第2話
チクタク、チクタク。
壁に掛けられた丸い時計は規則正しく世界を刻んでいく。誰が笑っていても、誰が泣いていても、無関係に進んでいく。
自己主張しないようで自分だけがいつも正確であるかのように思わせている。誰にも優しくない。その時計を私は眺めている。大嫌いな時計が、私を冷静に見下ろし、見下している。世界から小さく切り取られたこのベッドからお前は永遠に抜け出せない、と白い彼がせせら笑っている。
部屋の片隅に金魚鉢が置かれている。金魚も、水も入っていない金魚鉢だ。
タオルケットを腰まで掛けて、私は天井を見つめる。伸ばした体が逆に窮屈で、私はベッドの上で体育座りをした。金魚鉢に入れられた金魚のように、体を小さく丸める。清潔感を出すためか、部屋にある毛布やシーツやベッドのアルミは真っ白で、お前は汚いから早くここから出ていけと言われているみたいだ。ベッドのヘッドボードには私の名前が書いてある。名前に意味はない。意味があるのは、名前を呼んでくれる存在だ。
世界に一人きり、私は座り込む。
ベッドにうずくまる自分は嫌いだ。
ベッドにうずくまらない自分も嫌いだ。
こんな風になってしまったのは、一体誰のせいだろう。
誰かのせいにしたがる自分は嫌いだ。
全部自分のせいだから自分が嫌いだ。
「さあ、今日のゲストですが、今日はなんと、若い子達に密かな人気を集めている、QQLのナルさんです、どうぞー」
ベッド脇にたった一つ置かれた黒いラジオは、いつものように陽気な声で喋っている。
「よろしくお願いします」
若々しい声だ。私とそんなに変わらない年齢なのだろうか。私が何歳だって、誰にもどうでも良いことなんだろうけど。年齢も、時間が勝手に決め付けたものに過ぎないのだから。
「ナルさんとは初めましてだけど、可愛いですね。ユーリ君の話からもっと年上だと思っていましたよ。これでテレビに出ない、っていうのはもったいないんじゃないかな」
「ありがとうございます、あがり症なんです」
「だからテレビに出ないでラジオだけ?」
「はい、その方が歌もしっかり聴いてもらえると思いますから」
「今日はユーリ君、来ないのかな」
「遅刻しています」
「やれやれ、先週スタジオでもあったけど、相変わらずだね」
「本当に、ごめんなさい」
「きっと放送中には間に合うから安心してね、リスナーのみんな。それにしても、今ここで僕だけが独り占めっていうのはねぇ。いやいや、リスナーの皆さん、変態を見るような目で聞かないでね」
「大丈夫ですよ」
もう駄目だ。私はもう限界に来ている。限界? 違う。最初から、私はこうなる予定だったんだ。あのとき、私が大丈夫だったのは、単なる偶然で、本当は、きっと私が……
「だといいね、最近は信用がないみたいだから。ナルさんも僕が変態じゃないことを証明してくださいよ」
「そうですよ、皆さん。初めて会ったとき、街角でアクセサリーを売っている人かと思ったくらいでしたから」
「それって、メチャメチャ胡散臭いってことじゃないですか」
憂鬱にさせているのは楽しげなラジオじゃなくて、手を差し伸べてくれない世界じゃなくて、手を差し伸べて、明るくして欲しいって他人に思ってしまう私のせいで、それだけで、もうどうしようもない気分にさせる。
もう諦めよう。
考えるのも、悩むのも、願うのも、今日で終わりにしよう。
ベッドの横にある引き出しを開ける。
「さっきのもっと年寄りだと思った、って言った仕返しです」
「言ってないよ、そんなこと」
引き出しの中には、備え付けの果物ナイフがある。質素で、簡素な、安物のナイフは、私の安っぽい命を渡すには丁度良いはず。
「女の子に年齢の話はタブーなんです」
「肝に銘じておこう。ああ、時間がないみたいだ。あとにハガキを読んでもらうコーナーもあるしね」
ナイフのカバーを外す。ナイフは照明を受けて、部屋を映す。私は自分の顔を自分で見るのが嫌だったから、目を閉じたままにしておいた。瞼の裏では、幾度となく繰り返された光景がフラッシュバックしている。意識の途切れるあの瞬間、ほんの少しだけ見えた黒い影が、私を連れて去っていく死神になるのだろう。掴んだ右手を左腕に乗せた。右手に力を込めて、左の手首に触れる。もう、目を開けることはない。これで、全部、最後。
「まずは一曲目。キャッチーでハッピーなQQLの新曲で、万能ガールはこい……」
電波が乱れたのか、DJの声は砂嵐のような音にかき消されてしまった。私のために放送するのが嫌で、ラジオがストライキを起こしたのだ。
そこで、私の手が止まった。ナイフは、手首の上で静かに呼吸をしている。ほんの少しの間、その隙間が私の決心を鈍らせたのだ。
世界が変わったのはそのときだ。
ガシャンと、盛大な音がして、何かが部屋に飛び込んできた。正確に表現すれば、それは、思い切り窓をぶち破いて、もちろんカギがかかっているから、文字通りガラスを粉砕しながら、私の個室に入って来たのだ。今はゴロゴロと床を転がっている、見たところ黒い人型の物体が、である。
体は大丈夫だろうかとか、そもそもここは五階じゃないのだろうかとかそういう基本的な疑問は一旦置いておく。
これ、本当に人間?
ガラスが降りしきる部屋の中で、それは小さく頭を抱えている。窓から突っ込んできたのだから、それくらいは当然だろう。むしろ流血していないように見えるのが奇跡ではないのか。それは周りをキョロキョロと観察した後、私に気が付いた様子で、飛び上がって服に残るガラスを両手に振り払っていた。
何が今更なのか全くわからないけど、とにかく、これだけ大事をやってのけた上で、それはニコリと満面の笑みでお辞儀をした。
「あ、ども、迎えにやって来ました」
そして、それが私とこの奇妙な人物との出会いの瞬間でもあった。
何だか、頭が痛い。
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