第6話 マンイーター

男が、全力疾走している。脇目も振らず全力で走っている。物凄いスピードだが彼は満足していない。もっと、もっと速く。彼は速さを求めている。


彼は陸上選手か?彼はマラソンランナーか?

否、それは違う。何故なら彼が身にまとうのはトレーニングウェアでもユニフォームでもないからだ。彼はダークスーツに身を包んでいる。ダークスーツのまま、夜の街を全力疾走している。


何故彼は走るのか。彼には時間がないのだ。いやむしろ、もう時間切れなのかもしれない。だが彼は諦めない。ごく僅かに残った希望を胸に、血液を躍動させている。


彼は何者か?彼は刑事だ。殺人課の刑事。特殊な事件を追いかけて、ここ半年間も動き回っていた。今日、この日の為に。それが予期せぬことが起こり彼は全力疾走するハメになった。


我々は彼を知っている。彼は誰か?彼はかつて、失踪したと思われていた男。雪川ユリに粘着質に付き纏い、ついには危ない筋から金を借りて蒸発した男。妻子がありながらユキに言い寄り、挙げ句パワハラを繰り返していた男。ユキの手柄を横取りし主任から課長に昇進した男。


そう、思われていた男。それらの全ては偽りである。彼に妻子などなく借金もない。ユキに付き纏ってもいないし、まして彼はサラリーマンですらない。連続殺人事件の犯人を罠にかける為、とある筋から偽の身分を用意してもらい今の会社に潜り込んだ。


もちろん、ごく一部の上層部の人間以外は彼が警官だと知らない。ここまで、彼は上手くやっていた。被疑者との距離を程よく保ち、身元がバレた形跡もなかった。


あと、もう少しのところだった。不測の事態、というか予測はしていたが予測しうる最悪の事態が起きた。それ故今彼は、全力で走っている。


「頼む、生きていてくれ!」


そう思いながらとあるビルの階段を駆け上りドアを蹴破る。


「ああ‥なんで‥最悪だ‥神さま」


酸っぱい胃液がこみ上げてくる。


彼は思う。何回経験しようが、何度直面しようが、決して受け入れられないものだ、と。人の死に慣れるなんて事はないのだろう、と。


こういう職業だが彼はとても繊細なタチで、多くの人々がそうである様に彼もまた悩みを抱えている。


「自分はこの職業に向いていないのでは」


と。


彼は凄惨な現場に行き当たると、その日の夜からしばらく眠れない日が続く。そして今、彼の経験上で最も悲惨で残酷な場面を目の当たりにしている。


一人の男が仰向けに倒れている。


男は彼がここ半年をかけて追っていた連続殺人事件の被疑者。その男が頭に果物ナイフが刺さったまま倒れている。喉を切り裂かれているようで辺り一面が真紅の沼だ。


そこに、一人の女がいる。黒髪でロングヘアー、華奢な体つきをした少女のような女。女は倒れている男に馬乗りになってしきりに男の内容物を引きずり出している。


信じられないことに、彼女は遊んでいるのだ。もちろん倒れている男は既に事切れているのだが、これは死者に対する冒涜以外の何物でもない。女はまるで小さな子供が泥んこ遊びをするかの様に男から引きずり出した内容物を弄んでいる。ちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返してはケラケラと笑い声をあげている。


その表情だけみればまるで無垢な少女そのものだ。しかし女は全身を紅く染め、そうでない部分の方が少ないくらいという狂気の出で立ちである。無垢な少女と呼ぶにはあまりにもおぞましいケダモノである。


刑事である男はそのケダモノを前にして束の間、声を失う。


とその時、彼女は自分を一心に見つめる視線に気が付いてその手を止める。そうしてドアの前で小刻みに震えている男を見つけ彼に向かって微笑む。


「あはぁ♡りょーちゃん。おっそいよぉ」


彼女は刑事を「りょーちゃん」と呼ぶ。


男は懐から携帯を取り出し、どこかへ連絡をし始めた。しかしその手はまだ、震えている。


「的打です。たった今、見失った被疑者と特例捜査官を発見しました」


男の名前は的打(マトウチ)というらしい。


どこかに現状の報告をしているようだ。


「はい。そうです。被疑者は‥‥特例捜査官、檜山(ヒヤマ)ミサオによって、既に殺害された後でした。申し訳ありません。自分の責任です」


彼女は、男の遺体に馬乗りになっている女はどうやら檜山ミサオという名前で特例捜査官という立場にあるらしい。


「はい。本当に、申し訳ありません。はい。檜山捜査官はまだ現場におります。はい。それで、至急応援を寄越して下さい。というよりも‥‥」


そう言って的打は再び遺体の方へ目をやる。


「精神のタフな清掃班を一秒でも早く寄越して下さい。このままだと異臭騒ぎになります」


それだけ言うと的打は携帯を切り、手で口を覆って外へ走って行った。せめて現場を汚さない様にという、精一杯の彼の気遣いなのだろう。


真っ赤に染まった檜山と呼ばれる女はそれを見て一言


「りょーちゃんエライ!現場で吐かないなんて刑事の鑑だね!」


と言ってまた大声で笑いだした。


非常階段で吐きまくる刑事と、遺体を弄んで笑い続ける女。異様である。


殺人の現場であるにしても異様である。


まず、殺された男は的打が追いかけていた事件の被疑者である。そしてその男を殺したのが檜山ミサオである事も間違いなく、刑事である的打もまたそれを解っている。だが刑事であるはずの的打は殺人犯であるはずのミサオを現行犯であるにもかかわらず逮捕しない。


何故か。


ここで再び的打が部屋に戻ってきた。


二人の会話が始まる。


「檜山捜査官。なぜですか」


「りょーちゃん。その呼び方はやめてって言ってるでしょ。ミサオって呼んで♡」


二人は互い目線を合わせない。


「ではミサオさん。なぜですか。なぜこんな事を」


「なぜですって、そう聞いてるの?」


ミサオは的打が言いたい事を解って上であえてからかっている。そういう喋り方だ。


「そうです。なぜこの様な事をされたんですか」


的打もまたそれを解った上で、我慢強く質問している。


「そうねえ‥‥」


ミサオはしばらく考えるふりをして人差し指を顎に当てている。


「我慢できなかったから、に決まってるでしょ?」


「そんな‥」


ダイエット中にチョコレートアイスを食べてしまった様な口ぶりである。欠片も悪いことをしたと思っていない。ミサオのそういった気持ちが的打にもありありと伝わってくる。


的打には、それが我慢できない。


「アンタ、一体ヒトの命をなんだと思って‥」


彼は最後まで言おうとしたがそれは叶わなかった。


今まで遺体に馬乗りになっていたミサオが目にも留まらぬ速さで的打をなぎ倒し今度は彼の上に馬乗りになった。腕で彼の右手を封じ、肘で彼の喉を潰れんばかりに押さえつけた。


「ゲッ‥ゲッ‥」


「あはははは、やだりょーちゃん、カエルみたい」


的打は必死にもがくがミサオはビクともしない。刑事として、的打は決して貧相な身体つきではない。一般的な同年代の男性よりも、体格に恵まれていると言って良い。その的打が、ふたまわりも小さな女性であるミサオをまるで動かす事ができないのだ。


ミサオは速さだけでなく、その力も尋常ではない。


「ねえ、りょーちゃん。」


ミサオは右手にいつの間にか果物ナイフを握っている。先ほどまで遺体の額に刺さっていたものだ。それが今、的打の額へと刃先が当てられている。


「ミサオって呼んで、って言ったでしょ。ずっと言ってるよねえアタシ。あとさ、アンタって言われるのアタシ一番嫌いなの。わかるでしょ?」


「ググ‥」


的打の苦しそうな表情を見て、ミサオは微笑んで少しだけ力を弱める。


「ゲッハァーッ」


「あははははははははははははは」


ミサオは機械的な笑いを繰り返す。目を見開いてひたすらに笑う。だがその目の奥に、光は無い。


つづく

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