時計屋  (自由、時計)1733

 なぜだろう。僕は憶えている。小さい頃の、古ぼけた時計屋のおじいさんとの会話を。

 僕の故郷は田んぼはそこそこあったが、マンションの並ぶ田舎とも都会とも言えない場所だ。そこで僕は生まれ、小学校卒業までその町にいた。そのあとは、弟も大きくなってきたからと、少し離れた都会へ引っ越した。

 その故郷には時計屋など無かった。仮にあったとしても、古くはなく、大きなデパート内に付属した時計修理屋であろう。だからあの場所とあの会話が妙に現実感がなく、時には夢だったんじゃないかとも思えた。

 しかし先週僕は彼女と行った旅行先で、デジャブを体験した。初めて行く旅行先のはずなのに、古い廃墟の並ぶ通りを見て、唖然とした。同時にあの時計屋の記憶が現実味を帯びたものとなった。僕は地図も見ずにその通りを歩いていった。彼女は初めてじゃないのか、と怪しい目線を送ってきたが、それにどう答えようも難しく、返事を曖昧にあぁ、とか言った。

 たどり着いた場所はまさにその時計屋だった。廃墟にはなっておらず、僕と歳の近そうな若者が奥に見えた。

 その若者は僕たちを特に珍しそうには見なかった。観光地なので、当然と言えば当然だが、店内どころか通りにも人という人はあまり見かけなかったので、客は珍しいはずだった。

 彼女ははじめ僕とその若者とを変わり者のように見比べていたが、やがて可愛い時計を見つけたと、店の角まで早歩きで行ってしまった。


 *


 そのおじいさんとの会話は、極端に言うと、不気味だった。まだ物心つく前だったからかもしれない。ほかの誰ともしたことのない、小難しい話を彼はしたのだ。

「時計、というのはね。とても、不自由なんだよ」

 彼が最初に僕に発した言葉だった。車椅子を初めて見た僕は、じっとそれを見つめ、言葉を発さなかった。

「私も確かに不自由だがね。時計はもっと不自由だよ。ここにいる時計は、みんな。私のように動けない、というのもあるがね。そんな程度じゃあない。なんなら一ミリとも動かない物体のほうが、自由だよ。動くことを覚えてしまった時計なのに、同じ動きしかまるでできない。しかも、休むことなくね。ほら、坊ちゃんなら腕を前にやったり後ろにやったりできる。

 しかし、時計はね、死ぬまで同じ速度で前に動かし続けるんだよ。どういう意味か、わかるかい? まあ、なんだろうね、私の論は極端だろうが、拷問を受けているようなもんと思うんだよ。永遠に同じことだけ繰り返す。それがどれだけ不自由なことか……」

 勿論話を聞いている時の僕は、意味なんてさっぱり分からなかった。ただ、時計って同じことしかできない、それは悪いこと、という意味だけを受け取った。

 中学校に入って僕はある日初めてその意味が分かった。自分の意志で何かをしているわけじゃなく、ただひたすら同じことをすることがどれだけ苦しいだろうか、と考えた。しかし、それだけだった。僕がその意味を深く突き止めようとしたのもその日だけだった。


 *


 若者は店の奥で、座ったまま僕を見つめていた。あのおじいさんの孫だろうか。少し好奇心が沸いた。僕は彼に近寄り、独り言のように言ってみた。

「時計って、不自由ですよね」

 しかし彼の口からは思わぬ言葉が返ってきた。

「いえ、自由ですよ」

「そうなんですか」僕はなるべく驚きを隠しながら平然と答えた。

「時計ほど自由な機械はありません。今の時代、色々な人が身に着けている時計ですが、種類も多様です。色も多様。大きさだって、腕時計から時計台まであります。大きさや形が違えば、使う電池も違う。針だって自由に変えられる。数字だって、普通の数字からローマ数字、模様、実に自由に工夫が施される。ほら、あの赤いよくありそうな時計だって、周りは金で飾られていて、伝統工芸のような雰囲気をもたらしているでしょう。

 時計は、人間のように多種多様であり、それぞれに独特の良さがあるのです。作られたあとでも、変えることができる。こんなに自由な機械が、時計以外にあるでしょうか」

 彼女がこちらへ戻ってきた。買う時計を決めたのだろうか。

「ううん、買わない。家にはもう十分あるでしょ」

「そっか」

 僕はぎこちなかった。買えば少しは、時計が自由になるのではないかと、頭の淵で考えながら、僕たちはその店を出た。

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