第30話 ×殺し(1)

 時は進み、日曜日の夕方。


 昨日と同じくバイトへ向かおうとしていた僕は、しかしいつもとは少し異なる心境で玄関に立っていた。

 その原因の一つ――前日から家に泊まっていた叔父が、例にもれずほほ笑みを浮かべながら僕を見つめている。


 叔父は何をもってそこにいるのか。


 なんてことはない。

 深夜、叔父の宣言した、僕を見送ってから自宅へ帰るという口約束を彼自身が律儀にも実行しているからに過ぎない。

 叔父とはそういう人なのだ。

 誠実という言葉がこれほど似合う人もそうそういないだろう。


 しかし一方で、そんな彼に対して同じく深夜、僕が抱いた――抱いてしまった違和感について考える。


 あの得体の知れない感情を――恐怖と見紛うほどの異常を。


 ただ、一晩おいてあの時の叔父とのやり取りを思い返してみると、果たして僕らの応酬のどこにそんな恐れを抱くべきところがあったのか、不思議なほどに何一つ思い当たる節もきっかけも存在しないのだ。


 僕と叔父の当時のやり取りをいくらなぞっても、はたまたその一部を取り出してよくよく眺めてみても、少なくとも今の僕にとって不自然に思う箇所は一片たりとも見つかりやしない。


 そうなるとやはり結論は一つしかないわけで、僕としてもその答えに納得する他ないのだが――。


 やはりあの時の僕は、正常な精神状態ではなかったのだと。


 だからこそ変に神経を尖らせて、その自らの異常の原因を都合よく目の前にいた叔父に擦り付けようとしていたのだ。

 清廉潔白をそのまま体現したような叔父に対して、無理やりにでも欠落した何かを与えようとして。


 現に今、目の前で眼鏡の奥の目を細める叔父に対して、どうしたって不穏な違和感を覚えることなど一切合切できやしないのだから。


「お兄さん、行ってらっしゃい」

「はい――叔父さんも、お気をつけてお帰りください」

「ええ。お気遣いありがとうございます」


 よその人が聞いたらひどく他人行儀に聞こえそうな会話を叔父と交わす。

 しかしこれでいいのだ。

 やはり叔父と僕らとの距離感は、これぐらいがちょうどいい。


 そんなことを頭の片隅で再認しながら、一礼する僕に対してどこまでも柔和な顔の叔父に背を向け、玄関扉を押し開ける。

 そしてそのまま外へ出ようとした――その時。


「――あ、っ」


 叔父の声でも、僕の声でもない。

 この場に最初からいたもう一人――妹の声が、僕を呼び止めるように発せられた。


 絞り出すような。切羽詰まったような。

 決して大きくはなかったはずのその声に――何の意味も持たないはずのそのたった一音に、ほとんど反射的に足を止め、振り返る。


 目が、合った。


 まぶたが震えるほどに見開かれた妹の目が、瞳が、さざ波のように揺れる。

 はっとしたようにその小さな両の手が、わずかに戦慄く唇を覆う。

 その華奢な腕の奥で、白く細い首が何かを下すように緩慢に波打つのを僕は確かに見ていた。


「……どうした?」


 怪訝な色を隠しきれぬまま、妹への問いがこぼれ落ちる。

 おそらく僕は今、ひどく訝しげな顔をしているだろう。


 妹の、少しずつ下ろされる両手から姿を現した唇が、何かを訴えるように一回、二回と開閉を繰り返す。

 しかし妹の隣で僕と同じように自分へと視線を注ぐ叔父を見、そしてもう一度僕を見て、何か意を決したかのように三回目に口を開いたときには――。


「――行って、らっしゃい」


 かすかに喉元を震わせて、妹は僕に向かって笑って見せた。

 そのきゅっと細められた目に既視感を覚えながらも、僕はいつかみたいに不気味な予感を思考の隅に追いやって、なんてことない言葉を返す。


「行ってきます」


 いつもと同じように、しかしいつもとは少し違った心持ちで、僕は家を後にする。

 背中越しに聞いた玄関扉の閉ざされる音が、嫌に耳に残って離れない。

 それを振り切ろうと、ただただ足を前に進める。


 僕は何かにすがるように――カバンの中に潜めていた、愛用のナイフの柄にそっと触れた。

 長年携えてきたそのナイフの感触を確かめるように――指折るようにゆっくりと握る。

 無機質なはずの柄に触れた手のひらが、じくじくと熱く脈打ちだす。



 きっと僕は、今の僕にとっての日常を――家という場所での安寧を信じていた。―否、信じていたかったのだ。


 昔、幼い頃の僕にとって、家は恐怖を生む場所でしかなかったから。


 外界から閉ざされた理不尽な世界。

 逃れることのできない無慈悲な世界。


 しかしそんな檻のような世界も、その主であった父の失踪でいとも簡単に崩壊した。

 そして代わりにあてがわれた、嘘みたいに平穏な暮らし。


――そう。きっと僕は、この静穏な家を――安寧の場所を、失いたくはなかったのだ。


 ほんの小さな石ころでも、湖面に投げ込めば大きな波紋を生み出すように。

 ほんの小さなきっかけが世界を揺るがしうることを、僕は痛いほどに知っていたから。


 だから僕は、気づこうとはしなかった。


 いくつものサインを必死に意図的に見逃して。

 正常であることを捨てようとしながら、日常を捨て去ることはできずに醜くすがりついて。


 だからきっと、今日、この日。

 僕の日常にとって――僕らの世界にとって、二度と取り返しのつかない出来事が起こってしまったのは、この先どう足掻いても必然であり、自業自得であり、避けることのできない予定調和だったのだろう。

 

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