第31話 ×殺し(2)

「……風が強いな」


 バイトへと向かう道中、住宅街の中を歩きながら僕はそう独りごちる。


 そこかしこで庭先の木々が枝をしならせ、あらぬ方向へと身を揺らせていた。

 その様子を視界の端に入れつつ、今朝のニュースが台風の接近を知らせていたことを朧気ながらも思い出す。

 あいにく詳細は聞いていなかったのだが、その嵐が直にこの辺りも通過していくのだろうか。


 どことなく湿り気を帯びた重たい風が不規則に髪を乱していく。

 眼前をちらつく髪の毛がうっとうしい。

 後ろ髪はまだしも、前髪はそろそろ切り時かもしれない。

 しかし美容室などにお世話になるほどの長さでもないわけで。


「……明日にでも頼んでみるか」


 誰にかというと――妹に、だ。


 妹はああ見えて(と言ったら怒られるかもしれないが)手先は器用で、毛先を整えるくらいのカットなら頼めば小言を並べながらもいつも手際よくやってくれる。

 まあその代わりに報酬を求められるわけだが、だいたいが風呂掃除の当番を変わってくれだとかコンビニスイーツを奢ってくれだとか、そんな可愛いもんだからなんてことはない。


 それに何より、妹がなんだかんだ嬉々としてハサミを動かしていることを僕は知っている。

 なぜなら前髪を切ってもらっているときに薄目を開けて盗み見ると、妹は必ずと言っていいほど頬を緩め、今にも鼻歌を歌いそうな、そんな幸せそうな表情で僕の髪をいじっているのだから。

 しかし妹自身は照れ臭さもあるのかその事実を隠したいようで、僕にその様子を見られていることを知るや否や「しまった」という顔を必死でごまかしつつ、「危ないから目つぶっててよ!」と大層怒ってくる。

 ただその顔が耳まで真っ赤になっているので、迫力も何もないのだが。


 そんな何てことない妹との日常を思い起こしながら、僕は嫌というほどに通い慣れたこの道を歩く。

 そのとき、一層強い風が道端の枯葉や砂利を高く巻き上げた。

 真正面から迫る不純物を乗せた風圧に瞬間的に目を細め、同じく風によって煽られ目に入りそうになった髪を手で払いのける。

 その拍子に、指先がこめかみに意図せず触れた。


 指の腹に感じる歪な凹み。

 まだかさぶたも出来きれない、日の浅い傷がそこにはある。


 その傷は 2 日前、初めて死体と相まみえた廃ビルで、あの芸術家気取りの男につけられたものだ。

 しかしあんなふざけた男に怪我を負わせられたとは、今になって考えてみるとなんとも胸糞悪い。

 思わず苦虫を噛み潰した顔をしていたところで、普段バイト先への近道に使っている細い路地に差し掛かった。


「……さすがに今日の工事は休みか」


 その通りは昨日に引き続き通行止めとなっていたが、一方で作業員の姿は誰一人として見当たらない。

 これならば『通行禁止』の看板を無視して通り抜けていくことも可能だろうが、今日の僕は元より、この道を通るつもりはなかった。

 なぜなら僕はあの女の家に――そこで飼われているあの犬に用があるのだから。


 僕はその通い慣れた路地に背を向け、昨日と同じように閑静な住宅街を進んでいく。

 そうして見えてきた、一軒の赤い屋根の家。

 昨日出会った、あのヒステリックな女の姿が周囲にないことを注意深く確認し、目的の家の前で吸い寄せられるように立ち止まる。

 錆びついた門扉が風に煽られ、まるで自らの前に立つ者を拒絶するかのように金切り声を上げている。

 その格子の向こう――荒れた庭の奥に、それはいた。

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芸術という名の殺人 真白なつき @mashiro_natsuki

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