第5話

「じゃ、そこで待ってな、受付済ませてくるから。飲み物はその辺走っているヤツに言えば何か出してくれるはずだ。ま、飲んでもお酒は控えめにな、お嬢ちゃん」

 ニヒヒ、と笑って、彼はどこかに消えてしまった。すぐに姿は見えなくなったけど、受付をしてくるのだろう。

 少ししてから、ウェイトレスがメニューを持ってやってきた。極々普通のメニューで、内容もそれなりに普通だったが、値段が一切書いていないのが気にかかる。聞いてみたが、その辺り軽く流れされてしまった。まるでぼったくりバーのように。それでも注文するに越したことはないので、オレンジジュースを頼んだ。

「ここ、よろしいですかな」

 声をかけられたのは、丁度グラス一杯のオレンジジュースがテーブルに置かれたときだった。振り返ると、そこには、高齢だけど、快活そうなお爺さんが立っていた。

「え、あ、はい、どうぞ」

 急に話しかけられたせいか、少し上ずった声で私が返した。情けない声だ。

「失礼するよ」

 お爺さんは微笑むと、私の向かいに座った。白いベストに燕尾服で、物腰と合わせても、紳士、という響きが似合いそうだった。

 他のテーブルが混んでいるというわけでもない。一人でぼんやりとしている私を見かねたのだろうか、それともただの話好きだろうか。もしも、同情心で私のそばにいようとしたのなら、迷惑な話だ。

 お爺さんも注文をしたが、来たのは湯呑みで熱い昆布茶のようだった。かなり渋い。いや、年齢からすればそう変わった注文でもないだろう。

「どうしたの、浮かない顔じゃな」

 少し心配そうに、お爺さんが私に聞く。

 どうやって返せば良いのだろうか。

「まあ、色々とあるのだろう」

 お爺さんはそれだけを言った。

 手を湯呑みに重ねたまま、いつまでもお茶に口をつけようとしない。昆布の香りが、どこからともなく吹いてくる風で漂ってくる。

「猫舌なんだよ」

 私の視線に気が付いたのか、お爺さんはそう弁明をした。

 お茶が冷め始めて、お爺さんが飲めるようになってから、少し話をした。ほとんどが、お爺さんの独り言のような話で、私は相槌を打っているくらいだった。

「ねえ、お爺さん」

「なんだね?」

 その質問をしても良いだろうか。もしかしたら、失礼かもしれない。

「聞きたいことがあるのであれば。老いぼれが答えるのに簡単なものに限定でな」

 お爺さんの声は、凛々しい。言葉に偽りを詰め込むなんて、どこにも感じさせようとしない口調で、それでいて威圧感もない。

 いつでも、相手の言葉を引き出す用意がある、と言わんばかりだ。そのためか、言いかけた私の声が喉から流れでてしまった。

「いつが、一番幸せでした?」

 自分でも何を聞いているのだろうか。何か的外れな質問のような気がしてきた。きっと、お爺さんも困った顔をして何も言えないでいるだろう、

「今、だと言ったら驚くかね?」

 と、紳士は笑顔でためらいもなく答えた。

 それは、私にとって意外な回答で、多分、誰にとってもそうに違いないと思う。なぜなら、もう彼は、生きてはいないのだから。

「お爺さん、死んだんだよ」

「知っておるよ」

 私の質問に、何でもないという風に返す。

「それなのに?」

「それだから」

「どうして?」

 簡単に、私が聞く。死んだ人に、幸せも何もあったものじゃない。死ぬ直前まで、というのならまだわかるけど、お爺さんは自分が死んだことも理解している。何も考えずに生きてきたようには思えない。死んだ人間は、もう何もできないということも知っているはずだ。

「どうして、と来たか」

 あごに手を当てて、悩むような仕草を見せる。それほどに彼にとっては当たり前で、逆に難しい質問だったのだろうか。

「ふむ、お若いお嬢さん。ならばわしにも質問させてもらおうか」

「え?」

「どうして、幸せだと思ってはいけないのかね? 自分を幸せだと思う理由は何かね?」

「え、と、それは」

 何だろうか。

「欲しいものが、欲しいときにあること」

 私はそう言った。それが、今まで、幸せの最低条件だと思っていた。欲しいものを見つけて、それに見合うだけの何かを支払って、それを手に入れる。手に入れたあとは、自分のものだから、好きなだけ扱って、そしていつかまた新しいものが欲しくなる。

「確かに、そうかもしれない。お金が全てだとは言わんが、お金がなくては人間生活すら困難なのも事実だ。だが、それだけしかない、と誰が言い切れるだろうか。お金でなくても同じことだ」

 自分は幸せではない、と感じたことは何度も、そして多分今だってそう思っている。それは、きっと、私の中で、何かが欠けているからだ、そう思っていた。

 じゃあ、私に欠けているものは一体何だったのか。何を嵌めれば私のパズルは完成するのだろうか。どこを、何で、どうやって、埋めたいと思っていたのだろうか。

「いつだって、わしは幸せだったよ。どんなに辛いことがあってもな。辛いことを許容できたからでもない。辛いことは辛いことだった」

 それでも、お爺さんは、今が幸せだと。

「幸せとは、明日に希望があるからではない。それならば、今日が幸せである道理にはならんだろう?」

 それはそうだ。

 そう思っているとしたら、『明日が幸せであるように』とただ願っているだけで、結局のところ、『今日』に何も影響していない。

「大事なのは、いかに今日を生きるか、それだけだよ。過去を想って過ごすのも、未来に想いを馳せるのも悪くない。だが、そのために一瞬しかない『今』をないがしろにしてはいけない。いつでも、今の自分は今の自分のためにあるのじゃよ」

 今の自分のため。

 生まれたときから、あの事故から、何度私はそれを否定してきたのだろうか。否定して、『いずれの私』がそれに答えてくれるものだと、信じ込もうとしてきたのだろうか。

「若い、新しいものを求めるお嬢さんにはわかりようもないかもしれない。『ただそのままにあること』、それがどれだけ幸せなことか」

「良く、わからない」

 何もしないでいることの、何が幸せだというのだろうか。失うことが怖いから、何も望まないだけじゃないのだろうか。

 私はお爺さんの言っていることが正しいとは思えなかった。

「今は疑問に思うのも無理からぬことだ。こういうものは、実に良くできていて、深く考えれば考えるほど、その答えまでの距離は遠くなる。ならば考えないとすれば、その答えは永久に出ない。そういうときは」

「そういうときは?」

「ひょっこり答えが出てくるのを待つこと」

 微笑んで、お爺さんは答えた。

「それじゃあ、いつになるかわからないまま、待っているってことじゃ」

 私は率直に、お爺さんの言葉に返した。

「いやはや、これが実に辛抱のいる作業なんじゃよ。何せ、これがわかるのに九十年もかかったからのう」

 笑いながら、お爺さんは言った。

 私もそれにつられて、自然と笑っていた。

 何が面白いとかでもない、そうあるように、私は笑っていたのだった。

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