第3話

 壮絶な登場劇から五分が経過して、戦況は未だ変わらず。謎の、とりあえず立ち居振る舞いから男性のようなその人物は、今はにこやかな顔で、ベッドの脇においてあるパイプベッドに座っている。その表情は悪戯好きの子供の笑みと変わらない。その彼は、迎えにやって来たと主張してから、無造作に私が握っていたナイフを取り上げ、カゴに入っていたリンゴの皮をむき始めた。皮が全部繋がっている。意外と器用だ。

 さて、私はどうしてこんなに、自分でも驚くほど冷静なのだろうか。いや、それはただ限界を超えて私が驚きすぎたためだろう。

 彼は、自分に攻撃の意思がないことをそこはかなく伝えたあと、とんでもないことを主張してきたのだ。その部分は、彼の言葉のままにしておこう。その方が、何か、上手く伝わるのかな、と。

 で、肝心の彼の主張とは、

「ああ、俺、天使だから。迎えに来たっていうのは、あれ、天国までの案内役ね」

 というものだった。

 ここまで、誰でも同じことを思うだろう。その思いを、私はギリギリで飲み込んだ。だけど、心の中まではどうしようもない。

 うわ、危ない人だ。

 私が何とか言わずに済んだのは、こういう人にはきっと優しく慎重に扱った方が身のためだろうという、自己判断の元である。何せ、病院の五階の窓に自転車で突っ込んでくるような彼だ、下手に刺激して、明日の朝刊で人々の首を捻らすわけにはいかない。自分が天使だと主張する男、病院の窓から不法侵入、入院中の女子高校生のリンゴを強奪。駄目だ、三面記事にしかならない。

 そうだった。一つ説明が抜けていて、彼は自転車でやって来たのだった。五階の窓から飛び込んで来るのに自転車が必要なのかどうか、私は実験をしたこともないし、必要も感じたことがないのでわからない。銀のメタリックの自転車、要するにマウンテンバイクとは程遠い、前後にカゴがついているママチャリだった。三段変速というのが微妙に涙を誘う。その自転車は、今はドアの近くに鎮座していた。カゴが曲がってしまったのは、自転車にとって災難だったに違いない。

「どこから来たの?」

 まずは会話から試みよう。何事もコミュニケーションが大事だ。

「天使だから、天国だろ」

 なんというムカつく言い方。しかし、それくらいで挫けてはいけない。頑張れ私、目指せ会話のキャッチボール。

 それに、想像する天使とこの人物の共通点が皆無なのも問題だ。実際に裸で来られてもどうしようもないけど、この格好はなんだろうか。まず、上下は黒いスーツ。それも、以前はスーツであっただろうという推測ができるだけで、今は見る影もなく、そこら中に変な切れ込みは入れているわ、ところどころ銀のチェーンがじゃらじゃらと伸びているわ、改造にもほどがある。首からは、分厚いヘッドフォンが垂れ下がっている。黒い髪は中途半端に伸ばした肩に付きそうな長さで、外に跳ねまくっている。こんな人物を天使どころか、変態以外の何と評価すれば良いのだろうか。

「で、そろそろ行こうか」

「え?」

「だから、天国へ」

「馬鹿じゃないの?」

 見事にボールを落としてしまいました。

 この人、色んな意味でホンモノじゃない?

「あーもう、メンドイなー。じゃあどうすれば信じるのよ?」

「無理」

 すみません、いい加減私もキャッチボールを諦めたいです、思い切り顔面にボールをぶつけたい衝動に駆られてしまいました。

「あーやっぱりなー急に天使だって言われても普通認めるっていうか、引くもんなー俺でもそうする。てか警察呼ぶね、確実に、ここに変質者がいますよーきゃー私の貞操がーって即答拒否かよ! ちょっとは考えろよ!」

 ノリ突っ込みか、自称天使さん。それにしても計ったかのように長いフリだった気がする。練習済みか、だとしたら変態確定だ。

「だって、証明できるものがないじゃない」

「確かになーそこは角度二度の微妙なラインっていうか、それでも信じてもらうしかないんだけどなー。仕事放棄して帰るっていうのはできないのよ。失職は嫌だからなー。お金は大事じゃね?」

 だらだらと個人的な理由を述べて、最後にニヒヒと笑った。変態にしては自分のやることにある程度の責任感と信念があるようだ。もっとも、間違ったベクトルにそれらを貫こうとする行為を、人は後ろ指を指して変態と呼ぶ。

「その前に」

「あん?」

「窓、どうするつもり?」

 変態論についての考察はこの辺りで止めておいて、実際的な被害から、彼を追い詰めて立ち去ってもらうことにしよう。それに窓を放置していたら、病院の看護師さんにも、また何かやらかしたと思われるので癪だ。

「あーこれねー、どうするもこうするも」

 黒い見開きタイプのノートを、彼はどこからか取り出した。表紙には見慣れない青い文字が書かれている。英語とも日本語とも違うようだ。全体は革のように光沢と厚みがある。彼の持ち物にしては高そうだ。

「実行者FA119233の名において、干渉法第一条第二項の実行承認、付随する流体時間制御法の発動を命じる。範囲指定開始」

 そのプレートを窓に向けて、その裏表紙に小声でこう呟いた。

「音声確認、実行開始します」

 どこからか女性の声が聞こえた。

 と、床一面に散らばっていたガラス片がキラキラと煌いて、窓枠に吸い付き始めたのだ。まるで、元あった場所を知っているように、床から窓へと大小様々のガラスが昇っていく。自分の居場所を見つけると、ガラス片は互いにくっつき、すぐにひびさえ見えないほどに、完全に、一枚のガラスになった。

「な、な、何それ?」

「あ、これ? 流体時間制御法。基本的に天使が地上の物質に変化を与えちゃいけないっつー、そういう規則があるわけよ」

 平然と彼は私の疑問点を不可解な説明で返した。直すとか、直せるとかじゃなくて、これは『時間的に元に戻した』というんじゃないのだろうか。

「天使が干渉したものは、一定時間天界のルールに従う、これもチョー基本則、いまどき干渉法なんて一次試験でも出ないっつーの」

 持っていたプレートを左に抱えて彼は面倒くさそうに言った。

「で、ちょっとは信じました? お嬢様?」

 最高級に人を馬鹿にした表情で、彼はあっけに取られていた私を見ている。絶対最上級で、嫌なヤツだ。

「譲歩して話だけ聞く」

「譲歩、ね。マアヨゴザンショ」

 不満満点の片言で彼が返す。彼は人をイライラさせるツボを良く心得ているみたいだ。

「それで、何者?」

「ああ、ご紹介が遅れました」

 ごそごそと胸の内ポケットから何かを探している。途中に、バラバラとマチ針が落ちてきたのは、彼特有のジョークだろうか。全く笑えない、意味がないどころか、方向性がわからないジョークだ。

「あったあった」

 彼はそのマチ針の山から一枚の紙を取り出した。うそ臭く丁寧に渡してくるので、仕方なくそれを受け取る。名刺大のそれは、そのまま名刺だった。今までの流れからすると、怪しいものを想像していたけれど、白い下地に黒い印字で、かなりシンプルだった。

「ええ、と、『天界魂取扱公社』?」

 左上に書かれていた所属らしいものを読み上げる。物凄くいかがわしい感じの漢字だ。

「そ、東亜細亜局使者課第十二班所属、略して『天使』、オーケイ?」

「公社って?」

「ああ、こっち側で言うところの公務員ってヤツ。給料安定、リストラなし、残業手当がつかない。悲しき地方公務員」

 とほほ、と人懐っこい笑顔で彼が言った。

 彼が公務員?

 出会って最大のジョークだ。

「あ、その顔、信じてねぇな? 大変なんだぞ、試験をパスするのは! 一年間も予備校に通って、毎日朝から晩まで刑法民法行政法詰め込んで、寝るときは『これさえ覚えておけば地方公務員第一種ラクラク突破CD 一般常識編』で睡眠学習してだ、やっとのことで八時間にも及ぶ第一次試験を乗り越えて、二次面接も営業スマイルを通して受かったんだ。職務二日後に局長のヅラ取って減給になったけどな。あれは傑作だった。ばれてないと思うかフツー。浮いてるんだもんなー、生え際がさー」

 天使がどうとか言うよりも、やたらと現実的な話だ。睡眠学習を勉強と呼ぶ認識については追求しないでおこう。ついでに自らのアイデンティティとプライドを傷つけられた局長は、きっと一週間くらい家に引きこもっただろう。家族に相手にされず、唯一の話し相手は飼い犬のチワワだけ。

「この、記号みたいのは?」

 私は、名刺の中央にある、本来なら名前が書いている箇所の部分を指差した。そこには、『FA119233』と記されている。

「これはコード、天国での呼び名ってヤツ」

「本名は?」

 呼び名なら、名前が別にあるのだろう。

「さあてね」

 彼は、伸びた髪を右手でかき回して、『誤魔化しています』というポーズをした。そうされると非常に気になるが、今はさほど問題になることではないと割り切っておこう。

「それで、天使が何の用なの?」

「天使の仕事は唯一つ、地上をチェックして、死人の魂を天国まで運ぶこと」

 妙に誇らしげに彼が言った。

「死人、って誰のこと?」

 その言葉が引っかかったので、私は素直に疑問を口に出した。

「死んだじゃん」

 軽い口調で、それに彼が答える。当たり前のことを当たり前に言うような口ぶりだった。

「誰が?」

「あんた」

「いつ?」

「たった今」

「え、だって」

 いきなり何を言っているんだ、彼は。早速変態に逆戻りか。今でも変態っぷりは拭えないけど。現に私はこうして生きているし、もちろん呼吸もしている、と思うし、それに死ぬ原因なんて、どこにもないはずなのに。

「あーたまにいるんだよなーこうやって自分が死んだことに気が付かないヤツ」

「私、本当に死んだの?」

「ああ、そりゃもうザックリと見事なまでに手首を切って」

 ひらひらと、置いてあったナイフを掴んで、プスっと食べかけのリンゴに刺した。

「私、そんなこと」

 していない、と言いかけて、そこで声が止まった。そう、私は、自分の手首に自分でナイフを当てて、自分で死のうとしていたんじゃないのか。

「突発的な事故に多いんだけど、ブラッティドアウトってヤツ」

「ぶらってぃど、あうと?」

「選択的記憶消去、痛みや恐怖を一時的に忘れようと脳が消去命令を出すんだと。こうなると、自分が死んだことに気が付かないから、俺らが迎えに来てもシカトはするわ、あげくの果てにはお前なんて帰れとか、馬鹿じゃないのとか言うわけだ」

 最後のは私のことを言っているだろうか。それでも、まともな判断力を持っていれば、この発言は当たり前だと思う。

「第一、俺の姿自体、死んだ人間か、死にかけの人間にしか見えないの。まれに平然と見える人間もいるみたいだけど、そんなのはまれもまれ、普通の人間じゃない。よってあんたはもう死んだってこと」

 私は幽体離脱みたいなものは感じていない。一度も体験したことがないから、当然かもしれない。でも、もし私が死んでいるとしたら、体の方はどうなっているのだろう。

「ああ、えーと、本体の方はあんたには見えないようにしている。それとも見たい? 血みどろの自分。あんま気分が良くないと思うけどな」

「……止めとく」

「それが賢明だな。で、理解したか?」

「うん」

「随分と切り替えが早いな」

「そういう性格なの」

「ふーん、ま、簡単だからいいけどな。で、どうする? シカトして浮遊霊になるっていう方法もあるけど、あんま良い生活送れないからお勧めしないねー。今も、あの陰険オヤジの『ああ、素直に天国に行けば良かった』っていう叫びが聞こえてきそうだ」

 およよ、と切ない表情の演技をした。

 選択権は私にある、ということだろう。だけど、その浮遊霊の選択肢を何ゆえかはわからないが、お勧めはしないらしい。天国に連れて行くことが彼の点数稼ぎでなければ、よほど嫌なことが待っているのだろう。少しだけ無料で色んな場所行き放題、と思った私の考えは間違っているのだろうか。

「天国に行けるの? 地獄じゃなくて?」

 自殺、その選択をした人間は天国に行けない、と聞いたことがある。

「一応な、死んだ人間はもれなく天国に行けるさ、地獄なんていうものはどこにもない」

 地獄はない、つまりは、良く聞くような血の池地獄とか、針の山地獄とか、そういうものはないということなのだろうか。

「ただ、天国での扱いは地上の行い次第だ、ってこと忘れるなよ。天国はあくまで死人が集う場所で、楽園じゃない」

「うん、それは期待しない。それと」

「生前関係を持った人間に、向こうで会うことはない。恋人でも親友でも仇敵でも、それだけは無理な相談だ。いや、会えるかもしれないが、『会った』と認識できない。それがルールだ。残念だがそれを希望しているのなら諦めてくれ」

「あ」

 彼は、初めて見せたほんの少しだけ悲しそうな顔で、私の心を読み取って、それでも屹然と言葉を放った。やってきたタイミングの良さといい、彼は私がどうしてここにいるのか、どうして死にたいと思ったのか、どちらも知っているのだろう。それでも、一番聞きたくなかった言葉を出さなかったのは、彼なりの親切心からだろうか。

「さあ、どっちにする?」

「行く、天国に。連れて行って」

 私は、そう決心をした。もう後には引けなくなってしまっているのだ。彼の言う通り、向こうで皆に会えなくても。

「そうこなくっちゃな」

 パンパンと嬉しそうに右手で左に持っているプレートを叩いた。

「私はどうすればいいの?」

「ちょっち待ち」

 さっき窓を戻すのに使ったプレートをまた取り出して、開いて見せた。中は白紙だった。てっきり、死亡証明書とか、契約書とかそういうものが入っているものだと思っていた私は、少し拍子抜けしてしまった。

「はい、ここに手をつけて」

「あ、え?」

 拒絶する間も与えず、彼は私の包帯だらけの右手首を掴んで、私の手の平をプレートに押し付けた。すると、ふにゃんとプレートが手の形に合わせてへこみだした。冷たい粘土のような感触がする。このまま埋まっていきそうで、不快感は全くない。

「オートスキャンを開始します」

「え?」

 プレートがいきなり話しだしたのだ。さっきの窓を戻したときに流れたのもここからだろう。機械の声か、滑らかな女性の声だった。不安に駆られて彼の顔を見るが、何も言いそうにない。相変わらずニヒヒ、と笑みを浮かべている。彼はきっと楽しいことは独り占めするタイプだ。

「ほいっと」

 両手を引いて、私の手を粘土板から離す。手跡はしっかりとついていて、その部分だけは明るい緑色に光っていた。

「スキャン終了、認識は正常、二種免許以上の所有者は、コードを述べなさい」

「FA119233」

「音声を確認、音声登録情報と照合完了、コード認証。移動法三〇一条第三項に従い、認証者の保護の下、対象者をグラビティクリアします」

「了承した」

 もったいぶった声で機械の音声とやり取りをして、パタン、と彼はプレートを閉じた。

「え、え、えええ?」

 彼の言葉とともに私の体が急に軽くなった。本当に冗談でもなく地に足がつかない。私の体は重力を無視して、ベッドから十センチほど浮いているのだ。

「重力制御から解放して、こっち側の法則に従うようにしたから。いやーなんつーの、ホントは俺の脚力なら行けるんだけどさ、一応予備っていうか、体重制限っていうか」

 ニヤニヤとムカつく笑みで、彼は色んなことを言った。その後半部分は非常に聞き捨てならない台詞だが、酔ってしまいそうなふわふわ感がその気分を飛ばしてしまった。天にも昇る心地良さというものかもしれない、当然比喩として、だけど。

「じゃ、行こうか」

 どうすれば体を自由に動かすことができるのか苦心している私の襟を、まるで猫を捕まえるかのように掴んだ。

「よいせ、と」

 そして私は彼の後ろに強引に座らされた。何だ、後ろは人が乗るためのカゴだったのか。幼稚園児が乗るみたいなカゴは、私には窮屈すぎる。そもそも、自転車って二人乗り良いんだっけ?

「本当に、この自転車で?」

「おう、マイバイクに不可能はない!」

「天使なら、翼とか、そういうものは?」

「下級役人をなめるなよ!」

「せめて車とか」

 私が言った言葉で、彼の動きがはたと止まった。そこで初めて、彼が困ったような表情を浮かべた。具体的には、なにやらゴニョゴニョと口ごもっている。特に理由もなく、勝ちを取った気分だ。

「もしかして、車買えないくらいに貧乏?」

 ここでは勝者による敗者へのいたぶりが欠かせない。敗者にかける言葉しか存在しないのだ。散々人を小馬鹿にした恨みをその軽薄な身に受けてもらおう。

「……ない」

「え、何? 良く聞こえない」

 いたぶりタイムスタート、って何を盛り上がっているんだろう。どうもこの短時間で相手の妙なペースに乗せられているようだ。

「免許、ない」

 ぼそっと彼が呟いた。

「はい?」

「取れなかった、筆記で落ちた」

 沈黙が訪れる。それも酷く重い沈黙だ。彼の仕業で私の体は軽くなっているが、それでも体が地面に沈み込んでしまいそうになるほど、彼の周りの空気が重い。

 ここは、笑うところか? それとも慰めるところか? 凄いしょぼくれているし。もう何も言ってくれるな、慰めなど我には皆無だ、と背中で語っている。そこまで彼が無言の重圧をかけてくるのなら仕方がない。私もそこまで鬼じゃない。で、せっかくなので、

「あははは!」

 と全力で声高らかに笑ってあげた。なんて思いやりがあるんだろうか。

「お前、見かけによらず、意地が悪いのな」

 ギリギリと悲鳴を上げそうなほどにぎこちなく、彼は首を回してこちらを向いた。悲痛な笑顔ともに、目からは涙が溢れそうになっている。本気できつい言葉だったらしい。

 笑い飛ばして欲しかったんじゃないの。まあ、反応としては予想通りだけど。

 彼は正面を向いて、ハンドルを強く握り、ペダルに両足をかける。

「それじゃ出発進行、腕をしっかり回して、振り落とされんなよ!」

 格好つけて彼が言った。うん、なかなか様になっているように思えなくてもないけど、

「乗っているのはママチャリ」

 思わず本音が出てしまった。

「その言葉、あとで後悔するなよ!」

 はいはい、わかりましたよ。

「プリセットデータ、オン、計算開始」

 彼の言葉に合わせて、ヴィーンとハンドルの前が機械っぽく鳴った。そして、右のハンドルの上に、青いパネルが現れた。ピコンピコンと、光が点滅する。このママチャリ、ハイテク仕様か。スイッチ一つでミサイルとか、いや、性格上本当に実装していそうだ。

「ミュージックスタート」

 首にかけたヘッドフォンから、軽快な音が跳ねだした。グルーヴィというのかもしれないが、とにかく、底抜けに明るい音楽であることは間違いない。私が乗っているので、直接耳に掛けないのだろう。

「それでは搭乗員の皆さん、天国行きの特別便、ナイトフライトをお楽しみください」

 おどけて、彼の場合どこまでが本気かわからないが、そう言うと彼はハンドルを強く握った。前輪が上昇し始める。本当に自転車ごと浮き始めたのだ。

 それから彼の操るまま、自転車は病室を一周して、彼が窓を丁寧に開けてから、彼の言う通り夜間飛行を始めたのである。

 それは、綺麗な三日月が出て、雲も少ない、飛行日和な夜だった。

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