9話


「杏子ちゃん? いつまで窓の外見てるの? もう移動始まっちゃうよ」

「ごめん。今行くよ」


 窓から見える風景を眺めていた杏子は友人の声に振り返る。いや風景など実際は見てはいなかった。杏子はずっと待っていた。悠が校門を潜るのをだ。

 悠との出会いは覚えてない。出来心がついた時から既に一緒に居た。俗に言う幼馴染という奴だ。

 悠は子供の頃から口数が少ないかったせいか、友達が少なくいつも一人でいた。自分と一緒に居る時も大して話をしたりする訳では無かったが、杏子にとってはそれでも良かった。

 小学校に入ってから少しすると、彼にも一人の友達が出来た。

 それが良太だ。

 何がどうあって、対照的な性格を持つ二人の中が良くなったのかはよく分からない。恐らく好奇心が強かった良太が、自分とは正反対だった悠に興味を持ったのだろう。

 それからは悠も少し社交的になり今までよりも明るくなったのだが————悲劇は起きた。

 良太が自動車事故で死んだのだ。

 初めて唯一無二の親友となった彼が目の前で死体になった事にショックを受けた悠は完全に自分を失ってしまった。

 命令さえあれば人間として最低限の行動はできるものの、それ以外の事は何もせずただベットの上で毎日寝たきりになる生活が続いた。

 それから五年、今では人並みの生活が送れるようになるまでは良くなったのだが・・・・・・それでもどこか人を避けるような節が残っていた。


「明日の文化祭楽しみだね」

「えっ!? う、うん」


 回想から現実に引き戻され一瞬口籠くちごもる。

 話しかけてきたのは学級委員の光流だった。


「最近杏子らしくないね・・・・・・もしかして————恋煩こいわずらい?」

「違うよ~————というか、私ってどういう風に見られてるの?」

「えーと、いっつもほのぼのしてて、ふわふわしてる綿菓子見たいな感じ?」

「なるほど。なんかかわいくていいね」


 本人は『平和ボケした頭が一年中春なお馬鹿さん』という意味で言ったのだが、嬉しそうな杏子の様子を見て苦笑いを浮かべる。


「そういう風に受け取れるとことか特にね」

「どういう事?」

「何でもない何でもない————というかなんか悩みでもあるの? 最近考える素振りばっか見せて・・・・・・クラスの中には明日にでも雪が降るんじゃないかって心配する人も出てきたくらいだよ」

「それはさすがにひどくない!? いくら私でも考えごとすることぐらいあるし、ひとなみに悩みだってもってるよ————たぶん」

「・・・・・・・・・。それは置いといてやっぱり悠の事で悩んでるんでしょ?」

「その一瞬のスキは何なの!? ひかるんさっきからもしかしてバカにしてる!?」


 腕をブンブン振り回して喋る杏子に、光流は首を振って慌てて話題を逸らす。


「まさか馬鹿にしてる訳無いでしょ! そ、それより悩みがあるんだったら私が聞いてあげるわよ? だからまずその危なっかしい腕を止めて!!」


 光流は杏子の腕が窓を叩き割りそうになるのを、必死に抑えながら叫ぶ。

 

「ほんとに?」

「いつも騒がしい杏子がそんな顔してるとクラスも暗くなっちゃうでしょ。これでも学級委員なんだから、クラスの平衡を保たせたいとね」


 当り前のように胸を張る光流に、輝きの表情を向ける。

 それと同時に杏子が持つ空気が、がらりと変わったのを光流は感じた。

 凪のように静かで無垢むくな瞳にはいつもの軽さは無く、鏡面の様に自分の姿だけが写されていた。

 

「悠に————少し無理させちゃったかなって思って・・・・・・」

「どういう事?」


 杏子は考えるように窓の外を見やる。光流は顔を合わせることが辛くなっいたので内心ほっとした。


「ひかるんは何で悠が学校に来ないのか知ってる?」

「確か交通事故で友達を亡くしたのがどうのこうのってのは聞いたことがあるけど、それ以外はあんまり知らないかな・・・・・・」

「そうだろうね。昔悠から一回だけ聞いた話なんだけど・・・・・・」


 静かに杏子は語り始めた。







 良太の死から数カ月、悠は日々を何もせず過ごしていた。目の前に広がる色彩の無い世界を、むくろのように過ごす怠慢な毎日。生命活動を維持するための行動以外は何一つせず、ただ流れる時間を受け止めていた。

 医師はこのままでは体の機能が低下し続ける事を指摘しカウンセラーによる治療を勧めたが、両親はそれを「悠に今必要なのは治療ではない、時間だ」と断った。

 そんな虚度光陰が続いたある日、悠の耳に雑音ノイズが入った。すべての感覚器官をシャットダウンしていたはずなのに聞こえたそれは、眠っていた神経を焼き起こし現実という苦しみを与えようとした。

 長い間閉じていた口からは声にならない悲鳴が呻き声となって漏れ出す。

 最初の内はただ耳障りなだけだった雑音は、何度も脳内を木霊する内に段々と意味を持った言葉となっていく。


「————う! 部屋————なさい!」


(僕を苦しめているこいつは誰なんだ? 何故こんなことをするんだ?)


「悠! 何時まで————————の!?」

 

(悠? ああそういえばそんな名前の奴も居たな・・・・・・いや違うこれは僕の名前だ。こいつは僕の事を呼んでるのか?)


 それからどれ程の時間が経ったのだろうか、聞こえてくる声の調子が少し変わってきた。

 怒りのこもる激しい口調は、やがて静かな独り言の様なささやきになっていく。


「悠ともう会えないなんて・・・・・・悲しいよ・・・・・・」


 初めてはっきりと届いたその声は、むせび泣きを伴っていた。

 

(僕の事でこんなにも悲しむ人がいるのか・・・・・・)


 自分の事を大切に思ってくれている人がいる。

 自分の事で泣いてくれる人がいる。

 その事実は心に絡まった鎖を解きほぐしていった。


「いやいや、こんな弱気になっていちゃいけない。悠を取り戻すまでは絶対帰らない!」


 その時ゆっくりと扉が開いた。

 

「いや、学校には行けよ」


 ドアに寄りかかるようにして何とか立っているその人は、痩せ細り目が少々落ち窪んでいたが、紛れも無く悠だった。

 待ち焦がれたその姿に、目の前が霞んでいく。

 

「————————。こんだけ人の事心配させといて何その反応」

「悪かったな、杏子。こっちにも色々あってさ」


 何処にでも或るそんな会話。でもそこには様々な思いが込められていた。

 



        ◇




「それで? それじゃあただのいい話じゃない」


 光流は首を傾げる。


「いや、問題はこの後。半年間も自分を失っていた悠は、その後も心が形骸化けがいかしたままだったの。周りに見えるものはすべて虚飾きょしょく。前は生きている事自体が辛くてしょうがないって本人は言ってた」

「なるほど。それで杏子は悠が学校に興味を持ち始めたんじゃないかと思って積極的に学校に誘ったのね」

「うん。でも実際は私の思い違いだったみたい————これが悠が何かを見つけるきっかけになればいいなって思ったんだけどな・・・・・・」

「何か?」

「具体的に何かって言われると答えられないんだけど、悠ってたまにものすごく思案気な顔をする事があるんだよね。たぶん何か考えてるっていうより、何かを見出そうとしてるように思うの」

「そうなんだ・・・・・・ところでさ、話の腰折るようで悪いんだけど・・・・・・」


 光流が相変わらず窓の外をずっと見ている杏子に向かって言う。


「————なあに?」

「もう皆移動しちゃってる」

「あっ!?」


 しまったとばかりに振り返った杏子の目に入ったのは、自分と光流二人だけになった教室だった。


「い、急げ!!」

「ちょっと置いてかないでよ!」


 自分を置いて走って行った杏子の背中に向けて叫ぶ。


(はぁ、ホントにマイペースなんだから・・・・・・それにしてもさっきの会話の間、やたら難しい言葉使ってたのは何なんだろう?)


 その謎が解けることは永遠に無かった。

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