1-9 雷神Ⅰ

 鉄分を含んだ独特の臭いが鼻腔を刺激する空間で一人佇む青年は虚空に手を伸ばす。何も掴めるはずもない。その空間には何もないのだから。それでもなお青年は虚空へと手を伸ばし必死に何かに抗うかのように何かを掴もうとしていた。


 青年は善悪で言えば限りなく悪に近い善である。青年は自らを必要悪と呼び神としての自分をなんとか容認していた。

 人として育てられ、人として生活を営んでいた青年はある日突然神になった。

 神という存在は信仰や畏れを抱いてもらわなければその存在意義をなくしてしまう。

 そのために異能者たちの希望となった。

 信仰の対象として玄武館を設立し、そこのトップに収まることで信仰を集めようとした。

 目論見は成功し、第六分校のほぼ全員が神崎徹を象徴として崇め奉った。

 しかし、偏った信仰による神々のパワーバランスの崩壊を危惧した政府は強攻策に出た。

 一人の神に対して総勢百を超える上級魔導師に魔導兵器を装備した第五分校所属の陸戦特務部隊といった国家戦力を投入し、信仰を独占する神の鎮圧が行われた。

 しかし青年はそれらの戦力を物ともしなかった。

 開戦の火蓋が落とされる前に先制攻撃を仕掛けた。

 具現化させたハンマー―神器ミョルニルを陸上に陣を張る特務部隊へと向かって投げ下ろした。

 驚くほどにゆっくりと回転を始め、徐々にその回転数を上げていった。

 回転数の上昇に伴い速度を上げるハンマーは人間の動体視力ではとらえることのできない領域に達し、特務部隊が身構えた瞬間―ドゴォォンと轟音と共に粉塵が上がった。

 ハンマーは特務部隊の張った陣の数メートル手前に落下する。

 次の瞬間、安堵する特務部隊は戦慄する。

 僅かな揺れを感じ、警戒態勢を取る。足元に転がる小石がカタカタと動いたかと思うと陣の最前列にいた隊員の四肢は裂け、鮮血が大地を赤く染めた。

 「ううぅぅぅああァァァぁぁぁぁぁああああああああああああああ」

 言葉にならない叫びが戦場を包んだ。その叫びは恐怖によるものか苦痛によるものなのか判断しかねるほどに戦場は混乱していた。

 目の前で仲間が鮮血を噴き、倒れたかと思った瞬間には自分の四肢が切断され生暖かい赤い液体が噴き出し世界を赤く染めた。

 神器ニョルニルは不規則な軌道で戦場に破壊を振り撒いた。

その様子を静観していた青年は世界に宣言した。

「これは聖戦だ。世界に点在する能力者は奮起せよ、そして神々は世界の秩序再びその手に取り戻せ!!」

 

 世界はあまりにも残酷で唐突に青年の夢を打ち砕いた。

 世界に向けた青年の宣言の数分後。

 上級魔法師、特務部隊を壊滅状態に追い込んだが、青年は窮地に立たされていた。

 一人の女神の降臨である。

 「打ち殺せ、ニョルニル」

 死の宣告。

 神器による攻撃は死を意味していた。

 しかし一人戦地に舞い降りた女神は天に手を掲げると魔法陣を展開させた。

 神器ニョルニルは展開された魔法陣に弾かれた。

 戦地を覆い尽くすほど大きな魔法陣は膨大な数の光の粒子を生み出し一点に集約した。

 集約された光の粒子は女神の手から真っ直ぐに伸び、一本の剣と化した。

 刀身は二尺に満たない。

 それでもその剣は青年にプレツシャーを与えた。

 確実に死の臭いがした。

 女神が振り下ろした剣は瞬間、消失した。

 しかし青年は見た。空気中に無数に散らばる光の粒子を。

 光の粒子をその目に捕らえた瞬間―青年は光に包まれた。

 

 「可哀想な子……」

 憐れむような声に目を覚ます。

 俺は負けたのか。青の中に浮かぶ白のコントラストを眺めながら青年は呟く。

 「お目覚め? ちょっと加減間違えちゃったけど死んではいないわよね」

 「アンタは……?」

 「私? 私は―って言うの、よろしくね」

 「―?」

 「ええ、―よ」

 語りかける女の声が聞こえない―名前だけがどうしても聞きとれなかった。実際は聞きとれている。しかし聞いたそばから頭の中から消えていく、正確には名前の部分にだけ靄がかかったように思い出せない。

 「あなたはここで始末される。でも、国の思惑に乗るのであればその命は助けてあげる」

 青年はフンと鼻を鳴らすと、

 「御免だね。今更国に何も期待はしないし、従ってやる義理もないからな」

 「なら今ここで死になさい」

 「おいおい、今さっき助けてくれる的なことを言っていたのに数秒後には簡単に覆すのかよ」

 「私は政府の命令で動いていますのであくまであなたの抹殺も止む無しというのが上の判断のようです」

 「結局、アンタも国家の犬に過ぎないということか」

 「犬ではなく日本国所有の最高戦力にして外交の切り札であり、女神です」

 「女神か……」

 微笑を浮かべて女神は告げる。

 「力を蓄えなさい。今のあなたでは世界を動かすことはできません。そして同志を集めなさい。信用できる仲間を作りなさい。そして自身が神であることを自覚なさい」

 「アンタは今の世界に満足しているのか?」

 「満足なんかしていませんよ。このくだらない世界に生きている私たちはこの世界で生きていくしかないのですから。もう諦めてしまっています。でも、もし世界を変えることができるのであればあと数年の内に機会が来ますよ。世界を変えるのはあなたではありませんが、導くことはできます」

 「導く? 俺がどこの誰とも知れない馬の骨を、か?」

 「馬の骨ではありません。私の自慢の息子です」

 確かに女神を自称するに値するだけの力を持つこの女の子どもであれば、と話に乗ってしまいそうになる。

 不思議な女だ。

 「いいぜ、今回は乗っておいてやる。アンタの息子とやらを見てみたくなった」

 「そうですか。ではお友達になっていただけると嬉しいのですが」

 「それはアンタの息子次第だな」

 この出会いと約束が後に世界を揺るがす大革命をもたらすことをこの時の青年は知る由もなかった。

 

 *


 太平洋上空―二つの影が雲の合間を縫うように飛行する。

 「ピート、上からの指示は?」

 ピートと呼ばれた男は静かに答えた。

 「指示はない」

 「そうかですか……まったく、上は何をやっているんだか、もたもたしていたら他国に先を越されてしまうというのに」

 「すでにロシアと中国は日本の領海を超えているらしい。すでに我々は後れを取っている。今回は慎重に事に当たるべきだ」

 「それは例の神託とやら、ですか?」

 「神託ではない。私個人の考えに過ぎない」

 「傍観者のピートからすれば今回の件は面倒なことこの上ないのでしょうが、戦力を確保して調子づいている日本政府に警告の意味も込めて武力介入しておくべきです。そしてついでに奪えばいい。神たちを」

 「やはりあなたは戦好きなのですね……いや、それこそがあなた背負った宿命ということですか」

 「余計なお世話です」

 一言告げると飛行速度を上げる。

 「気に障りましたかね―待ってくださいよ、アーテナ」

 先行する同僚を追うため、ピートは加速した。

 

二つの影が領空侵犯を犯した頃―。

 アメリカ合衆国―ホワイトハウスでは大統領が決断に迫られていた。

 「開戦の準備を」

 「わかりました。直ちに」

 時の大統領、キル・パトリックは頭を抱えた。


 *


 「見えました。あれが玄武館です……」

 アーテナは続く言葉を失った。

 代わりにピートが呟くように言った。

 「この戦は割に合わない―撤退すべきだ」

 アーテナもそれに賛同し、後退する。

 「っ、あれは」

 ピートが驚きに声を上げる。

 玄武館を中心に展開される魔法陣。そしてそのさらに中心に人影が一つ。

 男か女かの区別もつかないその人影と目が合った。

 明確な殺意を感じた。

 殺される。

 そう判断した時には殺意は目の前まで迫っていた。

 

 *


 「またどこぞの回し者が来られたようですよ」

 「人の動きに便乗することしかできない半端者が」

 青年は天に手を掲げると魔法陣を展開、目標を捉えた。

 「最終調整に付き合ってもらうとしようか。光剣―」

 魔法陣を通して集約された光の粒子に混じり青白い火花がバチバチと散っていた。

 「―雷帝」

 殺気とともに振り下ろされたその剣は音速の速さで死を届けた。

 

 *


 轟音と共に凄まじい衝撃が身体を打つ。

 とっさに同僚を庇ったがその必要はなかったらしい。

 二人は球体状の薄いシールドに包まれていた。

 「さすがだな、アーテナ。君がいなかったら僕は間違いなく命を落としていたよ」

 アーテナは息を整えながら自らの掌に爪を突き立てた。

 爪が肉に食い込み跡を残す。

 「どうした?」

 ピートの問いにアーテナは嘆息するように答える。

 「最上級防壁魔法が最後にはこの一枚しか残りませんでした」

 そう言うとアーテナは球体状のシールドに触れる。するとシールドは砕け散り霧散した。

 「あれが神崎徹―雷神トールですか……まごうことなき本物の神ですね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る