第2章 犬殺しの章
第17話 分岐点(1)
「……寝すぎた」
――12:35。
自室のベッドの上で半身を起こした僕は、スマホに表示された時刻を見て一つため息をついた。
今日は土曜日なのだから別に早起きする必要はないのだが、少しだけ一日の時間を無駄にしてしまったような気分になる。
「あーあーあー……すんごい寝起きの声」
ぼんやりと目の前の壁を眺めながら、掠れた声と格闘する。
窓から差し込む日差しが真っ白な壁に反射していて、やけに眩しい。
そのいかにも清潔そうな日光に目を細めながら、僕はあることに気づく。
「そういえば風呂に入らないと……」
昨日と同じ黒のTシャツにジーパンを身に着けた自分の身体をしげしげと見渡す。
右腕を持ち上げ、そのままTシャツの臭いをかごうとしてやめた。
なんたって昨日はあの男と廃ビルでバトルしたのだから――うん、自分から鼻をひん曲げにいく必要はないだろう。
それに毎週土曜日は夕方からバイトだ。さすがにこのままでは出かけられない。
風呂に入って温まれば、このガラガラ声も元に戻るだろうか。
まだぼんやりとした頭を二、三度振り、よしとベッドから立ち上がる。
そして身体をほぐそうと首やら肩やらを回しながら自室のドアの前に立ったのだが――。
「…………?」
なんだかよく分からない引っかかりを胸に感じて、はたと立ち止まる。
この違和感は何だろうか? そのままの状態でしばし思考を巡らせる。
とたんに静寂が僕を包み込んだ。
そう、静寂が――。
「……ああ」
分かった。静かすぎるんだ。
そもそもこんな時間まで僕がぐーすか寝ていられたのは、もちろん昨日の疲労もあるだろうが、それ以上に妹が僕を起こしに来なかったということが大きな要因だといえるだろう。
もし僕が昼まで寝ていたとして、普段の妹ならばそれこそ僕に何か恨みでもあるのかと問いたくなるくらい強引に布団を引っぺがし、文字通り僕を叩き起こしに来るはずなのだ。
これは、おかしい。
しかしはたと、そういえば昨日の夜、妹が体調を崩したと叔父が言っていたことを思い出す。
叔父曰く大事には至っていないようだったが、それでこんなに家全体が静かなのかと納得した。
とりあえず様子を見に行ってやるか。そう決めた僕はようやっと扉を開けて、妹の部屋へと向かっていった。
妹の部屋の前で僕は一人首を傾げていた。なぜなら扉をノックしても何一つ返事がないからだ。
普段妹から口酸っぱく「ノックをして返事があってから入室しろ」と言われているため、その通りに実行しようとしたのだが。
部屋にいないのか? しかしなんとなくだが、扉を隔てた向こう側からかすかに人の気配を感じる。まさか返事もできないほど具合が悪いのだろうか?
「おい、入るぞ」
仕方ない、これは不可抗力だと心の中で唱えながら扉を開けるとそこには――。
「……どうした?」
病人らしく寝るでもなく、かといって何をするわけでもなく、ただただベッドに腰かけて呆然と壁を眺める妹の姿があった。
まるで僕が部屋へ入ってきたことに気づいていないみたいに、こちらに半身を向けた状態のまま、全くもって反応がない。
その妹の様子に一瞬寒気がした。
僕はそれを振り払うように、先程よりも語気を強めて妹に呼びかけた。
「おい」
「っ!」
ビクリと妹の小さな肩が震える。それから妹はゆっくりとこちらに顔を動かした。
「あ……おにい、ちゃん……」
そして、そう譫言のように呟く妹の目に思わず視線が止まる。
「……お前、泣いてたのか?」
「えっ?」
「目、赤いぞ。そんなに具合悪いのか?」
自分の目を指差しながら僕は妹の方に近づき、その顔をのぞきこむ。
よっぽど体調が優れなかったのか。顔色も心なしかあまり良くないように思えた。
「ち、ちがう」
妹は僕の指摘に慌てて瞼の上から目をこすりながら、首を大きく左右に振る。
――その行為が泣いてましたって言ってるんだけどなあ。
嘘をついていることは明らかだったが、恥ずかしさ故だろうと結論付けてこれ以上はこの話題に触れないことにした。それに妹のことは昨日の夜から叔父に任せっぱなしだったという罪悪感もある。
さすがに問いただすようなまねはしない方がいいだろう。
「まあいいんだけどさ。で、体調は? 熱はあるわけ?」
「……なんともない」
「そ。ならご飯食べるよな? その感じだと、まだ食べてないじゃないの?」
ベッドに腰かけたまま、こくんとただ頷く妹。
なんだか調子が狂うなあと思わず僕は自分の髪をかき回した――そのとき。
「待って!」
鋭い声と同時にきた、とん、という小さな衝撃。
僕は突然立ち上がった妹に腕を鷲づかみにされていた。
頭の上にやったままの右腕に、妹の小さな手がきゅっと食い込んでくる。
「な、んだ?」
頭一個分はゆうに違う妹がじっと僕の顔を――正確には、こめかみの辺りを見つめてくる。
見上げてくるその瞳が不安定に揺れていることに僕は気づいてしまった。
ぱくぱくと、酸素を求める魚のように妹が口を開閉する。
「……おい?」
「な、んで……どうして」
「え?」
僕の右腕をつかむ妹の手が、小刻みに震えていた。
「けが、してる……けがしてるよ!?」
ひどく狼狽した様子で悲痛な声を上げる妹。
ただでさえ万全じゃなかったその顔色はみるみるうちに青白くなっていった。
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