メディエータ Ⅱ

有智子

ブラザーサン・シスタームーン

 暗闇の中を歩くのに似ていた。

 自分の半生を振り返って、抱く感想はまずそれだった。日の落ちた校舎の廊下をおそるおそる進むような、あるいは、随求堂の胎内巡りのような。同年代と名所旧跡を巡るような集団旅行というものについぞ縁のなかった俺が、後年京都の清水寺に訪れた時、行列に並んでまで体験したあの奇妙な空間は、俺にとって、そうした意味で、強く印象に残っている。暗闇に差し込んだ光。生まれ変わるような感覚。

 それは覚えのあるものだった。



「え?シフって名前じゃないの?」

「違うよ」

 向かい合って座ったテーブルの向こうで、アイスティーのストローから口を離して彼女が言った。普段会話していてもあっさりした反応の多いクロエが目を白黒させて驚いているのが、なんだか新鮮だった。

 八月上旬、夏もたけなわといった外気温三十六度の暑さに耐えかねて喫茶店に入った途端、いわゆる夕立によって足止めをくらった我々は、猛烈な雨と雷の勢いにすっかり辟易して、雨宿りも兼ねてくつろぐことにした。彼女とこんな土曜の休日に出かけるなんてことは、ゴールデンウィークの仕事の後ちょっとした観光に付き合ってもらって以降ほとんどなかったのだが、今日も半分仕事みたいなもので、クライアントの訪問に付き合ってもらった帰りだった。窓ガラスに派手に打ち付ける雨を眺めながら、休日はほとんど家で寝て過ごすと言っていた彼女にとっては、あまり面白くない過ごし方かもしれないなとちらと過ったが、この豪雨の中を帰るのが億劫なのはお互い同じという点では、無言のうちに了解していた。ちなみにまだ止む気配がない。

 <境界>のシフ——機関に所属する霊能者メディエータの育成や指導に携わるその役職の話になったのは、二杯目のアイスコーヒーを注文して、彼女の三本目の煙草が灰皿に押し付けられた頃合いだった。仕事の話から逸れて、たまたま言及したのだ。店内のBGMでかかっている落ち着いたジャズが二周目に入る。

「シフってつまり『師父』だから。名前じゃないよ」

「それってつまり、先生みたいな……」

「そう。先生とは呼ばないんだな。なんかニュアンスがちょっと違う……えーっとあの人、名前なんだっけな。いつもシフって言ってるから思い出せない……旦那が外国人でさ、苗字がナントカ言ってややこしいんだ」

「しかも女性なの?」

「え?言ってなかったっけ?」

 シフは、<境界>における役割に過ぎないので、女性も男性もいるし、年もある程度は、関係なかった。シフになるには<境界>に属すること、そして貢献してきた相応の能力者で(それは必ずしもメディエータである必要はなかったが)、更にいくつか難しいテストを受けて、合格しなければならなかった。クロエは背もたれに体を預けてため息をついた。

「知らなかった……というか、私は<境界>のこと自体それほど詳しくないし、一月まで普通に本庁勤務だったし……」

「まあ一般人には……馴染みが無いよな」

 この世のあらゆる複雑怪奇を収拾する、という名目の極秘機関、<境界>。自分はそこに所属する霊能者メディエータの一人で、助手(とは名ばかりで、要はお目付け役兼護衛兼、超法規的措置の言い訳だ)のクロエと行動を共にしていた。クロエは元々は普通の警察官で、<境界>に所属したのは今年に入ってからだ。本庁で勤務していたとしか本人は言わないが、結構良い立場にいたらしいことは普段の振る舞いからなんとなくわかる。とはいえ、本当に一般人だったらまず<境界>の存在自体知るはずもないのだ。

 黒江園子、というのが彼女の本当の名前なのだが、初対面時に呼び捨てでかまわないと彼女が言ったので、そのうち自分と合わせて欧米ドラマのコードネームっぽくしたら、思ったより具合がよかったのだ。そう思っているのは自分だけかもしれないが。

「アダムは?シフにはならないの?」

「なりたくても許してくれないんだよ。ほら、即戦力だから」

「ああ、そういう……」

 これまでクロエと解消した<境界>からの任務のことを考えて納得したらしい。自分で半分冗談めかして言ってはいるが、実際のところ、<境界>の能力者の中でも一級のメディエータはそう数はいないのだ。つまり必然的に仕事量が多い(とはいえ自分のやるような仕事は至極地味で、表舞台向けではないので認知度が低かった。ゴーストバスターという意味では、<境界>内でも等々力氏などはよく知られている)。

「要は野球とかサッカーの監督みたいな立ち位置なんだよ。現役の時はならないだろ?俺のシフも、足が悪いんだよ。会った時から車椅子で。メディエータとしては相当有能な人だけど、<境界>の任務をこなすのは難しいからって」

 そうなんだ、と彼女は呟いて、アイスティーを引き寄せた。氷がからんと鳴る。一瞬の沈黙があると、外の音がやけに大きく聞こえた。雷はややおさまったが、雨はまだ降り続いている。いつになったら止むのかとぼんやり考えていると、彼女はおもむろに口を開いた。

「アダムはつらくないの?」

「つらいって何が?」

 間髪入れず問い返すと、ちょっと言いにくそうに唇を湿らせる。

「その……人に見えないものを見たり、聞いたりすること」

 そういえば、彼女が自分の助手になってから、こういった話をしたのは初めてかもしれない。初対面の時に一度、全く霊感がないと言っていた、それっきりだった。なにしろそれまで、一人でやってきたのだ。

「死にたいくらいつらかったよ」

「……」

 それを聞いて、しまったと言いたげに口角を下げたのを見て、慌てて言葉を続けた。

「その、俺は頭がおかしいんだと思ってた。実際似たようなものだけどさ。どうして俺だけが見えたり聞こえたりするのかわからなかったし、周りの人間はみんな、奇異の目で見た。シフに会わなかったら、そのうち自殺してたかもしれない。仕方ないんだよ。見た目もこんなだし」

 俺は後ろでひとつにまとめた自分の髪に手をやって、払うように撫でた。長い金髪。色素の薄い皮膚。学校というものに通っていた時分、幾度となく向けられた好奇の目線。


 シフと初めて会った時のことを、たぶんシフ本人はほとんど印象にないと思うが、俺はよく覚えていた。

 当時の俺は朝も昼も夜も続く騒音ノイズに常に悩まされており、そのためにほとんど家から出ることができなかった。十六歳、頭の中を騒音以外のもので埋めたてるためにのめりこんだ受験勉強のおかげで高校へは進学したものの、入学間もない四月の早々に周囲に溶け込むことに失敗したまま、持病の悪化に伴って完全に名前だけのものになった。さすがに事態を重く見た爺さん婆さんに連れていかれた総合病院、次は療養ホームを併設した名の知れた精神科、そこで出会ったのが、シフだ。

「生きてるか〜?」

 一人で入るよう促された広い待合室で、こめかみを抑えながらぼんやりと順番を待っている時だった。よっぽど虚ろな顔をしていたのだと思う。ごく控えめな音量で点けられたテレビや、カチカチいう柱時計の針の音すら不快に感じていた。

 騒音は、例えたら虫のようなものだ。大きなもの、小さなもの、大きな音、小さな音、俺の周りには、いつも、いつまでも、きちんとその姿を視認できない何か虫のようなものがぞろぞろと這いまわっていて、人が多ければ多いほど顕著に増えた。電車や公共の場所は本当にひどかった。俺が気づいているということをそれらに悟られると、明確に害しようとする意思を感じたし、何度も走って逃げたことがある。

 それを誰かに説明するのは、ひどく難しいことだった。こういった症状をはっきりと認識したのは中学校にあがってからだったが、飛蚊症だとか、何かのノイローゼだとかの診断をくだされて薬を飲んでもセラピーを受けても、一向に無くならなかった。

 どころか、年々ひどくなった。

「……」

「あ、もしかして〜〜日本語通じなかった?え~~とHow are you? What's your name?bonjour?」

「通じます」

「ペラッペラかよ!」

 その盛大なツッコミに思わず笑ってしまった。その人は俺の反応に気を良くしたのか、車椅子の車輪を器用に操って、俺の座っている椅子の隣につけた。黒縁のメガネの奥、理知的な瞳は自分への興味を写して、こころなしかキラキラしているように見えた。

「君、寝てなさそうだね」

「そうですか」

「不眠症か何か?疲れてる感じ」

「まあ眠れてはないです」

「薬とか飲んでる?」

「睡眠薬なら、多少は……」

 初対面にもかかわらず、やけに親しげに話しかけてくるのは、やはりこういった診療科だからなのだろうかとどこか他人事に思いながら、適当に相槌を打つ。会話の合間にも、視界の端にチラつくいつもの存在に気をとられていて、どこか上の空だった。そういう俺の様子から一切目を離さずに会話を続けられて、まるで顕微鏡の上で蠢いているのを注視されている微生物みたいな気持ちになった。落ち着かない。

「あの……」

「気になる?」

「は?ええ、まあ」

「結構見えてるみたいだしね」

「え?」

 車椅子を動かして、俺の正面へ来ると、ずいと顔を近づけられて思わずのけぞった。

「塩撒いたりしてる?月並みではあるけど」

「なんの話ですか?」

「対策の話。困ってそうだし?」

「え……?」

「いろんなものが見えて、困ってるんじゃないの?眠れないくらいに。そこらじゅうの……その」

 と言いながら、テレビの上を親指を立てて示して見せる。ちょうどそこに、黒い影が猛スピードで這い去っているところだった。心底驚いて、ぽかんと口を開けたまま固まっていたら、その人はそれを可笑しそうに見た後に吹き出した。

「当たりか!いや、私も七割くらい確信がないと、話しかけないんだけどね」

「な、」

「目線が追ってるから。見えてる以上気になるのはわかるけど、話してる人に集中した方が楽だよ」

「……なんで?あなたも見えるんですか、虫が……」

「虫?ああ、言い得て妙だね。似てるかも」

「た」

「うん?」

「たすけてください」

 思わず口から洩れたのは、その一言だった。

 言った。

 全身が脱力する。足の間に投げ出した自分の両腕が、随分重たく感じた。口に出して、やっとわかった。助けてほしい。助けてほしかった。

 その人は車椅子を少し引いて、背筋をしゃんと伸ばすと、太陽みたいににんまり、可笑しそうに笑った。そして握手を求めて、手を差し出した。

「いいよ。アダム・ギルモア君、元より私は、そのつもりで来たんだ」

 その途端、目の前に一筋光が差し込んできたような気持ちがしたのを、よく覚えている。ちょうど、胎内めぐりのような。


「太陽みたいな人でさ。あんな幸福な思いをしたのは、初めてだったな」

「幸福……」

「生きていけるかもって思ったんだ。このままでもいいのかもって。そういう意味で、すごい恩人で……」

 神妙な顔でこちらをまっすぐ見つめるクロエの顔は、微笑むでもなく、悲しむでもなく、とても、落ち着いていた。初対面の時もそう思ったが、職業柄なのか、あまり表情が動かない。

 シフに比べたら、彼女はまるで月だった。自分で光るわけではない、怜悧なナイフのような綺麗さ。同じ長い黒髪でも、彼女のストンと落ちるそれは、どことなくミステリアスだ。

 気付いたら驚くほど長く彼女と見つめあっていたことに、ぱちぱち瞬きをした後ふと視線を逸らしたので気付く。動揺を隠すように大袈裟に話を再開した。

「まあ変な人だったけどね。無糖主義でさ、砂糖は絶対摂らないんだよ。紅茶も珈琲もスイーツも。おかげで俺は数年間ケーキとは縁遠い生活を……」

「数年?」

「ああ、その、シフと出会ってすぐ海外に行ったんだよ。日本はそういう、スピリチュアルなものに対する考え方が狭量だし、霊障も結構ネチネチしててよくないってさ。俺、親いないからいろいろ大変だったんだけど、それ以上に行ってから言葉の通じなさがヤバかった」

「ああだって、見た目が」

「そうなんだよ!めちゃくちゃ話しかけられんの。超フレンドリー。だけど俺は何言ってんのか全くわからないし今もわからない。大体英語圏じゃなかったから結局英語わからないし」

 そこまで聞いて、堪えきれないようにクロエが笑った。破顔したら、なんだか年相応だ。

「クロエは外国は?」

「行ったことない。国内旅行ばっかりね、子供の時も学生の時も。親があんまり長いこと出かけられない人たちだったから」

「甘いものは好き?」

「え?ああ、うーん……あいにく。無糖主義ってほどではないけど、元々ケーキとか食べなくて……太るし」

「煙草吸うのは?」

「ああ、煙草は……」

 その時、喫茶店のドアが開いて客が入ってきた。気づけば話に夢中になって、窓の外の雨は止んで、西日が雲の隙間からのぞいていた。

 その時、机の上に置いていた私用の方の携帯電話が通知を知らせて振動したので、何気なく手に取った。

「あっ!?」

「え?仕事?」

「いや……シフだ。出ても?」

「どうぞ」

 ディスプレイに表示されているのは、タイムリーにも、ここ数年ほとんど連絡のなかったシフだった。百合子・ヴィクセル。そういえばそんな名前だったなと以前も思った覚えがあったぞ、と思いながら通話ボタンを押した。

「アダム?」

「シフ?」

 ほとんど同時にお互いを呼び合ったら、記憶と寸分違わないゆるい声のトーンで、なんだか妙にほっとした。

「わ~!久しぶり〜〜!アダムだ~!えっ元気?だいぶかけてなかったから番号変えてないかドキドキした〜」

「そりゃこっちの台詞だよ!何?まさか国際電話でかけてる?」

「ううん、今日本に帰ってきててね、これ普段使ってない国内キャリアの奴〜〜解約してなかったっぽい。いや、してるのか……?わからん……日本……」

「日本?帰ってきたの?」

「三日前にね」

 酔っぱらってるのかと思うくらいテンションが高かったが、この人は元々そういう気があったなと思い直す。

「今ひとり?」

「いや、人と一緒」

「ほう。彼女?」

 そりゃ、休日に人といるって言ったら、自分くらいの年代なら普通は恋人だよな、と思って苦笑してしまった。向かいのクロエは、気を遣ってか煙草に火をつけていた。

「いや、同僚だよ」

「同僚!?アダムくんが休日に同僚と遊んでるなんて珍しい……能力者の子?<境界>の仕事のよね?」

「おい、どういう意味だよ……能力者じゃないんだ、俺の階級が上がったから、今就けてもらってる助手の……あ、シフは今は<境界>には?」

「あーこっちきたら本部に顔は出してるけど、基本スウェーデンにいるからさ、あっちの支部の面倒みてることがほとんどで、今脳みそフル回転でアップデートしてるとこ。ほらアダムもお世話になったでしょ?あっちの『森の家』を増築することになったから、リッカルドがこれを機に支部を拡大させよって話になったんだけど、メディエータが足りないって話でこんな老いぼれまで駆り出してさ~」

 この感覚は、なんだか久しぶりだった。立て板に水みたいに初対面相手でも喋りだす癖は、いつの間にか自分にも移ってしまっている。

「でもアダムに連絡ついてよかった〜!実は頼みたいことがあってさ」

「頼みたいこと?」

「そう。仕事なんだけどね、<境界>関係の。アダム、半分シフみたいなこと、してみる気ある?」

「シフみたいなこと?」

「もうね、まさに君みたいな子をね……面倒みてくれって話が出てるわけだよ。私でもいいんだけど、年が近いほうが何かと都合がいいかなと思って。大体日本にいるし?」

「他にシフは……」

「メディエータはあんまり数いないでしょ?」

 また詳細は追って連絡するから、電話番号変えないでね〜!と言って彼女はさらりと電話を切ると、嵐が過ぎ去ったような気持ちだった。電話を切って鞄に放り込むと、クロエはちょうど吸い殻を灰皿に押し付けていた。

「随分、タイムリーね」

「いやマジで。ここ数年連絡すらなかったのに……」

「シフみたいな……って話?」

「そう。何か新しいタマゴが発見されたみたい。会ってくれって」

「そう……よかったね」

「え?」

 彼女は残りのアイスティーをゆっくりあおって、言った。

「今度はアダムが、シフみたいに誰かのこと、助けられるかもしれないんでしょう?よかったね」

 そして、微笑んだ。それはさっきまで思っていた、月のような笑みではなく、

「いい子だといいわね」

 俺は、思わず見とれた。


 この時は、まさかその依頼がとんでもない大騒ぎになるなんてことは、俺もクロエも全く予想していなかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メディエータ Ⅱ 有智子 @7_ank

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ