第19話 蘇り(1)
「夜にはそちらに着けると思います」
妹がいまだ体調不良であること、そして僕はこれから深夜までバイトであることを叔父に電話で伝えると、即座にそう返ってきた。
「すみません、昨日も遅くまでうちにいてくださったのに……」
「何を言っているんですか。僕は逆に、普段は遠慮しがちなお兄さんがそうやって私を頼ってくれることを嬉しく思いますよ」
「いや、僕は……」
昨日に引き続き、叔父の言葉にまたも形容しがたい、なんとも落ち着かない気分になる。
そんな僕の様子に気づいているのかいないのか、電話の向こうからは吐息をもらすような笑いが聞こえてきた。
そして、
「お兄さん」
と打って変わって改まったような、幾分硬い声音が僕の鼓膜を揺らす。
「……はい?」
「バイトのことも、金銭面についてなら私にもっと頼ってもらって構わないんですよ。高校に通いながら家事もバイトもするなんてただでさえ大変でしょうに、週末は深夜まで働いて……無理する必要はないんですよ? なんなら仕送りを増やして――」
「無理なんかしてません」
思いのほか響いた自分の声にはっと息をのむ。
いつの間にか立ち止まっていた。
周囲を見渡して人の気配のないことにまず胸をなでおろす。
叔父の言葉を遮ってまで、何を僕は焦っているんだ。
胸に手を添え深呼吸をして、このよく分からない胸のざわめきを抑えることに専念する。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。そう唱えながら歩みを再開する。
「……すみません、大きい声を出してしまって」
この第一声を発するのに予想外のエネルギーが持っていかれた。
しかし叔父が二の句を継ぐ前に、僕は話を進めなければならない。
「でも、本当に大丈夫です。バイトは僕が好きでやってるんで」
「それは、たとえそうだとしても」
「それに」
今度は意識的に声を張る。
「叔父さんに完全に甘えてしまうのは、僕の心情的に申し訳ないというか許せないというか……。
今まで叔父さんに仕送りでもらった分、全部とはさすがに言えないんですけど、いつか返したいとも思っていますし」
「それはあなたが気にすることじゃ」
「すみません、これは僕のわがままなんです。……僕のわがまま、聞いてくれませんか?」
食い気味に、そして懇願するように訴えた僕の言葉を最後に会話が途切れた。
僕は無音のスマホを耳に当てたまま、ひたすらに歩く。
そして、長かったような短かったようなその沈黙を最初に破ったのは、叔父だった。
「……ずるい、ですねえ」
自嘲気味な呟き――でも。
「お兄さんにそんなふうに頼まれたら、そのお願い、聴くしかないじゃないですか」
次いで弱ったなあとぼやく叔父の声は、ずいぶん柔らかかった。
「ありがとうございます」
「まったく……お兄さんも体調にはくれぐれも気を付けてくださいよ? 何かあったらすぐに私に伝えるように」
「はい」
ここは素直に肯定の意を示しておいた。
そんな僕の返答に満足したのか、叔父はそれにしてもと話題を変える。
「妹さんはまだ体調不良が続いているんですね」
「はい……というより、何か様子がおかしいというか……」
「様子が?」
「はい」
「そうですか……」
そう思案気に呟いた叔父がしばし思考の海に沈む。
その間に僕はスマホで今の時刻を確認した。……大丈夫、まだバイトの時間までは余裕がある。
「……妹さんは、何か言っていましたか?」
そこで突然浮上した叔父の声に僕は慌てて返答した。
「いえ、なんというか要領を得ないというか、逆に何も言わないというか」
「ほう」
「たぶん上手いことはぐらかされました」
「そうですか」
僕の言い草に叔父がくすくすと笑い声をもらす。
「分かりました。そこら辺のことも気にしておきますね」
叔父のその言葉を最後に、それでは、と電話は途切れた。
まあとりあえずこれで妹が夜、家に一人でいることを回避することができたわけだ。これで一安心と僕はスマホをしまった。
「まじか」
叔父との電話からしばらくして。
いつもバイト先への近道に使っている細い路地に差し掛かると、そこには『通行禁止』の看板が立っていた。
その先では作業服を着た数人がなにやら声を張り上げながら重機を扱っている。
どうも一時的な工事を行っているらしい。
これは面倒だ……。
ちなみに誤解がないように言っておくと、もちろん作業をしている彼らに罪などはなく、逆に住みよい街づくりに貢献してくださってありがとうございますと感謝せねばならないのだが、こちらとしてはなんとも運が悪い。
仕方ない、別の道で行くか。
余裕をもって家を出てよかったと安堵の息をもらしつつ、僕は踵を返した。
そうしてしばらくの間、普段は通らない家々が立ち並ぶ道を歩いていると。
「――、―――!」
怒鳴り声、だろうか。
遠くの方からなにやら荒々しい声が聞こえてきた。
閑静な住宅街に不釣り合いなそれに首を傾げる。
どうも女性の声のようだが、果たしてこの先で何が起こっているのか。
気持ち足早に進んでいくと、次第にその内容が聞き取れるようになってきた。
「――んであんたは言うことが聞けないの!?」
数メートル先から響いてくるヒステリックな女の叫び。
「さっさと死んじまいな!」
――バタン!
それに続く、窓を力強く閉めるような音。
そして、静寂。
まだ女の叫びの余韻が耳に残る中、僕は一軒の赤い屋根の家の前で立ち止まった。
何の変哲もない一軒家である。
錆びの浮いた門扉。その先に見える玄関扉は固く閉ざされている。
家の周囲はぐるりとブロック塀で囲われており、中の様子をうかがうのはなかなかに難しい。
しかし門扉の隙間からこっそりと庭をのぞくと――それは、いた。
犬。
雑種、だろうか。
リードでポールにつながれたキツネ色の毛並みの犬が、そこにはいた。
ただし目をそむけたくなるような姿で。
ぐったりと地面に横たわり、生死の判断はかろうじて上下する腹から見て取れる程度。
その腹もあばら骨が浮き出ており、大型犬のサイズであろうその身体は、毛は抜け見るからにやせ細っている。
本来なら精悍な顔つきであろうそれも、まるで生気を感じない。
あの声の主に――飼い主に虐待されてるのか。
犬の近くには水の入っていたであろうトレイがひっくり返って放置されており、辺りの地面が濡れている。
元気な犬ならあんなリード、かみ千切って逃げられるだろうに。
そんな力も残っていないのだろう。
ボロボロのリードが付いた赤い首輪は、犬の首に食い込んでいるようにも見える。
弱いものは逃げられない……耐えるしかない、のか。
呼吸をするのも苦しそうな犬を手の届かないところから見つめながら、なぜか僕には幼い頃の日々が思い出された。
あの時、もしも誰かの手によってもっと早くあの日々が終わりを迎えていたならば……今の僕は、どう変わっていただろうか。
そんな柄にもないありもしない仮定が頭に浮かんだことに自嘲しながら、僕は飼い主に見つからないようそっと門扉から離れ、バイト先への道を急いだ。
そうしながらも僕は、あの虐待されている犬のことが頭からずっと離れずにいた。
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