第22話 誓いと凶器(1)

「なっ……」


 なぜ、という言葉は声にならない。


 そもそも、だ。――大前提として。


 今ここで繰り広げられている殺戮は、すべて僕の脳内での出来事――いわば妄想であって(それは僕自身が重々承知している)、それに対して僕自身が理解できない事象が起こるなんて、そんなことがあっていい訳がないのだ。


 それなのに。

 それなのに、それなのに、それなのに。


 なぜ僕の目の前には、当然のように父がいる?


「おいおい無視か? お前、いつからそんなに偉くなったんだ? ん?」


 鼓膜を震わせる、高圧的で人を馬鹿にしたような口調。

 そして唐突にこの身を襲う、背筋を何か冷たいものが滑り落ちたみたいな瞬間的な悪寒。


 はっ、と。

 気づいたときには、血に濡れた地面もそこに横たわっていたはずの女の身体も消え失せていて。


 代わりに視界に広がっていたものは。


 見覚えのある薄汚れたフローリングとそこらに散乱するゴミ、空き缶。

 そしてシミだらけの壁を背景に仁王立ちする、父の姿だった。



「懐かしい我が家じゃねえか。んな顔してねェで喜べよ。あ?」


 今住んでいる一軒家とは違う――父の失踪前に僕らが暮らしていた、おんぼろアパートの一室。

 突如出現した、当時のそれをそっくりそのまま再現したようなこの空間に、思い出したくもないあの頃の記憶が僕の意思に反して次々と脳裏に浮かび上がる。

 そしてそれら忌々しい過去の映像とリンクするみたいに、当時のそれと寸分違わない父の声が、手を伸ばせば届く距離から響いてくる。


 果たして僕は今、どんな顔をしているのだろう。


 分からない。

 分かりたくもない。


 僕が今どんな顔をしていてどんなことを考えていて。

 そもそもそれ以前に一体全体何が起こっているというのか。


 ぜんぶぜんぶ、理解したくない。


 向かい合って立つ父の目線は、高校生になった今の僕とまったく同じ高さにある。

 だから決して父に見下ろされるようなことはない――はずなのに。


「お前は、俺を恨んでいる」


 一つ一つの言葉が。


「憎んでいる」


 絡みつくような視線が。


「殺したいと思っている」


 まるで時間が逆行したみたいに、頭上――見上げて首が痛くなるほど遥か上の方から、確かな重みを持ってのしかかってくる。


 あの頃と同じだ。

 すべてを受け止め、受け入れるしかなかった、あの頃と同じ。


「でも――お前には俺は殺せない」


 二度目となるそのセリフを発する父は、何が楽しいのか愉悦の表情を顔面に張り付け、それを崩そうとはしない。


「……ッ殺すもなにも、アンタはもう死んでるだ――」

「分かってねェなあ!」


 絞り出すように言った僕の言葉を遮るように、目の前の男はそう言い放つ。

 そしてそいつは愉快でたまらないという色を滲ませながら、血の繋がったかつての虐待相手に次々と畳みかけていく。


「お前はな、妄想ですら俺を殺すことはできねェんだよ。

 俺は知ってるぜ? お前が今まで、数えきれないほどの人殺しをやってきたこと」


 それから一息置いて。


「ま、それも所詮妄想なわけだけど」


 あからさまに馬鹿にした様子で、上から下まで舐めるように僕を眺めながら鼻で笑うそいつ。

 そして舌なめずりをして満面の笑みを浮かべたその悪魔が、甘美な秘め事をたった一人の大切な誰かにそっと打ち明けるように、こうささやいた。



「リハーサルは十分だろ? ――さあ、殺してみろよ」



 そんな禁忌の誘いを確かに受け取った、僕は。


 吐き気をも促す眼前の男のそのつらを、しかしそこから目を逸らさぬようしっかりと見据え。

 腕が痺れるほどに握りしめていたナイフの柄の感触を再認し、こう応えた。



「殺してやる――僕がこの手で、殺してやる」



 それは、今に繋がる幼き頃の僕が心から願った、暗い誓い。

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