第29話 誓いと凶器(8)

 暗い廊下に、一人。

 自室のある2階へと向かいながら、僕は自嘲気味に笑う。


――あんな絵に描いたように良くできた人が僕みたいな異物を気遣わねばならないだなんて、不憫にもほどがある。


 ふと思い出されるのは、先程感じた、叔父の笑顔への違和感。

 そしてその微笑に対してほんのひと時だけ抱いた、得体の知れない感情。


 あれは一体、何だったというのか。

 あれは――あれは、恐怖と呼べるものだったのではないか?


 思い至ったその結論に大きくかぶりを振る。

 馬鹿らしい。思い違いも甚だしい。

 あの人はただいつも通り、静かに、穏やかに、笑っていただけではないか。

 なぜそのことに恐れを抱いて、まるで彼を得体の知れない存在に仕立てるような、そんな思考に捕らわれるのか。

 それこそ恩知らずにもほどがある。


 僕は今、おそらく正常ではないのだ。――否、正常であってはならないのだ。


 今日、頭の中で繰り広げていた殺人に突然割り込んできた父の言葉を思い出す。


「現実で人を殺すことはもちろん、犬猫一匹殺せないお前に……俺を殺せるわけがねェんだよ!」


 皮肉にもあの時、僕は悟ったのだ。

 僕は僕自身の始まりの願いを――父をこの手で殺すという願いを叶えるために、現実でナイフを振るわなければならないのだと。

 だから今さら正常であり続けようとするなんて、夢物語もいいところなのだと。


――まったく、あんなやつと叔父が兄弟だなんて、悪い冗談としか思えない。


 叔父はあんな兄をもったことをどう感じていたのだろうか――いや、そもそも叔父は、父の本性を果たしてどこまで知っていたのだろうか。


 父が失踪して、取り残された僕らの様子や家の惨状を目の当たりにして、初めて自分の兄の真の暗黒面を知ったのかもしれない。

 そう。おそらく父と連絡がとれないか何かの理由だったのだろうが、異変に気付いて家主の消えた部屋を初めに訪れたのは叔父だったのだ。

 それからあれよあれよという間に僕と妹は祖母の家へ――この家へ引き取られていたわけだが。


 叔父にとって、僕の父はどんな兄だったのか。どんな存在だったのか。


 10年間行方不明だった父が実は当の昔に死んでいたという事実を知っているのは、僕だけなのだ。

 叔父も妹も、何も知らない。かといって真実を伝えるつもりもない。

 言ったが最後、僕が真夜中に帰宅したあの日、どこで何をしていたのかを彼らに対して明らかにしなければならなくなるだろう。


 死体探し。男とのひと悶着。そしていくつもの死体との対面。

 脳内で殺人を犯す僕の本性を知られるわけにはいかないのだ。


 現実で正常であり続けることは、もう諦めよう。

 しかしその本性を知られてしまっては、おそらく僕はどこかの病院に強制的に入院させられるか、そうでなくても誰かの監視の目の届くところに軟禁されるか、どちらかだろうと推測する。

 普通に考えて、こんな危険な思想を――人を殺してその中身を見てみたいなどと考え、それを趣味とする人物を野放しになどしたくないはずなのだ。

 それが正常な思考であることは僕だって百も承知である。


 だがしかしそれによって自由を失えば、僕は現実においてナイフを振るうという行為ができなくなってしまう。

 そうなると僕は、父をこの手で殺すという願いを叶えることができなくなってしまうのだ。


 だから僕は、叔父にも妹にも、父の死を告げることはできない。

 僕自身のためにこの事実を僕の口から語ることはできない。


 もしかしたら叔父は、10年経った今でも兄である僕の父のことを探しているのかもしれない。

 心のどこかで、もしかしたらと期待を捨てずにいるのかもしれない。

 父のことを覚えていないであろう妹も、もしかしたら理想の父を思い描いては、いつの日かと願っているのかもしれない。


――それでも。


 僕は僕自身のために――せめて僕が父に手を下すことができるようになるまで、この真実を彼らに明かすわけにはいかないのだ。




 寝ているであろう妹の部屋の前を通り過ぎ、自室へと入る。


 音を立てないように扉を閉め、電気も点けず、部屋の角に置かれた机へ歩み寄る。

 闇に沈むその一角に立っていると、じわじわと周囲の闇に同化していくような、呑まれていくような、そんな気分になる。


 僕は机の引き出しの一つに手をかけると、ゆっくりと手前へ滑らせた。

 徐々に開いていくその暗い隙間から数冊のノートが顔をのぞかせる。

 重ねられたそれらのノートをまとめて持ち上げ、その下に隠されるように仕舞われていたあるものを手に取った。


――折り畳み式のナイフ。


 それは死体探しでいつも持ち歩き、そしてつい先日、あの男との格闘で初めて人を刺したナイフだ。

 その刃先を表に出して見てみると、暗闇の中でもさらに色濃く闇を集めたような箇所がまだらにある。

 廃ビルでナイフについた男の血液を拭いたものの、完全には落とせていなかったのだ。

 その黒々としたまだらを、じっと見つめる。


 そう。

 僕の手に握られたこのナイフには、これからその黒が増えていくのだ。

 そしてこの刃がいつしか真っ黒に染まったとき、やっと僕は父を殺すことができるのだろう。


 指の腹を刃先にあて、その感触を確かめるようにそっと指を滑らす。

 痛みはない。出血もない。

 ただただ触れるだけ。

 そうしながら僕は、これから為すべきことを考える。


 最初の対象はもう決めていた。


「犬猫一匹殺せないお前に……」


 父の言葉が頭の中に再び蘇る。


 だから僕は証明しなければならない。

 僕にだってちゃんと、できるんだということを。

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