十月最後の水曜日:台風

 今年の夏は台風が来てないって、みんな言ってた。そんなことなかったんだけど? 何度も船が欠航したし、そのたびに商店にはモノがなくなった。新聞も郵便もまとめて数日分やって来て、不便だなーって思った。


 だけど。


「ごめんなさい、あたしが間違っておりました……」


 台風は島に接近したことはあった。でも上陸してはいなかった。ここに横たわる差は歴然。島で過ごす、初めての台風の夜。その猛烈さたるや、想像を超えていた。


 沖縄の西の海上をかすめた台風は、台湾に向かうものと予想されていた。それがどういう具合か、気まぐれを起こして、東シナ海を北上してきた。勢力は、だんだんと強まってきてたらしい。


 あたしがその情報を得たのは、今日の午後のことだ。県の教育委員会が、わざわざ注意を促す電話とメールを寄越した。午後を休校にしてもいいよ、みたいな。で、実際、五時間目ナシの短縮日程で、子どもたちを家に帰した。家が遠い子は、男の先生たちが一緒に歩いて帰った。


 教員も早めに帰っていいってことになって、あたしは、ここぞとばかりに買い物に行った。漁協スーパーで保存食系を買い込んどかなきゃいけない。気付いたら閉店時刻を過ぎてる、ってことが、いまだに多いから。強風を掻き分けるみたいにして、スーパーへ向かった。


「えーっ、何もないーっ!?」


 スーパーの中、食品コーナーは、がらんとしていた。船便は、学校より一足先に止まっちゃったらしくて。そういえば、そうだったわ。本土に出張中の校長先生、戻って来ることができなかったんだもんね。奥さんも校長先生の出張について行ってる。晩ごはん、助けを求めることができないな……。


 とりあえずフルーツ缶とかホットケーキミックスとか買ってみた。卵も牛乳もないからホットケーキ作れないことに気付いた。マヌケ。


 歩いて帰りながら見上げたら、空がすごい色をしてた。紫色みたいな妖しい光をまとった、真っ黒な雲。魔王さまでも降臨するんじゃないかって感じに、暗い空が渦巻いている。


 風が不気味に唸っていた。電線が風に吹かれて鳴らす音だった。波が砕ける音もすごい。山が騒ぐ音もすごい。


 家に帰り着くころ、大粒の雨が降り始めた。上から下に降るんじゃなくて、風に乗った水の塊がぶつかってくる。窓ガラスが、ばばばばばばっ、と鳴っている。


「この家、壊れないよね?」


 あたしが住んでる教員住宅は、二十三歳新卒のあたしより年上。てか、マツモト先生より年上。


 この夏、トイレが和式ポットンじゃなくなった。「半水洗」っていう、なんちゃって洋式水洗。地面の下には相変わらずポットンなタンクが埋まってる。地上のトイレは、一応、洋式便座の水洗風になってる。この「半水洗」が、島のトイレのスタンダード。今日みたいに風の強い日は、地下のタンクから匂ってくる。


 で、とにかく、アラサー教員住宅どのは、さっきからガタガタぴしぴし鳴ったり震えたりしてるわけで。天井からぶら下がってる電球の傘が、ゆっくりグラグラ揺れてたりもしてるわけで。


 怖い。


 ばこん! と、窓ガラスが鳴った。ビクッとして、窓に駆け寄って、外を見てみる。雨で白っぽくかすむ中、窓の下に転がってるのは、たぶんタコツボ。どこから飛んで来たんだろう? 窓ガラス、割れなくてよかった。


 と、そのとき、ビビーッと玄関のブザーが叫んだ。こんな天気の日に、誰? どんどんどん、と戸を叩く音。あたしは恐る恐る玄関に向かった。すりガラス越しに、黒っぽい服装のシルエットがある。


 この影の形……!


 あたしは急いで玄関の戸を開けた。予想どおり、マツモト先生が立っていた。漁師さんが着る厚手のカッパみたいなのを身に付けてる。海から上がってきたみたいに、びしょびしょ。


「マ、マツモト先生……な、なんで?」


 マツモト先生は、玄関の内側に滑り込んできた。戸を閉める。マツモト先生の足下に、あっという間に水たまりができた。


「さっき、妹から電話のあったとです。今日、今からあいつは夜勤で、病院のほうに行ったとばってん、『タカハシ先生の家の明かりが見えたけん、雨戸が開いたままのごたる』っち言いよった。来てみたら、案の定じゃなかですか。雨戸ば閉めんば、危なかです」


 マツモト先生は、カッパの上着を脱いだ。内側に背負ってたリュックサックを、上がりかまちに下ろす。


「こぃに母親からの差し入れが入っとります。食べ物、買いそびれたとでしょう? 漁協スーパーのおばちゃんが、lineでうちの母親に知らせてくれたとです」


 マツモト先生は、再びカッパを着て、しっかりと前を閉めた。玄関から出ようとする後ろ姿。あたしはハッとして、慌ててマツモト先生を呼び止めた。


「あ、あのあのあのっ、どこ行くんですかっ!?」

「そぃけん、雨戸ば閉めてきます」

「あたしもやります!」

「危なかけん、ダメです」

「で、でもっ!」

「家の中におってください」


 マツモト先生は、さっさと玄関を出ていった。あたしは取り残された。


 情けなくなった。あたしは何もできない。台風の日には雨戸を閉めるっていう当然のことすら、できてない。


「また面倒をかけちゃってる……」


 教員住宅は、やたら窓が多い。六帖の和室が三つあって、台所も六帖くらいあって、旧式のお風呂も半水洗のトイレも広くて、全部の方角に窓がついてて、分厚い木の雨戸がついてる。


 マツモト先生は、スムーズに滑らない雨戸をガリガリみしみし鳴らしながら、一つずつ閉めていった。雨戸が閉まるごとに、風と波のうなる音が遠ざかる。十分くらいかかった。雨と風の中で作業してくれたマツモト先生は、ずぶ濡れの汗だくで、玄関に戻ってきた。


「すみませんっ! ほんっとに、ありがとうございます!」


 マツモト先生は、カッパのフードを下ろして、眉間にしわを刻んだ。


「どうして泣きよるとですか?」

「え……?」


 言われて初めて気付いた。なんか息苦しいと思ってたら、あたし、鼻をぐじぐじさせてたんだ。あたしは泣いていた。


「台風、怖かですか?」

「……はい……」

「そぃなら……今日、おれ、ここにおって、よかですか? えっと……何も、変なことはせんけん」

「あっ、いえ、あの……いてください、ここに……」


 玄関の外が、光った。稲光だ。次の瞬間。轟音と、地響き。家の中のふすまが、びりびりと震えた。


「……どこかに落ちたな」


 マツモト先生がつぶやいた。ほんと、ヤバい。こんな中で一人でなんかいられない。


「とにかく、上がってください!」


 情けないかもしれないんだけど、恋のドキドキより、恐怖のビクビクのほうが強かった。マツモト先生は玄関でカッパを脱いで、リュックサックを抱えて、家に上がった。


 シャワーを浴びるより先に、マツモト先生は、カセットコンロや懐中電灯があることを確認した。必要そうなものを台所のテーブルの上に確保する。ケータイやスマホも、今のうちに充電しておく。電線、いつ切れてもおかしくない状況だったから。


 マツモト先生はシャワーを浴びてきた。着替えはリュックサックの中に入ってた。あたしはその間に、夕食の準備をした。といっても、マツモト先生のおかあさんが作ってくださった料理がメイン。あたしはお味噌汁を作り足して、お茶を淹れただけ。


 マツモト先生は、Tシャツとジャージのいつもの格好でテーブルに着きながら、言い訳をした。


「泊まるつもりの装備で来てしまって、図々しくて、すみません。最初からおれの家に来てもらうごと、しておけばよかった。こげん荒れてきたら、もう動けんし」


「いえ……来てもらえて、助かりました。マツモト先生のおかあさんは、大丈夫ですか?」


「ここ数日、親父も船ば出せんで家におるけん、元気にケンカしよりますよ。メーは、今日は寝られんやろうけん、キツかろうな。病棟の電源が落ちてしまったら、患者さんたち、たまがるけん」


 たまがるって、びっくりするって意味だったっけ。


 黙ってると、雨戸越しに、風と雨の音が聞こえてくる。壁や天井は、たびたび、細かく震えて揺れる。不気味。会話が、というか、しゃべる声がほしい。とにかく口を開いてみたら、同じタイミングで、マツモト先生も何かを言いかけた。


「あ、どうぞマツモト先生、話してください」

「え? いや、タカハシ先生こそ」

「あたしは別に何か話そうとしたわけじゃなくて、とりあえず声出したかっただけで」

「はい?」

「……どっちかが何かしゃべってないと、外の音が聞こえてきて、イヤで……」


 くくっ、と、マツモト先生が笑った。


「おもしろか、タカハシ先生」

「おもしろいですか……」

「怖かなら、寝るときは音楽でも聴けばよか」

「あ、はぁ……って、イヤフォン壊れてるんだった!」

「接触不良なら、すぐ直せますよ」

「ほんとですか?」


 マツモト先生は、笑顔のまま、うなずいた。


「シャワーの水漏れも、今度、昼間に直しに来ます。あのシャワー、おれが付けたとですよ。タカハシ先生が赴任してくる直前に」


「そ、そうだったんですか!? シャワーなかったんですか、この家?」


「去年まで、三年間かな、空き家になっとったとです。掃除、大変やったとですよ。畳もふすまは、当然、やり直しました。押し入れの床が腐っとって、全部、貼り替えたし。台所のシンクも、新しか物ば買うてきて、造り付けたとです」


 確かに、家そのものは古いけど、あちこち手を入れてある。特に、台所は、古民家を活かしたカフェみたいに、オシャレ且つ手作り感満載。もしかして、だけど。


「そういうの、全部、マツモト先生がやってくださったんですか?」


 マツモト先生は、短い髪の頭を掻きながら、ちょっと斜を向いた。


「全部ではなかです。ほかの先生やら子どもたちやらに、手伝ってもらいました」

「で、でも、ほとんどやってくださったんでしょ? だって、こんなプロみたいに完璧なこと、マツモト先生しかできないじゃないですか」


 マツモト先生の顔が赤かった。飲み会でビール飲んでるときより赤かった。


「冷やかされたとですよ。若っか女の先生が来るけん、張り切っとる。って。そげんつもりは、なかったばってん……そぃけど、タカハシ先生ば初めて見たとき、みじょかったけん、なんか、ホッとした……」


 みじょか、っていうのは方言で。かわいい、っていう意味で。


 何言ってるんですか、マツモト先生! ホッとしたって、どういう意味!? てか、あたし来たときから、噂の種があったってこと? 発芽してたってこと? つまり、マツモト先生は噂の相手が残念な人じゃなくてホッとしたってこと?


 何それ、もう……。


 一つ、理解した。運命ってのは、たぶんある。自分で選ぶんじゃなくて、周囲の環境が用意してくれちゃう道筋。そういうのは、絶対に、ある。


 あたしは、用意された運命の道を歩きながら、今、感じてる。あたしはマツモト先生のことが好きだ。マツモト先生も、きっと、あたしのことが好きだ。


 形ばっかりの進展なんて、なくていい。まだ、いらない。


 マツモト先生は礼儀正しくて、あたしたちは別々の部屋に布団を敷いて寝た。でも、ふすまを開けておいたから、あたしはマツモト先生の寝顔をこっそり見た。目を閉じてたら、意外とまつげが長くて、寝顔は幼かった。


 ちょっと幸せな気分になった。直してもらったイヤフォンを耳に入れたまま、あたしは眠りに就いた。

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