第26話 誓いと凶器(5)

 結局あの後、男の芸術やそれを実現するための技術についての講話を一方的に聞かされ、「じゃあ仕上げまで終わったら、また電話かけるから」というこれまた一方的な宣言を最後に電話は唐突に切られた。


 「パトロンたちにも連絡するから、お前にばっかり構ってる暇はねえんだよ」とかなんとか言われた気がするが、どの口がほざいているのかと問いただしたくなる。

 しつこく電話を鳴らし続け、あげく大半が無駄話の長電話を率先してやっていたのは、何を隠そう男自身なのだから。


 用無しとなったスマホをポケットに突っ込み、淀んだ空気を吐き出すように一つ、ため息をこぼす。

 随分と日常とはかけ離れた日々が続いたものだ。


 たった二日。されど二日。


 死体と出会い、男と出会い、そして失踪していた父と再会した一日目。

 虐待されている犬とその飼い主の女と出会い、そして脳内殺人に父が侵食してきた二日目。


 イレギュラーに囲まれすぎて、どちらの日の出来事も日記の1ページに収まりそうもない。

 まあそもそも日記なんて書いていないわけだけれど。



 ぴたり、と前へ前へと動かし続けていた足を止める。

 見上げたそこにはあるのは、父や叔父が青春時代を過ごし、また父の失踪後は父方の祖母に引き取られる形で僕と妹が暮らし始めた、見慣れた一軒家。

 今は無き祖母がまだ若かりし頃に建てられた、何の変哲もない二階建ての家である。


 時刻はすでに深夜の1時を回っていた。


 玄関前から居間に面した窓の方を見ると、普段は真っ暗なはずの閉め切ったカーテンの隙間から、ぼんやりと明かりが漏れ出ているのが分かる。

 もしかしたら叔父が居間で、僕の帰りを待って起きているのかもしれない。


 あの叔父なら十分ありうることだ。

 何の利益もないはずなのに、孤児となった僕らの保護者になるという、とんだお人好しの彼になら。


 二階では妹が眠っていることも考慮し、玄関扉の開閉音に注意して滑り込むように帰宅する。

 目の前に続く真っ暗な廊下を突き当たって左、居間へとつながる扉のすりガラスからはやはり光が漏れていて、その光がちらちらと揺れるところから、中で人が動いていることもうかがえる。


 おそらく叔父に違いない。

 それを確認した僕はいつもなら帰ってすぐに二階の自室へ直行するところを、少し速足で居間へと向かうことにした。


 夜道に慣れた目に、たとえガラスを隔てているとはいえ、人工的な明かりは眩しく感じる。

 その光源の元へ数歩でたどり着き、ドアノブに手をかける。

 閉ざされた明かりを開放するように、目の前の扉をゆっくりと押し開けた。


「――おかえりなさい」


 見計らったかのようなタイミングで投げかけられた、ありふれた言葉。

 予想以上に近い位置にあった、見知った人の気配。


 そこには、昨日と同じようにほほ笑みを浮かべ、たたずむ叔父の姿があった。


 僕の帰宅に気づいて扉の近くへ移動して来たのだろうか、居間へと入って来た僕を出迎えるように叔父は背筋を伸ばしてこちら見つめている。


 ただただじっと、見つめている。


「ただいま、です」


 テレビとソファー、そしてダイニングテーブルが雑然と置かれたこの空間において、なぜだか叔父の周囲だけが一種独特な空気をまとっているように感じられる。


 ひどく静かだった。


 深夜の住宅街。

 消音のまま映像が流れているテレビ。

 そしておそらく眠りについた妹。


 静けさを演出する条件は確かに十分そろってはいるけれど、それでも思わずにはいられなかった。

 ここはまるで、心の声までもが聞こえてしまいそうなほど、恐ろしく静かなところであると。

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