10時限目

「あいつ、どうやって屋上から逃げたのかしら。ねぇ、ねぇったら!」

「だーもう! そんなの私にもさっぱりよ。血はおろか、足跡すらどこにもないなんて。一体どんなトリックを使ったのよ、内倉」


 忙しなく点滅する街灯が、うごめく影を照らし出す。人通りの少ない河道では、その耳障りな声がよく響く。


(――たあげっとヲ確認、標的約100めえとる先――)


 合図に従って歩みを止める。土埃をまとった上履きから、ぴょこぴょことアイスが肩まで這い上る。どうやらここがお気に入りの場所らしい。


 沸々と煮えくり返る怒りが、とめどなくアイスに流れ込んでいく。ハリネズミのように全身を逆立てて、アイスはついにおぼろげな光輪を放った。


(――えねるぎいノ補給ガ完了シマシタ、御利用ノ際ニハぱすわあどヲ入力シテ下サイ――)

「パスワード? さっき変身したときにはそんなの要らなかったような……。まぁ、いいか。きっと誤作動とかそんなのだよね」


 返事はない。でも今の僕には、その沈黙が寂しい反面、嬉しくもあった。


 原理はわからないけど、僕はあのとき確かにアイスと一つになった。とても歪で、ひどく不安定、けど妙に心地よいその感覚が、僕にはどこか懐かしく思えたんだ。


 僕の母は不器用なくせしてお菓子作りが趣味だった。僕や父はそれに付き合わされて、幾度となく辛い目に遭ったものだけど、彼女が得意にしていたアイシングクッキーは、家族みんなで仲睦まじく頬張っていた。あの爽やかな甘さが僕は大好きだった。


「……アイシング。今から僕は、アイスになる」

(――ぱすわあどヲ「アイシング」デ設定シマシタ――)


 渦巻く泡沫を振り払って、変貌を遂げた装いを露わにする。アイスの言うエネルギーの消費を考慮するなら、目的は早急に果たすべきだろう。


「借りっぱなしじゃ申し訳ないからね。ちゃんと返してあげないと、僕らの受けたあらゆる痛みを」


 静かに瞼を閉じて、皮膚に刻まれた戦慄の記憶を呼び起こす。額の打撲、脚の切り傷、そして背中に刺された数多の矢じり。どれも形はないけれど、僕の脳裏にはくっきりと焼き付いている。


「むせ返るような畏怖の味を」


 はたと見開かれた僕の双眸が、薄明を引き裂く一陣の竜巻を捉えた。

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