスによる、食欲を促進する香りだ。

「うむ。それではお言葉に甘えてひとついただこうぞ。もぐもぐ……うっ!」

「お兄ちゃん、どうしたのよ!」

 胸元を押さえてうずくまるリューベックに、アイヌラックルは高らかに笑い出した。

「ははははは! ひっかっかたな!」

「き、貴様、まさかこの中に……」

 ごつい顔を青くして、兄は脂汗をだらだら流す。アーミュアは血の気が引いていくのを感じた。──まさか、毒を盛ったのよ!?

「そう! 僕が開発した特性スパイスを隠し味に仕込んだのさ! これを食ったらうまいと言わずにいられない!」

「う、うまい! ぴりりと舌を刺激した後に口の中いっぱいに広がるジューシーな味わい! スジの全くない、それでいて弾力に富んだ肉は噛むごとにぷちぷちと千切れ、舌と歯を楽しませてくれる! そしてなによりも、特性と言うだけあって肉全体にまんべんなく染みこんだスパイスは、全身の水分をヨダレにして吸い上げてしまいそうだ! ぬうう、こんなうまい唐揚げを食したのは初めてだ! うー、まー、いー、ぞおぉーーー!」

「はっはっは、そうだろうそうだろう。もっともっと食べるがいい。わはははは!」

「…………馬鹿なのよ……」

 異様な盛り上がりを見せるアイヌラックルとリューベックの様に、アーミュアは黄色い声を限りなく低くして毒づいた。

「……哀れな男だ」

 アーミュアと同じタイミングで、壁際のガイアもまたつぶやいていた。

 だが、この男の細めた瞳には、アーミュアのように突っ込みや嫌みの意味合いは含まれてはいなかった。やたらと明朗な弟を、心の底から哀れんでいた。


 アデナウア家でも、まもなく夕食の時間だった。

(ぐぬ、ぬぬぬぬぬ……)

 シンシア越しに市松模様の盤をにらみ、ジオークはなにかを必死に考えている。のどの奥──いや、頭の奥から絞り出すように、

(よし、ビショップを右上へ三つだ!)

 言われたとおりに、シンシアは兄の駒を動かす。ポーンを一個とられるが、彼の劣勢を挽回するには至らない。

「じゃ、次は私ね。ルークをここへ……チェック!」

(だああっ、ちょっと待った!)あわてて兄が待ったをかける。

 客人用に割り当てられた部屋で、ジオークとシンシアはチェスなどをやっていた。

 ひとつの身体にふたつの心という状況だと、こういう遊び方も可能になる。残念ながらカードゲームは出来ない──相手の手が互いに見えてしまう──が、兄妹はボードゲームはよく遊ぶ。

「んっふっふっ。これで夕御飯も私の制御で決まりだね」

(ええい、まだ勝負はついとらん!)

「そう? すでにチェックメイトになってるように見えるけど」

(くくう、金持ちの家のメシなどそうそう食えるもんじゃないのに)

 心底口惜しげに、ジオークはうめく。

 今日はシンシアの制御日だが夕食はジオークが食べたいと言うので、チェスで勝負と相成ったわけだ。ちなみにボードゲームではシンシアの方が強かったりする。いつもジオークに振り回されているシンシアにとって、兄をへこます数少ないチャンスでもある。

「私がじっくりと味わってあげるから、お兄ちゃんも存分に楽しんでくださいな。ほほほほほ」

(……俺の制御の時は、50倍カレーを食してやるからな。感覚切るなよ……?)

 兄の恨めしげな一言にシンシアの笑いはとぎれ、にこやかな笑顔のまま頬筋のあたりを冷や汗が一滴流れた。ちょっと調子に乗りすぎたかな、とか考えてみるが、今のハイな気分を拭うには至らなかった。やはり高級な料理はたまに食べる分には嬉しいものだから。

「あ、そろそろ時間だね、うきうき。それじゃそろそろれっつらごー!」

 喜び勇んで扉を開けると、ちょうどセフィールが呼びに来たところのようだった。ズボンにジャンパー、リュックサックを背負い、旅支度は万全そうだ。

 ……………………。

(旅…支度……?)

 頭の中で、シンシアとジオークが声をハモらせた。

「あ、あの……」

「用意は出来た? そろそろ行きましょう」

 彼女に連れられて応接間へ移動する。まず、窓際で背を向けたハガー氏が目に入り、次にテーブルの上にでんと置かれたリュックサックが目に映る。麻で作らたそのリュックは、デザインよりも実用性を重視した作りのようで、女の子でも苦労なく背負える大きさながら、見た目以上に物を詰め込められそうだ。──というか、既に中は埋まっているようだ。

「あのぅ……あれは何という食べ物でしょう?」

「シンシアにはこれが食べ物に見えるの?」

「いえ、リュックサックに見えますが」

「ならあなたの視力は正常ね。これはリュックサックよ」

「あー、いえ、私が言いたいのはそうじゃなくて……」

「出掛けるのは、早いほうが良いですからな」

 厳かに言ったのは、ハガーだった。窓の外へ目を向けたまま、組んでいた腕をおろす。後ろ向きでも、少し思い詰めたような様子が窺える。

「出掛けるといいますと?」

「ここから北へ50キロほどのところに、黒の一族ダーク・ブラッドが居を構えています。今出発すれば、朝までには到着できるでしょう」

(…………!)

 内側にいる兄の気が引き締まるのがわかった。たぶんシンシア自身も表情が引き締まっていただろう。

「……なぜそのことが?」

 そういえばハガーは、なぜ黒の一族ダーク・ブラッドについて知っているのだろう? シンシアはその疑問を今の一言に含めて問うた。

 質問に答えたのは、セフィールだった。握ったこぶしを胸に置き、彼女も多少思い煩っているようだ。

「お父さんは電波通信技術も発掘してるから、それで黒の一族ダーク・ブラッドの所在位置を察知したのよ。……今は、それ以上は言えない」

 活発そうな瞳はかげり、セフィールはすまなそうにうつむく。──今は言えない。時期が来れば教えてくれるということか。シンシアはそれ以上は聞かないことにした。

(それで、俺たちにどうしろと?)

 兄の言葉を代弁すると、ハガーは真摯な顔をこちらへ向けてきた。ガタイが良いせいか大きなしわは目立たない。代わりに小じわが多いが、この初老の男にはそれがよく似合う。

「奴らを、倒してください」

 親子の思い詰めた様子から、この一言は予想できた。しかし、シンシアもジオークも疑問はまだわだかまりとなって残っている。

「もともと私たち兄妹は、彼らを倒すのが目的です。けど、セフィールさんがついてくるというのはなぜですか?」

「セフィールは戦力になります。そして同時に、あなた方のそばにいるのが一番安全だからです」

 ハガーは即答で返し、セフィールも力強くうなずいた。

(戦力? ちんぴらにあっというまに取り押さえられてたこの女がか?)

 訝しげに、兄が心の中で吐き捨てた。シンシアははなから否定するつもりはないが、すぐに信じる気にもなれなかった。兄の言うとおり、先日ごろつきから助けたばかりなのだ。

 しかしそれよりも、シンシア──いや、ジオークか──のそばにいるのが一番安全というのはどういう意味か? 確かにジオークの戦闘能力は相当なものだから、彼に守ってもらうが安全というのはわかる。しかし兄妹はこれから臨戦態勢に入るのだ。巻き込まれる危険を含め、それでもなお自分のそばにいるのが安全というのは、とりもなおさず彼女が黒の一族ダーク・ブラッド狙われているということになる。狙われていないのなら、この家にいるのが一番安全なはずなのだから。

(こいつら、黒の一族ダーク・ブラッドとどういう関係なんだ?)

 胸中で、兄が思案している。

 5年も旅して得られなかった黒の一族ダーク・ブラッドの情報を、なぜハガーは持っているのか? そういえばハガーが発掘した技術は20世紀前後の物がほとんどなのに、魔導書『ソウルウエイバー』は先文明末期の代物だ。黒の一族ダーク・ブラッドにしても、なぜ魔導書だけを先に狙った? いや、そもそも魔導書を手に入れてどうしようというのだ?

 口には出さない疑問に答えるように、ハガーが言った。

「魔導書を手に入れた黒の一族ダーク・ブラッドが次に望む物はわかっています。すなわち、セフィールの命」

「正確には、魂を滅した後に残る肉体だ」

「!」

 いきなりの声。刹那、室内なのに風が舞った。いきなり現れた物体に、空気が押し動かされたのだ。見覚えのある男、昼間に見た戦士風の男だ。

 視界の一角に、ガイアが出現した。少し宙に浮いていたが、重力に従ってすぐに床に足をつける。その顔はごく落ち着いていて、むしろ無表情ともいえるか。

(じ、時空魔法だと……!?)

 兄の驚愕が、身体の震えとなって伝わってくる。

 なにもない空間にいきなり出現するにはいくつか方法があるが、もっともポピュラーなものは高速移動による方法である。だがこの部屋は閉め切っている。この部屋へ瞬間移動するためには、空間を直接跳躍するしかない。そのために必要なものは、時空魔法だ。時空魔法は、世界中を見渡しても指折り程度にしか使える者はいないはずだ。

(ヤツがその指折りの使い手だってのか?)

 師匠ですら、時空魔法は使えなかった。普通、物質魔法の上に生命魔法、生命魔法の上に時空魔法と位置づけているから、単純に考えればガイアは師匠以上の魔法使いということになる。

(そんなヤツに……俺は勝てるのか……?)

 胸中のジオークが弱気になっていく。それほどのインパクトが、ガイアの今の出現にはある。兄に声をかけたいが、シンシアにそんな余裕はなかった。セフィールを狙うガイアを何とか止めなければいけないのと、彼の今の台詞が気になったからだ。

「魂を滅して……どうするですって……?」

 さほど興味のなさそうな顔をこちらに向け、ガイアはセフィールへ向け直す。そしてもう一度こちらを見た。なにかを疑問に持ったような瞳だ。

「……気のせいか」

「セフィールさんをどうするつもり?」

 もう一度問うと、今度は説明を始めた。

「生命魔法の究極、生命の融合ソウル・フュージョン……ヴァルハラを救うために、その娘の肉体……抜け殻が必要だ」

「やはりか……」

 苦々しく、ハガーが声を絞り出す。彼はすべてを知っているように見えた。

生命の融合ソウル・フュージョン……」

 反復するように、シンシアはつぶやく。なにか、なにかが心の隅に引っかかった。

 自分、いや自分たちにも関係しているような気がする。記憶を探ろうとするが、そのために必要な時間はなかった。無造作に、ガイアがセフィールへ詰め寄ってきた。とっさにシンシアが割って入る。

「どけ。お前に用はない」

「あなたに用はなくても私に用が……」

「ガイア~。そろそろ終わったかな?」

 廊下からいくつか悲鳴が聞こえ、その中にとぼけた声が混じって響く。扉が開かれ、男が一人現れた。

 アイヌラックル。そろそろ青年期を過ぎようかという姿のこの男も、昼間ジオークが挑みかかった敵の一人だ。制止するメイドや執事を振り切って屋敷へ入ってきたらしい。

 彼は少し驚いたような顔を見せ、

「ありゃ? そこのカワイコちゃん、昼間の時と雰囲気が違わないかい?」

 その言葉に、ガイアが反応した。お前もそう思ったか、というような視線を投げかける。

 ──一瞬逸らした視線を、シンシアは見逃さなかった。

「魔竜剣!」

 ごうっ! 魔竜剣の斬撃が、部屋の中で炸裂する!

 シンシアは魔法使いだからジオークほどには使えないが、軽い衝撃波を放つくらいなら出来る。素早くセフィールの手を引き、窓を割って外へ飛び出す。どんぱちをやらかすなら、外の方が良かった。

 煌々とした星空の元に、シンシアは降り立った。いくつか電灯がともっているが、それをかき消すかのような美しい星空。こんな事態でなければスターウオッチングと洒落込みたいところだ。セフィールを背中に置き、暗闇の中、エメラルドの双眸を前方へ向ける。

 彼女を守りながら戦う以上、二対一は不利だ。ましてや相手は黒の一族ダーク・ブラッドである。逃げの一手は打てない。できればジオークに代わってもらいたいところだが……まだ精神的に復調していないようだった。

(私がやるしかない)

 腹を決め、構えをとる。ちょうど敵が窓から出てきたところだ。ガイアは、瞬間移動はしなかった。消耗の大きい魔法なのだろうか?

 ガイアではなく、アイヌラックルが前へ出た。ぬめるような視線を、シンシアのあちこちへ這わす。中年親父が若い娘へ向けるような下品なものではなく、鑑定士が品物へ向けるような視線だ。だが、それでもシンシアは悪寒を覚えた。

「うーん、やっぱり昼間とはちょっと違うなあ。なんていうか……今の方がかわいい」

 敵の何気ない一言にジオークがわずかに反応するが、またすぐに精神の奥底へ沈んでいった。

「ま、いいや。お嬢ちゃんは昼間、おもしろいことを言ってたね? 黒の一族ぼくたちを殺すってさあ」

「……その通りよ」

 兄の時のように声を低くして、シンシアは静かに答える。彼女とて、黒の一族ダーク・ブラッドへ持つ怒りと憎悪は兄と同様だ。剣は苦手だが、それがばれないようにうまく構える。竜骨で出来た剣は星空を照り返したりはしないが、微かに光を放っているようだった。

「あなた達は、私からお師匠様とお兄ちゃんを奪ったのよ。絶対に許さない……!」

 力一杯にらみつけるが、敵はまるで動じない。ジオークほどの迫力が出せないからか、敵に舐められているからか。アイヌラックルは、微笑さえ浮かべているようだった。

「そうかあ、楽しみだなあ」

 目を線のように細め、アイヌラックルは言う。嫌みさはなく、本当に嬉しそうだった。

「君にそれだけの力があるか……見せてもらうぞ!」

 瞬間、アイヌラックルが跳んだ。夜空と渾然一体になり、姿が一瞬見えなくなる。

「くっ!」

 セフィールに飛びつくように、後ろへ跳ぶ。小さな衝撃弾が、寸前までいた地面にいくつも突き刺さる。すぐに起きあがるが、

「動きが鈍いぞお。本当に昼間のカワイコちゃんかい?」

 ごっ! 側頭部から鈍い音が響き、視界が激しく揺れる。後からついてくるように、数瞬遅れて頭部に激痛が走る。敵は軽く小突いただけのつもりのようだが、実力差がありすぎる。シンシアは地面を横転していた。

 視界の隅に、斜線のような影が走る。とっさに体勢を立て直し、起きあがりざま──

風の圧力波ウィンド・プレッシャー!」

 衝撃波はうまく敵の真正面にたたき込まれる。いや、ノーダメージを確信してまともに受けに行ったのか。ともかく、アイヌラックルにはそよ風程度にしか感じなかったようだ。

 大きく肩を上下させながら、シンシアは何とか立ち上がる。荒れる呼吸を押さえ、呪文を唱える。相撲の四股のごとく──女の子らしくないが──大きく足を振り上げ、

地の巻き上げアース・レイズ!」

 術者を中心に、竜巻のごとく土砂を巻き上げる攻撃魔法。セフィールは離れたところにいるので巻き込まれる心配はない。だが──

「うーん、やっぱり大したこと無いあ」

 身体についた埃をはたきながら、アイヌラックルは言う。そもそも普通の人間相手でも一撃で倒すことは出来ない魔法だが、服が汚された程度にしか感じないとは。

「しょうがないなあ。ちょっとだけ時間をあげるから、もっと強力な攻撃魔法を使いなよ」

 完全に馬鹿にされている。だが、シンシアに怒っているだけの余裕はない。敵がそう言うのなら、遠慮なく強力な魔法を使わせてもらおう。

 師匠に習った魔法から、一番破壊力の高い物を探ってみる。真っ先に思いつくのは、魔導師ローズマリー秘伝の極大魔法、星屑への回帰スターダスト・レボリューション。だがこれは禁呪扱いだ。この庭は広いが、屋敷にまで被害を及ぼすおそれがあるし、シンシア自身ほとんど使ったことがないこの魔法を、成功させられる自信がない。

 ──ならば──と、シンシアは呪文詠唱を始めた。歌声のように清らかに、野原を舞う蝶のごとくたおやかに。相手も少々見入ったようだ。そこで魔法が完成する!

天使の息吹エンジェル・ブレス!」

 収束烈風弾の上位バージョン。かき集められた空気の弾丸を、超高温の火の玉と化す。

 かつて天使は火から作られたという。青白い魔法弾はあまりの高温に放電を始めている。プラズマ状態になりつつあるのだ。まさに、天使の息吹エンジェル・ブレス

「へえ……そうそう、やれば出来るじゃないか!」

 歓喜に声を上げ、アイヌラックルは手をつきだし、灼熱の弾丸を迎え撃つ!

(じょ、冗談でしょう!?)

 信じがたい対応に、シンシアは心臓がひっくり返りそうになった。──家一軒消し炭にするのよあれは!

 ごばあっ! 火の玉が展開し、夜空を一瞬昼間のごとく明るくする。

 アイヌラックルを直撃した。いくら何でもノーダメージでいられるはずが──

「うひょお、痛い痛い痛い! 火傷しちゃったぞお。こんなに痛いのは久しぶりだあ!」

 ──化け物──シンシアの脳裏を、そんな単語が横切った。

 アイヌラックルを中心に、半径十数メートルにわたって地面が露出している。熱波で芝生が蒸発したのだ。焼け付いた地面が、白い煙を立ち上らせている。

 彼は確かにノーダメージではなかったが、致命傷にはほど遠い。なにがそんなに嬉しいのか、アイヌラックルは痛がりながら喜んでいた。

「ははははは。痛い、痛いけど……僕を殺せるほどじゃなかったかあ、残念だな」

 ひとつ息を吐き、ぎょろりとこちらへ目を向ける。死の予感がよぎった。

「これ以上は時間の無駄みたいだから、そろそろ終わりにしようかな」

 敵は呪文を唱えていない。しかし、見る見る魔法の構成が練り上がっていくのがわかる。相手から感じる波長は──短く速い。これは火炎か高熱だろう。

 予想通り、アイヌラックルがかざした手に、鬼火がともる。それを振り下ろし、射出する。瞬間、今まで下がっていたはずのセフィールがシンシアの前へ躍り出た。

(危ない!)

 声に出す暇はなかった。絶望的な思いと共に轟音があたりを包み、赤い光が閉じた瞼を貫いてくる。おそるおそる目を開いて驚いた。

 セフィールは左手を突き出し、その手のひら──中指に指輪がはめられている──から半透明に輝く光の幕が張られていた。これが障壁となって敵の攻撃を防いだようだ。

「バリアシールドか……」

 離れたところで物見に徹していたガイアが、ぼそりとつぶやいた。

「セフィールさん、それは……」

「これはバリアシールド。そしてこっちが……」

 腰に差してあった警棒のような物を引き抜き、構える。刹那、青白い光が吹き上がった。炎のような形状だったが、しばらくすると剣のように細長くのびて安定した。

「こっちがビームサーベル。あたしも戦力になるって言ったでしょ?」

 セフィールは精悍な笑みを投げかけた。

 ハガーは20世紀前後の技術を発掘していたが、これは明らかに先文明末期の代物だ。魔導書『ソウルウエイバー』といい、この親子は侮れない。

「おやおや、素人ちゃんが危ない刃物を持ち出しちゃいけないんだぞう」

「うるさいわね!」

 ビームサーベルを振りかざし、セフィールがアイヌラックルへ斬りかかる。

 戦力になると言っていたが、彼女の動きはシンシアの目で見てもわかるほど素人だった。だが、素人ゆえの恐ろしさがある。雄叫びを上げながらぶんぶん振り回されては動きが読めない。黒の一族ダーク・ブラッドらは警戒を強いられた。それほどの威力が、あのビームサーベルにはあるらしい。

 だがそれでも、見ていて危なっかしいことこの上ない。あと一分もしないうちに、彼女は捕まってしまうだろう。焦慮にとらわれたシンシアは、一向に復帰の気配を見せない兄へ向かって叫んだ。

「お兄ちゃん、いつまでいじけてるのよ! もっとシャンとしなさいよお!」

 ──いじける?

 ジオークはふとそんなことを考えた。

 黒の一族ダーク・ブラッドの力を見せつけられた後、しばらく思考が堂々巡りをしていたみたいだ。遠くから響いたシンシアの声に、我に返った。

(し、シンシア。今、なにがどうなってるんだ?)

(五感まで切ってたの? セフィールさんが危ないのよ!)

(セフィールが!?)

 妹を通して見ると、やけになった子供が大人に殴りかかっているかのようなセフィールの姿が映った。確かにあのままだと、すぐに捕まってしまう。

 ──俺が戦って……勝てるのか?

 にじみ出てきた不安を振り切り、ジオークは妹に言う。

(シンシア、俺に代われ)

(うん、わかった。無理はしないでね、お兄ちゃん)

 シンシアは碧の瞳を閉じる。わずかに空気がうねり、母性から野性へ表情が一変する。そしてジオークは紅の瞳を開いた。

 無理はするな、か。ジオークは精悍に整った顔を、皮肉げにゆがませた。

 そうだ。師匠に習ったじゃないか。強すぎる敵に立ち向かうためのふたつの方法を。自分の唇を使って、師匠の言葉をなぞる。

「いいかいジオーク。自分よりも強い相手と戦うときは、力の出し惜しみをするんじゃないよ。最初の一撃に最大の力をたたき込むんだ。敵がこちらを舐めているそのうちにね」

 だから、ジオークは自分の持つ最強の技を使うことにした。

「セフィール伏せろ!」

 めいっぱいのボリュームで叫ぶ。驚き、反射的にセフィールが上体を沈めた。ほとんど同時に、バットスイングの要領で彼女の頭のあったポイントを思いっきり、薙ぐ!

魔竜烈光斬まりゅうれっこうざん!」

 巨大化した剣身から発せられる燐光は、顎門あぎとを開いた竜と化し、金色こんじきに輝く衝撃波となった。音すらをもかき消し、目の前にあるすべてのものを呑み込んだ。

 隕石が斜めに落下してきたかのように、数十メートルにわたって地面がえぐれている。もうもうたる煙を立ち上らせ、敵がどうなったかはまだわからない。

「あ、あ、あ……」

 セフィールが腰を抜かし、細長いクレーターを指さしながら口をぱくぱくさせている。

 ジオークは膝に手を置き、息を荒らげている。自分の持つ最強技に、注げるだけの力を注ぎ込んだのだ。今の一撃で、魔力の大半を使い切ってしまった。

「あ、危ないわね! あたしを首無し死体にするつもりなの!?」

 本気で憤って詰め寄ってくるセフィールを抱きしめる。身長差から、彼が彼女を見下ろす格好だ。

「え、じ、ジオーク?」

 なにを勘違いしているのか、顔を赤らめている。それにはかまわず身体を前へ向けさせ、首筋に剣を押しつける。晴れつつある煙に向かってジオークは叫んだ。

「動くな! ちょっとでも動いたら、この女を殺すぞ!」

「な!?」

(なな!?)

 セフィールと、胸中のシンシアが、同時に声を上げた。

 煙の晴れたその先に、アイヌラックルがいた。着ている服は端々がすり切れ、肌の露出している部分は細かいながらも無数の傷を負っている。抜け目のない目を、じっとこちらへ向けている。

 ガイアもすぐそばにいた。今し方の一撃に巻き込まれたはずだが、彼も大怪我までは負っていない。ジオークの最強魔法も、黒の一族ダーク・ブラッドにとってはこの程度か。だが──

「安心したぜ」

 ジオークは独白した。今の攻撃でノーダメージだったら、打つ手を無くすところだった。ダメージを与えられる以上、倒す手段はあるはずだ。

「な、なに考えてるのよ!? あたしを守るって約束でしょう!?」

「んな依頼にうなずいた覚えはない。それにさっき、あんた達は言った。黒の一族ダーク・ブラッドを倒せとな。手段までは聞いていない」

(お、お兄ちゃん本気!? むちゃくちゃよ!)

「強い敵と戦うための方法はふたつある。ひとつは無理をすること。もうひとつは無茶をすることだ」

 あくまでも落ち着きを崩さないよう、ジオークはルビーの双眸を敵へ固定する。

 そうだ。まだ無理をするわけにはいかない。ならば、今は出来る限りの無茶をやっておくしかない。低い声にさらに凄味をきかせて、ジオークは言う。

「お前らも、今こいつに死なれたら困るんだろう? もともとこいつを連れてそっちまで乗り込んでやる予定なんだ。それまで待っていろ!」

「あーはっはっは! いい! すごくいいよ! めちゃくちゃ強くて、すごくかわいくて、勝つためには手段を選ばないしたたかさまである!」

 ぴしゃりと額を叩き、アイヌラックルがけたたましく大笑いをする。ガイアは相変わらず落ち着いていて、探るような視線を投げかけてきている。

「……お前、名は?」

「聞いてどうする気だ?」

「名乗れ」

「……ジオークだ。ジオーク=イクティノス」

「さっきのは?」

 薄々気づいてきているみたいだ。とぼけの一手もあったが、ジオークは正直に言うことにした。

「妹のシンシアだ」

「そうか……お前も二重生命所持者デュアル・ソウルか……」

二重生命所持者デュアル・ソウル?」

 ふと、真摯な瞳を向けてきた。敵とは思えない、純粋な瞳だ。

「お前の師匠はローズマリーか?」

「……ああ」

 高名な師匠だから奴らが知っていても不思議はない。だが、師匠もどこかで彼らに関わっているような気がした。

「そうか……アイヌラックル、退くぞ」

「ありゃ~? そこのおっぱいおっきい娘は連れて行かなくていいのかな?」

「ああ。放っておけば向こうから来る。ヴァルハラにはもう少し待つように言う」

「その役はガイアに任せるぞう。僕はあいつ、苦手だから」

 二人はいくつか言葉を交わし、構えを解いた。ジオークもセフィールに突きつけた剣を離すが、緊張は解かない。まだ危険が過ぎ去ったわけではないのだ。

 ガイアとアイヌラックル。途方もない敵が消え去ってからだいぶたって、ようやくジオークは身体の力を抜いた。冷や汗に代わって普通の汗が全身から噴き出し、膝ががくがく言っている。気を抜けば横隔膜まで震えだしそうだ。

「……誰のおっぱいがおっきいですって……?」

 どうでもいいことをことさら大事おおごとのように、セフィールが苦々しくうめいていた。

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