原爆幻想小景

伊藤 薫

科学者は罪を知った。- R.オッペンハイマー

 1945年8月5日。

 B29《スーパーフォートレス》が最後の訓練を終えて、テニアン島の滑走路に着陸した。自分の愛機から降りた機長はふと考えた。愛機の胴体に「82」としか書かれていなかったのを見て、世紀の大事件として後世にその名が残るであろうこの1機に、呼び名をつけておくべきだと思ったのだ。

 まっ先に機長の脳裏に浮かんだのは、母親の名前だった。医師を志して大学に入ったが、途中でパイロットになろうと決心を変えた時、家族がこぞって反対した中で母親だけがパイロットになることを許してくれたのだった。

 母親の名前は《エノラ・ゲイ》といった。

 機長は部下に相談した。副機長は嫌がったが、機長は構わずペンキ工に言いつけて、母親の名前を操縦席の下に書かせた。胴体に積み込まれた約5トンの新型爆弾―原子爆弾にも名前が与えられた。

 爆弾の名前は《リトルボーイ》といった。


 1945年8月6日。

 1時45分、《エノラ・ゲイ》はテニアン島を離陸。第一目標に向かった。

 2時15分、起爆装置の取り付けに成功。

 5時05分、硫黄島上空から日本へ向かう。

 6時30分、赤プラグを挿入。

 6時41分、上昇開始。気象状況受信:第1目標良好、第2目標不良、第3目標不良。


 1994年2月13日。

 その日はよく冷える冬の日だというのに、ドレスデンの十字架教会は人いきれでむせかえていた。

 教会の祭壇にオーケストラと合唱団が集結していた。オーケストラと合唱団は祭壇に収まりきらず、教会の2階を囲む回廊にも立っている。ドレスデン国立歌劇場管弦楽団シュターツカペレ・合唱団。ドレスデン交響合唱団。ドレスデン楽友協会合唱団。鎮魂歌レクイエムの作曲者がそれだけ大規模なオーケストラと合唱団を要求していたのだ。

 ドレスデンは連合国の空襲によって破壊された古都である。今夜、十字架教会では空襲から50周年に当たる追悼演奏会が開かれていた。曲目はフランスの作曲家、ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」。

 指揮者はサー・コリン・デイヴィス。英国人であるデイヴィスは400年近い歴史を持つシュターツカペレ・ドレスデンと良好な関係を持ち、ベルリオーズのスペシャリストでもあった。そしてデイヴィスはドレスデンの空襲からさかのぼって数年前、ドイツ空軍ルフトヴァッフェによる空襲の被害を受けた英国中部の工業都市コヴェントリーの追悼演奏会でもタクトを取った実績がある。


 7時37分、高度約9970メートルで水平飛行に移る。

 7時47分、電子信管テスト、結果良好。

 8時04分、針路西へ取る。


 この日の朝。広島の市街地の上空は雲ひとつなかった。セミが鳴き、うだるような暑い日になりそうだった。

 8時頃。空襲警報が解除された。市民が朝の生活に戻った時、2機の敵機が上空に姿を現した。


 8時09分、目標視界に入る。


 ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」は他の作曲家による鎮魂歌と同様に、カトリック教会のミサで歌われるラテン語の典礼文をオーケストラの伴奏によって合唱団が歌う。最初は「入祭唱とキリエ」である。鎮魂歌の始まりを告げ、主への憐れみを請う。そして2曲目から「続唱セクエンツィア」に入る。《最後の審判》を謳う曲である。

 指揮者が構える。低音絃が配置された舞台の右側に眼を向けて、ゆっくりと指揮棒を振り始める。

 チェロとコントラバスが静かに、また重々しく奏で始める。素朴なグレゴリオ聖歌に似た旋律。この旋律は常にバス合唱の声部に現れてくる《怒りの日ディエス・イレ》の主題テーマである。

 続いて、木管が仄暗い旋律を奏でる。ソプラノ合唱がかすかに歌い始める。


 Dies iræ, dies illa solvet sæclum in…

 (怒りの日、あの恐ろしき日、世界を灰に帰せむべし・・・)


 バス合唱が《怒りの日》の主題をテノール合唱の対旋律を伴って歌い始める。そして、ソプラノ合唱が加わる。次第に《怒りの日》の予感を強めていく。


 Quantus tremor est futurus, quando judex est venturus…

 (裁きするものはやがて来たりたまい、容赦なく裁き給う・・・)


 この予感に応じて、変ロ短調に転調する。絃楽器の不気味なトレモロが恐怖を煽り立てるように鳴り響く。またしても《怒りの日》の予感はバス合唱が中心となって高められ、再び絃楽器による不気味なトレモロが現れる。

 ニ短調に変わり、テノール合唱が慟哭する。《怒りの日》の主題はフーガ風に力強く謳われる。三度目の不気味なトレモロは半音上の変ホ音にまで上昇し、ついに《最後の審判》の到来が宣告される。

 20本のトランペットによる力強いファンファーレ。

 聖堂に《妙なる喇叭トゥーバ・ミルム》の轟音が響き渡る。


 8時15分30秒、投下。


 数秒前、《エノラ・ゲイ》の爆撃手は高まる興奮を抑えつつ、爆薬庫のタラップを操作するレバーを握った。ファインダーにT字型の橋が照準器の十字線にかかっている。祈りを込めてレバーを前に倒す。タラップは即座に開かれる。

《リトルボーイ》は橋に向かって落ちていった。

 敵機が市の中心部で上空まで侵入した時、その中の1機から小型の落下傘が投下され、ゆらゆらと落ちてきた。その43秒後、眼もくらむようなもの凄い閃光が周囲を包み込み、一瞬天地を引き裂くような爆発が巻き起こった。

 フォルテのトゥッティから、まずオーケストラの西側に位置するトランペットとトロンボーンがユニゾンで咆哮し、2小節遅れて北側のコルネットとトロンボーンが高音で模倣する。さらに、東側のトランペットとトロンボーン、最後に南側のトランペット・トロンボーン・テューバが一斉に叫びを上げ、壮大で圧倒的なファンファーレを構築する。

 30数本に及ぶ金管群は、次から次へと吹奏を始め、次第に吹奏の間隔を詰める。その間隔が消え去った時、地獄へ叩き落とすような轟音が響き渡る。

 異常な高揚感に支配された壮大な音響の坩堝は、さらに8対のティンパニと大太鼓の暗く鈍い響きを爆発させる。ここに最後の時の審判を告げるのである。

 爆発は閃光になる。その閃光は直径100メートル、表面温度10000度の火球となる。火球はありとあらゆるものをなぎ倒し、街を一瞬の内に飲み込んだのである。

《エノラ・ゲイ》は高度約9600メートルで投下した直後、機長の操縦桿によって150度の急旋回を行い、目標上空からの離脱運動に入った。旋回中、投下後50秒で閃光が発生。その後、《エノラ・ゲイ》は強烈な衝撃波によって2回グラリと傾いた。

 大地を引き裂くばかりの地響き。バス合唱が力強く歌い始める。

 

 Tuba mirum spargens sonum per sepulchra regionum…

 (妙なる喇叭の響きは、全土の墓にまで聴こえ・・・)

 

 バス合唱は怒濤のごとく《怒りの日》の様相を謳い上げる。その合間にティンパニと大太鼓のトレモロが轟き、金管群が叫びを上げる。ティンパニが強打されて、この大音響が一度静まり返る。

 木管が物悲しい旋律を奏でる。バス合唱は重々しく歌い始める。


 Mors stupebit et natura, cum resurget creatura, judicanti responsura

 (死と自然とは、創造物が裁く者に答うるため、甦るとき驚くべし)

 

 この句にソプラノとテノールの合唱がフーガのように続く。ところが突如、金管と打楽器による威圧的なファンファーレにさえぎられる。

 再びバス合唱に木管の寂れた旋律が静かに奏でられる。ソプラノとテノールによって曲想に緩やかに呼び起こされた後、男声合唱の堂々たるユニゾンが屹立する。

 ここで一転してテンポが加速し、絃楽器が不気味なトレモロを奏でる。またしても《妙なる喇叭》の轟音が響き渡るのだ。男声合唱が力強く宣言する。


 Liber scriptus proferetur, in quo totum continetur…

 (記されたる書は差し出され・・・)


 聖堂の四隅に配置された金管群の別働隊バンダが再びファンファーレを告げる。

 バス合唱が《怒りの日》の恐怖を謳う。

 8対のティンパニと大太鼓のトレモロが轟き渡る。この時まで保留されていた10対のシンバルと4対のタムタムがかき鳴らされる。バス合唱が歌い始める。


 Judex ergo cum sedebit, quidquid latet, apparebit…

 (かくて裁くもの座したまうとき・・・)

 

 別働隊の咆哮が聖堂に飛び交う。女声合唱と男声合唱は呼応しあい、審判者の着座を告げる。いよいよ、ここに《最後の審判》が始められるのだ。

 楽想は壮大に盛り上がり、指揮者はオーケストラを叱咤する。呼応しあっていた合唱は渾然一体となって力強く歌う。別働隊も合流してオーケストラが威圧するようなフィナーレを築き上げた後に突然、曲は途切れる。

 木管の物悲しい旋律が繰り返される。合唱は声をひそめて歌う。


 Quid sum miser tunc dicturus?

 (報いをうけてのこることなからん)


《怒りの日》は静かに閉じられる。

 死の静寂に包まれた聖堂。零下25度という極寒の外気が十字架教会に染み入るようだった。あまりに多い戦争の犠牲者たちはこの鎮魂歌を謳う合唱団のように泣き叫ぶこともかなわない。

 聴衆の胸奥にその余韻が深く刻まれる。

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