第23話 誓いと凶器(2)
今まで数え切れないほどに人々を殺してきた僕のナイフが、父の心臓目掛けて吸い込まれるように突き刺さる――。
「ぐ、ぅ……っ」
直後、絞り出すような唸り声が静かな空間にこぼれ落ちた。
それはひどく惨めであり、そして救いようもないほどに情けなく、余りにも憐れで。
――しかし、他人事のように聞いていたその声が。
「うぅ……!」
再び僕の耳に入ったとき――僕は驚愕に目を見開いた。
自覚したのだ。
声の主が誰でもない、僕自身であるということを。
そして僕の目の前には、無傷の父が平然と立っているということを。
信じられない思いで僕は自分の手元を改めて確認する。
そこには確かにナイフが握られていて。
だけれどもその切っ先は父の身体に触れるか触れないかのギリギリのところで、まるで見えない壁に阻まれているかのように停止していた。
「ぐ……!」
その事実を認識した途端、ぐんと何かに引っ張られるみたいに、ナイフを持つ手が、腕が、のし掛かった正体不明の重みに悲鳴を上げる。
――いや、これもやはり、ただ単に今自覚しただけのことなのかもしれない。
とにかくその空間だけが周囲の何倍も重力がかかっているかのようで、ナイフの切っ先をそれ以上前へ進めることも、後ろへ引くこともできない。
何も、何もできない。
自分の身体なのに――自分の妄想なのに、一切の自由が効かない。
Tシャツから剥き出しの腕に、ポツリと冷えきった何かが落ちて飛び散った。
それは僕の額の辺りから、一直線に落ちてきたもので。
暑さなんか感じていないはずのこの空間で、僕は自分でも知らぬ間に汗を流していた。
動かせない腕に弾けた水滴の跡をぼんやりと眺めながら、頭の中でその事実をゆっくりと理解していく。
一体全体、何がどうしてどうなっているのだろうか?
そんな焦りにも似た僕の疑問に答えるかのようなタイミングで、一つ、声が響いた。
「――怖いのか?」
はっと顔を上げる。
視線の先にあるのは、これ以上なく愉快そうに目を細め、唇を歪ませる父の姿。
その歪んだ唇から、次々と言葉が紡がれる。
「お前は俺が怖いのか? 俺を殺すことが怖いのか?」
僕は何も言わない。言うことができない。反論の言葉を投げることも、ましてやいっそ耳を塞いでしまうことも、何も。
依然としてナイフを握る手は一向に動く気配がないし、腕も脚も全くもっていうことをきかない。
「なあ、なんだって俺ごときにそんなに臆病なってんだよ……って、わりぃわりぃ。何当たり前のことを言ってんだって感じだよなァ」
そして勿体ぶるように一呼吸置いた、父は。
「なんたって俺は、お前のことを虐待してたんだからなァ!」
狂ったみたいに大口を開け、唾液を撒き散らしながらそう笑い叫んだ。
――狂ったみたいに?
頭に浮かんだその問いに、僕は瞬時にこう自答する。
――違う。こいつはもうずっと、ずっとずっと前から、どうしようもないくらいに狂っていたのだ。
なんて今さら。
だって知っているじゃないか。僕は誰よりも身をもってその事実を受け止めていたのだから。
分かっているはずじゃないか。こんな狂ったやつを相手にして、正常であり続けようとするなんて、夢物語もいいところだって。
――だから。
「現実で人を殺すことはもちろん、犬猫一匹殺せないお前に――俺を殺せるわけがねェんだよ!」
死んでいてもこの手で殺したいと切望する男のその嘲りの言葉に、妙に納得している自分がいた。
僕は僕自身の始まりの願いを叶えるために、現実でナイフを振るわなければならないのだと。
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