第18話 分岐点(2)
廃ビルで男にやられた傷が、おそらく髪をかき回したせいで表に出てしまったのだろう。
失念していた。
しかしもう出血もしていないような程度の傷で妹がここまで狼狽えるのは明らかに異常だ。
僕は未だ腕に食い込んでくる妹の手を離し、その両肩に手を添えた。
腰をかがませて目を合わせようとするが、まるで焦点が合わない。
「おい、落ち着けって」
「ごめ、ごめんなさい……、私っ、私が……!」
「どうしたんだよ。これは別に、ちょっとドジしてぶつけただけで――」
「ごめんなさい……!」
ぎゅっと目をつむる妹。
まるで親に怒られるのを恐れる子どもみたいに、その肩は小さく震えていた。
「ちょっ……何に謝ってるんだよ。別にお前は何も悪いことしてないだろ?」
なるべく優しい声音を意識するも、妹はさらに肩を震わせ、それから何度も首を横に振る。
「ちがう、ちがうの……」
うつむいた妹の足元に、ポツポツと水滴が落ちた。
それを拭うこともせず、妹はうわごとのように「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。
「……昨日、僕がいない間に何かあったのか?」
僕の言葉に妹が一瞬身構えたような気もしたが、すぐにゆるゆると首を振った。
「なにも、ないよ」
それはまるで自分に言い聞かせるかのように。
「なにもないの」
一音一音、力をこめて発した妹は、それがきっかけだったかのように肩の震えも涙も止めて、それからまっすぐに僕を見据えた。
そして今までの様子が嘘みたいに、明瞭に言葉をつむぐ。
「私、まだちょっと具合悪いみたい」
「……は?」
「ごめんごめん、なんかヘンなこと言っちゃったね」
「え? いや……」
その変化に今度は僕が狼狽える番だった。
妹の肩に乗せていた手の力が無意識に緩む。
そしてそんな僕にさらに追い打ちをかけるかのように、妹は真っ赤な目をきゅっと細めて――笑って見せた。
そのまま僕の胸をとんと押すと、呆けた僕の身体を反転させて出口の方へとズンズン押しやる。
「あっ、おい」
「私、やっぱりまだ休んでるね。ほら、お兄ちゃんは早くバイトの準備しないと。どうせまだお風呂にも入ってないんでしょ? この不良少年め!」
場違いなほどに明るいトーンで流ちょうにしゃべる妹。
背後にいる妹がどんな顔をしているのか、知ることは叶わない。
「や、それは悪かったって。それよりもバイト、休むか? まだ体調悪いんだったらさすがに一人じゃ」
「大丈夫大丈夫、こんなのすぐ良くなるから」
「じゃ、じゃあ叔父さん呼ぼうか?」
「――それはダメ!」
反射的に後ろを振り向いた。
はっと口を手でふさぎ、しまったと言わんばかりに目を見開いた妹と視線がかち合う。
「……なんで?」
僕の問いただすような視線から逃れるように、妹がせわしなく瞳を動かす。
「いや、それはだって……昨日も来てもらって、め、迷惑かけたのに……今日も来てもらうなんて……ほら、悪い、でしょ?」
「それは、そうかもしれないけど」
「そっそれにほら! 私だって思春期の女の子だし! たとえ叔父さんであっても男の人と二人きりっていうのは落ち着かないというか!」
「僕も一応男ですけど」
「お兄ちゃんはいいのー!」
出入り口で立ち止まっていた僕は、言葉の勢いのままに妹の手によって部屋の外へと完全に押し出された。
「ちょっ……」
そして妹の部屋へ一歩踏み出そうとする僕を拒むかのように、バタン! と風が巻き起こるほど思い切り扉を閉められる。
「な、なんなんだ……」
いろいろと引っかかることはあるものの、バイトへ行くならば急いで準備をしなければもう時間がない。
慌ただしく用意をしながら、先ほどの妹の様子を振り返る。
真っ赤な目。焦り。恐れ。叫び。涙。
そして笑顔。
それら全て、簡単に露わにすることを僕が軽蔑しているものばかりだ。
――だけど。
それ以上に、僕自身もなんだかよく分からない焦りを感じていた。
これは、焦り、なのだろうか。
ドクドクと心臓が脈打つ。
理解できない。理解したくない。
本能が、これ以上考えることを拒否していた。
自分のこと、妹のこと。
それから――僕の知らない昨日の夜のこと。
知ってしまえばすべてが終わってしまう気がして、考えようとすればするほど頭の中が真っ白になっていく。
ただ僕は、何かが変わってしまったという根拠のない予感を必死に思考の隅に追いやりながら、僕にとっての日常を送ることを心から願った。
「いってきます」
結局あれっきり部屋に閉じこもってしまった妹を家に残し、バイトへと向かう。
太陽の位置が低い。その事実を今の時刻と照らし合わせて夏の終わりを感じながら、僕はスマホを取り出した。
バイトが深夜まであるため、必然的に妹は今からあの家で深夜まで一人きりということになる。
本来僕の年齢では深夜帯にバイトすることはできないのだが、うちの家庭事情を知っているバイト先の店長に「親戚の子どもが店の手伝いをしている」という体で週末は深夜まで働かせてもらっているのだ(もちろん体というからには、深夜労働の分の給料も実際はきちんと受け取っている)。
そんな状況で、妹はあんなことを言っていたけれど、さすがに僕も体調不良の中学生の妹を一人家に放置するほど冷酷じゃない。
しかもあんな不安定な姿を見せられればなおさらだ。
僕はなんの迷いもなくスマホを操作し、端末を耳に押し当てた。
数回のコール音の後に聞こえてきた「もしもし」という声に、僕はこう呼びかける。
「突然すみません。ちょっとお願いがあるんです。
叔父さん」
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