第4話

「うわ、あれ、東京タワー?」

 真下に見える建物を見下ろして私が叫ぶ。不思議と怖いという気分はなかった。きっと、もう死んでいるからだろう。東京は、空の星々よりも、地上のライトの方がずっと綺麗だ。車や建物のライト、点滅を繰り返したり、色を変えたり、一つ一つが、まるで生きているみたいだった。

 窓を軽快に飛び出してから、空の旅は十分ほどが経っていた。その間、彼は必死になってペダルを踏んでいる。といっても、漕ぐのを止めたから地面に落下するというわけではないらしく、単に推進力の役割をしているのだろう。速度はやっぱり、ママチャリレベルだった。昔見た映画にこんなシーンはなかっただろうか。指でも伸ばしてみるべきか。

「しっかり掴まっていろって! 落っこちて浮遊霊になってもしらねぇぞ!」

 急上昇して、体の感覚は垂直に近い。振り落とされないように、彼の体にしがみつく。

 ゴツイ体を想像していたが、結構、いや、それにしても、うん、これは表現が変だけど、柔らかくて気持ちが良いのだ。

 彼は、何だか気色悪そうにしている。感触が丁度良いので、もっと触っていよう。

 ふにふに、ふにふに。

「あ、うん、そんなに、あ、ちょっと、マジで、あ、触るな!」

 不自然に顔を紅潮させて体をくねらせながら、彼が叫んだ。この反応はちょっと異常じゃないのか。待てよ、私が触っているのは大体肋骨の上、胸骨の辺りで、えーその部分が盛り上がっているということは、つまり、素直に考えると、結論は一つしかなくて、

「あ、え、うそ、ひょっとして、女の人?」

 ということになる。スーツがアレンジによってひらひらとしていたのも気が付かなかった原因の一つだろう。

「女で悪いか! お前もそうだろうが!」

 悪くはない。悪くはないが、この裏切られた気持ちと数ミリの罪悪感はなんだろうか。そして私の顔が真っ赤になっているのに気が付く。とりあえず、彼の呼称を『彼女』に変えた方が良いのかもしれない。

「まー、お前よりももちろん成長してぐぎゃぁ! 肋骨が! 俺の肋骨と胸骨が!」

 ムカついたので彼のまま押し通します。

「でも、天使って性別はないんじゃない?」

 昔読んだ本にそんなことが書いてあったことを思い出す。

「あんま関係ないとは思う。俺の場合はベースが女だったから、そのままなんだろう」

「ベース?」

「ベースっていうのは……」

 と、彼が何かを説明しようとしたとき、ポン、と音がして、ハンドルの上にあったパネルが光った。そこに、頭が少し薄めになって髪が灰色になり始めている、神経質そうな中年男性が映っていた。

「調子はどうだ?」

 その男性が、口を動かすと同時に、音声が流れてきた。テレビ電話のようだ。

「そりゃーもーバンジカイチョー」

「ほほう、万事快調か、ご機嫌だな」

「もちっス。それよりどうしたんスか、課長直々に連絡なんてコンチキおかしいっスよ」

 課長、と彼が言うからには、パネルの向こうにいるのは、彼の上司だろう。それにしては不遜な口の利き方だ。向こうも特に気にしている様子はないので、天国では敬語はないのかもしれない。あるいは課長は彼が敬語を使うのを諦めている可能性もある。

「うむ、実はだな。万事快調のお前宛てに通知が来ている。ついでに私にもだがな」

「俺と課長の知り合いっていうと、ヒゲジイ? それともこないだのお姉ちゃん?」

 ニヒヒと笑って、彼は課長に言った。あまり健全なお店のことではないらしい。

「天警東地課の二課長だ」

 通信の声はさらりと、そう伝えた。その声で、彼の動きが一瞬冷凍庫に放り出されたみたいに停止、身震い、硬直した。

「トーチカって、あ、あの堅物姉ちゃん? な、なんで?」

「それは私が聞きたいな。紙にはこう書いてあるぞ? 『移動法三〇一条第三項の強制履行が、認証コードFA119233の名において、許可以外の状況にて行われた。これについて、コード使用者と公社東亜細亜局使者課長に出頭を願う。釈明あれば、早急に。規定時刻内に釈明が行われない場合は、所定の手続きを持って代行処理をする』だそうだ」

「さあ、何のことザンショ?」

 惚けた声で返そうとしているが、明らかに声が震えている。

「いいや、全くわからんな」

「ですよねー」

 ああ、完全に棒読みだ。

「時に、私は所用で水見をしていたのだが」

「ええ、お仕事ご苦労様です」

 彼がのらりくらりと答えた。と同時に、向こう側で何かが弾ける音がした。それが何かは、相手が可哀想なので、想像しないことにしよう。あえて言えば、血管の切れる音って本当に聞こえるんだな、だ。話の内容は向こうの用語がほとんどで、理解できることは少なかったけど、適当な部下を持つと上司は苦労する、ということは痛いほど理解した。

 スッと大きく息を吸い込む音が聞こえる。

「お前の所業は全部お見通しだ、馬鹿者! 熾天使にでも昇格したつもりか!」

 あまりの怒声に耳鳴りがした。それでも彼は大丈夫のようだ。多分、予想のつく範囲で、彼自身が聞きなれているからだろう。

「課長だって承諾済みじゃないですか、特例第七項っスよ」

「それとこれとはわけが違う! 確かに私は書類も見た! ハンコも押した! だがな、いいか? お前がやっているのは、第二級犯罪だ! 天警に知られんうちにとっと荷物を」

 言い切らないうちに、彼はポチっと青いパネルの端を押した。それが『キャンセル』の表示だったことを私は見逃していない。

「ニヒヒ、ご愁傷様」

 これは悪気ゼロの笑い方だ。天国に胃薬はあるのだろうか、それが問題だ。

「切って良かったの?」

「さあ、良いと思う?」

 聞いた私が悪かったみたいな返答だ。良くないに決まっている。

「ケ・セラ・セラ」

 彼が節をつけて口ずさむ。

「え?」

「なるようになる。俺がいたころは流行ってたのになぁ。ま、大したことじゃない。それより、入り口が近い」

「入り口?」

 漕ぎながら右手で彼が正面を指す。そこには、幅のあまりない縦に伸びた雲があった。目を細めて見ると、点滅をしながら淡く青で光っている部分がある。どうやらあれが天国の入り口、ということらしい。想像よりも低いところにあった。もう少し空を回っていたいところだけど、そうもいかないだろう。

 最後の見納めにと思って、夜でも昼間みたいに明るくて、空の星なんて一度も見上げなかった街を、今、私は死んで見下ろしている。

 不必要な速度で私が感傷に浸っていると、私達の自転車の右側に何かが横付けした。それは大きな黒塗りの車だった。車に詳しくない私でも知っている、超がつく高級車だ。

「よーお」

 中から男の人の声が聞こえた。ウィンドウを開けると、髪の毛が彼よりも少しだけ長いくらいで、私が表現するのもおかしいかもしれないけれど、とても綺麗な人がいた。チェーンジャラジャラの運転手よりは、よほど女性的とも言える。

「何、お前も仕事中?」

「むしろ、僕は君が仕事をしているのを初めて見たよ」

 皮肉と親しみを込めて、彼は返した。

 もしも毎日会っていて、この発言をしたとすれば、私の案内役は相当の怠け者、ということになる。薄々感じてはいたことだけど。

「それが君の? え、ちょっとそれ」

 訝しげに彼は、自転車に座っている私を見た。少し驚いているようだ。彼に向かって私の運転手は、何か言おうと口を広げた。

「いや、いいや、じゃあ、先を急ぐんでね」

 車の男の人は、それに気が付いたのか、軽く手を振ったあと、ウィンドウを閉めて、エンジン音もなく、走り去っていった。行く先は私達と同じだ。

「あの人も、天使?」

「ん、ああ、俺と同僚ってことになるな。班は一班だから、机は遠いが」

「ねえ、ひょっとして、その班分けって、階級で分かれている?」

「ああ? そうだけど」

 嫌な予感がする。変化して実感、そして最終的には確証だ。

「一からスタートして、最後は十二」

「何か?」

「いえ、何もありません」

「な・に・か?」

「私は、どこまでも運が悪いみたい」

「乗せる客の程度にもよるからな。乗車拒否権くらいこっちにだってあるんだぞ?」

「文句言わないでよ」

「言わねぇよ。入るぞ、目を閉じろ!」

 光の中心点に向かって、自転車は全開速度で突入をした。彼の助言がなければ、光で目が眩んでしまったことだろう。目をつぶっていても、それがどれだけ明るいものかわかる。カメラのフラッシュを何倍にも強めた、太陽を直に見つめてしまったような光だ。

「ようこそ、天国の門へ」

 光が収まると、彼が抱きしめた私の手を叩いて合図をした。期待と不安を込めながら、私は両目をゆっくりと開ける。

「うわー」

 天国への入り口は、言葉にならないほど壮観で、見ただけで心が清らかになるような。

 場所じゃ全然ありませんでした。

「おーい、早く五番テーブルにビール!」

「わかってるわよ!」

 白と青のパラソルの下に置かれたテーブルに座って、楽しげにグラスを交わす人々。間を縫って、慌しくジョッキを運ぶウェイターとウェイトレス。お客らしき人物達は、店員らしき人物に注文しては、ガヤガヤと飲み明かしている。地上の光景と比較するのであれば、まるでビアガーデンそのものだった。

「ここが、入り口?」

 通常のビアガーデンと異なるとすれば、その面積があまりに広すぎて、端が見えないということだろう。店員も、一体どこから飲み物を運んで来ているのかわからない。気が付けば現れているのである。ふと気になって後ろを見てみたが、もうそこからは地上を見ることはできなかった。後ろも、無限に広がるビアガーデンになっていたのだ。

「いつも、こんなのなの?」

「ああ、満員御礼大盛況って感じ」

 私が聞きたいのは、天国の門がこんなに活気に溢れていていいのか、ということであって、決して客の入りがどうか、繁盛しているのか、を聞いているのではない。

「何で、飲み物とか?」

 横の人、枝豆食べているんですけど。

「ああ、受付にちょっと時間がかかるんだ」

 ちょっと?

 確実に泥酔していそうなお客さんがちらほら見当たるのですが、それは天国としてはどういった判断なのでしょうか。

「ああ、もう降りても大丈夫」

 そう言って、彼は自転車を降りると、私を子猫のように抱えて地面、ここは雲の上なので雲面とでもいえばいいのかもしれない、に降ろした。柔らかい感触を想像したのだけど、実際にはコンクリートと変わらない感触で、少しがっかりしてしまった。

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