other side 7.5

  誰も居なくなった国際物理学研究所は闇に溶け込むように静かに佇んでいた。風の低い唸り声しか響かぬ真夜中で、金色の月が朧雲に飲み込まれる。唯一辺りを照らしていた月光は嘆くように弱々しい光を投げて消えた。

 ここまでは予想通り。今のところ完全遂行されている計画に満足げに真っ黒な髪を掻き上げる。

 正直なところ少々の不確定要素は考えていたのだが、ここまで予想通りに事が運ぶと少し拍子抜けしてしまう。一人の少年は合成金属の扉を前に右手を翳した。

 この施設の扉のセキュリティーは掌を扉の横に付いたセンサーに押し当てる仕様になっている。判断条件は掌の大きさは勿論、手相や血管の通り方など、様々な項目から成り立っている。更に扉自体に使われている合成金属は核シェルターとほぼ同性能を誇る超硬質素材。完全なセキュリティーに守られたこの施設はもはや一つの要塞と化している。


「とは言ってもこうやってシステムに侵入している以上完全とは言えないけどね」


 そう小さく口にする少年の眼光は恐ろしく鋭い。しなやかな体つきと相まった様子はまさに肉食獣のそれだった。

 少年はポケットから一つの袋を取り出す。真っ黒な袋は所々に奇妙な突起が見られるが中に何が入っているのかは全く分からない。少年は無造作にそれに手を入れると、中からを取り出した。

 鋭利な刃物で切られたと思わしき切断面は、未だ血が通っているにもかかわらず血の跡が全く見えない。一度見ただけでは精巧な人形ではないかと思わせるそれだが、センサーの光に軽く透き通る肌は紛れも無い本物であることを証明している。


「さて。仕事開始と行こうか」


 センサーに掌を当てると、ピピピとという電子音を上げて扉が開いた。

 この堅固なセキュリティーをつくった者もまさか腕ごと持ってくるとは思わなかったのだろう。

 少年は呆気なく開いた扉を横目に部屋の中へ入った。

 部屋の中はかなり広い割に特に何もなくがらんとしている。ただ目を引くものがあるとしたらそれは部屋の最奥部、まるで核のスイッチでも収めてあるのではないだろうかとも思わせる厳重なロックが掛かった箱のみだろう。

 少年は他の物には目もくれず箱へ歩み寄る。

 無骨な箱は鈍色の光を反射し、全体で危険なオーラを放っていた。

 しかし、そんなことは一切気にせず少年は箱に手を掛ける。箱にはこれまた意地の悪いセキュリティーが大量に掛かっていたが、毛糸球をほぐすように軽々と解いて行く。


「いくら立派なカラクリ箱でも解き方が分かっていれば楽に開ける事が出来るさ」


 こうして声を潜めることも無く独り言を吐けるのは余裕の表れだろう。

 完全に敵地に入ったスパイが鼻歌を歌いながら自国の旗を掲げているようなものだが、それも意に介さないらしい。

 そうして最後のセキュリティーに取り掛かった時、突然背後の扉が開いた。

 少年は手を止め背後の侵入者へ意識を向ける。


「まさか君がここへ来るとは思わなかったよ、漆黒シャドウ

「ずいぶんと余裕なのね、全能者バルチアス


 少年————バルチアスがゆっくりと振り返ると————僅か二メートルという所に彼女はいた。

 真っ黒いスニーキングスーツに身を包み、肌が見えているのは目元のみ。ボディーラインが強調される服装は強靭かつ艶めかしかった。足音一つ立てずにこの距離まで近づいて来たのは、特殊な構造をした靴のお陰だけでは無いのだろう。掴み所の無い立ち振る舞いは美しくも恐れをもたらした。バルチアスが暴力的な黒ならばシャドウは蠱惑的な黒だった。


「それで何の用だい? 僕はこう見えても結構忙しいんだけど」

「答えが分かっているくせに訊くのは無粋じゃないかしら?」

「そうかな? 折角僕は君が逃げる隙を与えているのに心外だなぁ」


 この場の主導権はすべて自分にあると暗に告げた、傲慢とも受け取れるその言葉と共にバルチアスは笑って見せた。


「まったく。どこから僕がここに居るという情報を手に入れたのやら・・・・・・君が正義感に溢れる少女で無ければ僕はいつでも君を仲間に入れたんだけどね・・・・・・」

「勘違いしないで欲しいわね。私は一度も正義のために動いたことは無いわ。私はいつでも悪を滅ぼすために動いているだけよ」

「そっちこそ何か勘違いをしていないかい? 僕は何も悪い事をしている訳では無いのだけれどね。ただ世界をもっと面白くする足固めをしているだけじゃないか」


 心から楽しそうにバルチアスは笑う。

 しかしその言葉の意味を知っているシャドウは眉を顰める。右腰に付けられた大苦無くないを引き抜くと、一般人なら思わず竦んでしまう程の力を込めて睨みつける。


「あなたがもたらすのは混沌だけじゃない。自らの力を悪用し、世界の安定を根っこから引きはがす。それだけの力があれば世界を救う事だって簡単でしょうに」

「僕にとっては悪と善の差なんて些細なものにしか見えないけどね。————そろそろ時間も無くなってきたから、退いてもらいたいのだけれど」

「ノーといったら?」

「ここが君の墓場になるだけさ」


 二人の視線の鋭さが増す。互いの殺気だけで周囲の空間が揺らいで見える。部屋に満ち溢れる気は実際にモノを揺らすほどの力を見せ始める。

 先に動いたのはシャドウ。体のバネを最大限に生かした跳躍で一瞬にして距離を埋める。

 そして苦無の攻撃範囲に入った刹那————シャドウの姿が消えた。


「ここは闇に満ちている、幾らあなたでもそう簡単にはいかないわよ!」


 声と共にバルチアスのから切りつけるシャドウ。

 有り得ない方角から向けられた切っ先は正確に首元を捉える。通常ならばこの奇襲に避けられるはずも無く、戦闘はここで終わるのだが————苦無が当たる寸前、バルチアスは首を僅か数センチ傾けた。首の皮一枚、最小限の動きのみで必殺の攻撃を躱したのだ

 余りに人間離れしたその動きにシャドウは驚きを隠せない。————しかし、それも束の間。すぐに冷静を取り戻すと、袈裟型に斬りつける。それと同時にバルチアスは低く体を沈めると鎌のように足を薙ぎ払いにかかった。

 僅かに早かったバルチアスがシャドウの足を刈り取り、体を宙に浮かす。落ちてくるシャドウに向かって、そのまま回転の勢いを使って拳を振り上げる。

 人は落下中が一番弱い。どう足掻いても回避行動が取れないからだ。重力という力に縛られている以上成す術も無く黙って落ちるしかないのだ。————だがそれも重力に縛られていればの話ではあるのだが。

 自分の危機を悟ったシャドウはまた姿を消す。


「御免なさい。私だけ逃げちゃって」


 再び姿を現したのはまたもバルチアスの背後。

 拳を振り上げ止まれない状態のバルチアスに向かって今度こそと苦無を振り下ろす。


「僕は君が逃げたって一向に構わないけどね」


 腕が伸びきった刹那、バルチアスの体は不自然な反動を受け後ろに吹っ飛んだ。

 今度こそ捉えたと思った攻撃をまたも避けられ、シャドウに焦りの表情が見え始める。


「君の能力、〝翳の導き〟。明るさが一定以下のフィールドで様々な力を発揮する能力だっけか? 確かに面白い能力ではあるけれど、僕を倒すには君の地がまだ足りないかな」


 コンマ以下の攻防を繰り広げる二人の差は一見すると余り開いていないように思える。しかし、シャドウは一つ一つの動作に細心の注意を入れているのに対し、バルチアスは自然体で顔には余裕すら見える。


「悪いけどそれじゃ余興程度にしかならないね。さよなら」

「っ! ・・・・・・」


 シャドウの背筋を何か嫌な予感が這った。まるで背中を蜈蚣が這いまわるかのような気味の悪さ。さっきまでと状況は何も変わらない。何も変わらないのにたまらなく嫌な予感がする。

 そんな迷いを断ち切るように苦無を強く握る。

 

「ま、まだ戦いは終わってないわよ。勝手に勝負が着いたみたいなこと言わないで欲しいわね!」


 足を踏み込むとまたバルチアスの懐へ飛び込む。残像しか残さない速さで放った一撃は、またも直前に躱され空を切る。避けられることを見越したのか、同時にシャドウの姿は消えて次の攻撃に備える。


(この勝負は私にとってかなり有利な条件で行なわれている。〝翳の導き〟さえあれば私は攻めと守りをどちらも固めることができるのだから)


 こちらの攻撃を躱されようが、向こうが重い一撃を飛ばそうが、全てをいったん仕切りなおすことができるこの能力ならば必ず勝機は現れる。そう信じてバルチアスの背後に回り込む。————しかし、暗闇から姿を見せた刹那、腹部に岩盤をも軽く砕く一撃が撃ち込まれた。置いてあった実験道具を巻き込み、二十メートル吹き飛んで壁にぶつかりようやく体が止まる。

肺の空気が全て押し出され、呼吸すらまともにできない。攻撃を直接受けた肋骨は幾つか折れているのが確実だった。


「ガハッ!! どう・・・・・・・して・・・・・・」


 バルチアスは廻脚をした足を元に戻し悠然と立つ。まるで研究用のモルモットを見るような目つきでシャドウを見下す。


「人間って言うのは追い詰められるほど動きが単純になるんだよ。君はさっきから僕の後ろに回り込むワンパターンな動きしかしなかったからね。何処に君が来るのか分かってさえいれば君が空間移動しようが、僕は自分の背後を蹴る事だけを考えればいいんだからね」


 たった一撃でボロボロになった体をなんとか起き上がらせ、もう一度苦無を握る。立っているだけでもやっとな体に鞭を打ち切っ先をバルチアスへ向ける。

 しかし、誰の目から見てもいつ気を失うか分からない危ない状況だというのは明白だった。


「これ以上無駄に体を動かすのは良くないと思うのだが?」

「うる————さいわね・・・・・・」

「しょうがない子だね君は。可哀そうだから早いとこ送ってあげるよ」


 バルチアスが目を見開くと同時に空間が歪んだ。余りにも強大すぎる〝気〟は直接的に空間に影響を及ぼし、それだけでシャドウは押し倒された。

 彼は今まで本気の勝負というものをしたことが無かった。もし本気を出したらこの世界一つ破壊する事すら出来るからだ。それ故彼はこう呼ばれているのだ。〝全能者〟と。

 つまるところ、これすらも彼の本気ではない。彼は密かに思った。もし自分が本気を出すとしたら、それはどのような相手なのだろうか、と。

 その時だった。


「あ~。悪いけど彼女には生きろとまだ神様が言ってるみたいだぜ」


 この状況を無視した軽い言葉。今この部屋は入ると同時に三途の川への片道切符が無料で手に入るわけだが、それを理解してなお軽口を叩く者は誰だとバルチアスは扉を見る。

 そこに立っていた少年は部屋の二人と同じく真っ黒な服装をしている。ただし違うのはパーカーにサイズの合わないダボダボなズボンと、妙なセンスをしている事だろう。身長は二メートルを優に超えているがその割に体はかなり痩せていて見るからに不健康である。


「君は一体誰だい? 今のこの状況を見たら赤子でも走って逃げだすと思うのだがちゃんと理解してるかな?」

「ああ、ちゃんと理解してるさ。まさか俺そんな格下に見られてたのか? いや~。ソリャないわ~。一応インファーナル最強名乗るならちゃんと敵の見定めぐらいしようぜ」

「生憎今はお取込み中でね。君が余りにも面白い真似をしたから驚いてしまったよ。大体この辺り一帯シミュレーションでは誰も来ないはずだったのに、どうしてこんなに人が来るのか理解に困ってしまうね」


 数秒前の雰囲気は何処へやら。まるで軒先で合った近所のお年寄りの会話のように軽い声色で話し合う二人。それはさっきまで死闘を繰り広げていた者のようには到底見えない。


「さ~て、残念な話だどうやら君のお友達の一人がポカやらかして、研究所の警備体制がレベル5に跳ね上がりましたとさ。早く行かないとまずいんじゃない?」

「本当かい? しょうがないね。彼女を殺しそびれたのは残念だが、そうも言ってられないみたいだ。これはまた今度の機会にしておくよ」


 バルチアスは箱を片手に扉へ歩き、突然現れた少年へ右手を上げると残念そうに振り返った。


「君とも遊んでみたかったけどな。いつかまた会う時までお預けだね」


 そういった一秒後には既に姿は見えない。残像すら残さない速さに今頃ながらシャドウは戦慄するのだった。


 

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