第5話 紳士はいつだって、紳士でいようとする
ユリと夜の街に出てみたは良いが何処へ行くか迷っていた。何処か静かに飲める場所を探していたが生憎の金曜夜ときている。喧騒の中で早くも疲れてしまいそうだった。
そう遠くない場所に私の自宅があるのだが、彼女を招待するにはあまりに色気も素っ気もない場所過ぎた。自宅はあくまで寝に帰る場所でしかない。
諦めて混み合う居酒屋でも良いかとも思ったが、ユリがどうしも
「静かな処へ行きたいんです」
と顔を赤らめるのでその表情には勝てなかった。
私は仕方なく、例の狩り場へ彼女を招待する事にした。もちろん今夜中にユリをどうこうしてしまおうとは思っていない。
まだ実りが充分ではないのだ。香りも、艶もまだまだ歳月を必要としている。私たち二人の関係はまだまだ甘みを増すはずだ。その日まで我慢するべきだろう。
例の狩り場は先日のBARで引っ掛けた彼女を料理した後、直ぐにでも引き払ってしまおうと思っていたのだがこういう事もあるのだから運良く残しておいて良かった。
一応片付けてあるから来客でも何ら心配することもないのだがイマイチ気が乗らなかった。
「実はここ、私がオーナーをやっている店なんだ。今日は定休日でね。誰もいないんだ。」
「まあ。ただのサラリーマンではないと思っていたけど、まさかこんな素敵なお店のオーナーだなんて。隠してたなんてズルいですよ」
彼女は内装をみて子供の様にハシャいでくれた。
「いやいや別に意地悪じゃないんだよ。BARのオーナーとしては恥ずかしい話なんだが、酒に関してはまるきり素人でね。飲む専門なんだ。休みで人がいないと酒を作れるかどうか不安でね」
本当は別の女の臭いが染み付いた場所でユキと本当の愛を語るのが嫌だったのだがこの際、四の五の言ってられない。
「まあ。じゃあぴったりだわ。ワタシがお酒、作りますよ。こう見えても学生時代はBARでアルバイトしてたんですから。簡単な物だったらお任せください」
意外にもそんな風に顔を輝かすものだから嘘もついてみるものだ。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「喜んで。」
そう言って彼女はカウンターに入っていった。
どうやらバイトの話は本当らしく、私という客の為にキビキビとよく働いていてくれた。ところがいよいよ酒を作ろうという段階で彼女が困った顔をした。
「オーナー、由々しき事態です。今後のお店の経営に関わります」
「一体全体どうしたんだい?」
私は驚いて訊ねた。
彼女は心底真面目な顔でこう言った。
「氷がありません。これではカクテルなんてとても。水割りだって出せません」
そう言ってクスクス笑いだした。こんな茶目っ気ある部分も持ち合わせているなんて。つくづく彼女は素晴らしい。
「なら、オーナー自ら買いに行こう」
そう言って立ち上がると
「ダメですよ。先ほどだって今夜はワタシがご馳走するはずだったのにアナタが払ってしまうんですもの。せめて氷くらい、買いに行かせて下さい」
なるほど。せいぜい紳士ぶってはみたもののそれが逆に彼女への負担になっていたようだ。
これくらいは良いか、と頷いた。
「あっ、でも困った事が一つ」
「なんだい?」
その時、彼女はやっぱり悪戯っぽく笑ってみせる。
「この時間で何処に氷が売っているのかアタシさっぱり解らないんです」
「なら道案内を買って出よう。」
そう言って私たちは買い出しに出掛けた。
二人並んで夜道を歩いている。こうしていると端から見ればごく普通の幸せなカップルに見えるのだろう。だがしかしその実は、イカれた殺人鬼とその獲物。私にとっては真実だが、彼女にとってこれは偽りの幸せに過ぎない。
私というサイコキラーを信じて疑わず彼女の頭は今、二人の新居や家族の計画なぞを夢見ているのではないか。暖かい家庭と二人の未来に、心を弾ませているのではないか。そう思うと、私は生まれて初めて罪悪感というヤツに胸を締め付けられた。
もちろん、自分が今までしてきた事やいずれ彼女にしようと思っている行為に対してではなく、これほど自分を愛してくれる彼女を騙しているという事にだ。
驚くべき事に私はふと、ここでいいんじゃないかと思い始めた。ここが、サイコキラーとしての私の引き際なのではないか。私はもしかして、ここから社会が言う真人間という者に生まれ変われるのではないのだろうか。
そんな風に思い始めた。こんな気持ちは初めてだった。それもこれも、すべては雪川ユリという一人の素晴らしい女性の存在がなくては成し得ない。私は、もしかしたら変われるかもしれないのだ。
愛する彼女を、生きたまま愛し続けられるかもしれない。そう思えた。
その刹那、全身の毛が逆立つ様な出来事が起きた。最初は勘違いや気のせいだと思った。
そんなハズはないと。
そう思った。
氷を買おうと立ち寄ったコンビニ。そこでふと、視線を感じて周りに目をやるとガラス越しに遠くから一人、男がこちらの様子を伺っている。かなり距離があったので最初は気が付かなかった。しかし、相手があまりにまじまじとこちらを見てるのでついこちらも見入ってしまった。
するとどうだろう。
見れば見るほどにているのだ。あの、失踪したハズの課長に。ユリにしつこく付きまとっていた男に。挙句失踪して捜索願いまで出て、会社の席を無くされた男に。
酷似しているのだ。瞬間、私は危機感を感じた。もしかすると、本当にヤツなのかもしれない。ヤツが私たちの仲を羨んで何かしでかそうとしているのかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられず私はコンビニを飛び出した。外へ出て一目散に男のいた場所へ向かったがすでに跡形も無い。
このままではマズイと思ったが相手がいないのではどうしようも無い。しばらく周りを探したが見つからなかった。
見かねてユリが私の後を追ってきた。
「どうしたんです?急に飛び出して行って」
彼女も私の尋常でない雰囲気を感じとったようで息を弾ませてきた。
「主任、いや失踪したあの課長がこっちを見ていたんだ。」
私は勤めて冷静に説明した。しかしそんな偶然があるとは俄かには信じがたい。流石のユリも懐疑的な表情をしていた。
「何か、見間違いということも考えられますよ」
「いやしかし、確かにヤツがそこにいた気がしたんだ。危険かもしれない。キミはすぐに帰った方が良いかもしれな‥」
次の瞬間、ユリが私の胸に飛び込んできた。そして彼女から熱い想いのこもったキスをされた。
「今夜はどうしても、あなたの側にいたいんです」
ユリは震えていた。
ユリも不安ではあるのだが今の幸せな気分に水を差すようで受け入れられないという感じだった。
私もあまりしつこく言って心配させても悪いと思ったので
「まあ勘違いかもしれないな。ともかく、明日から身の回りに気をつけて。何かあったら直ぐに連絡をして」
とだけ言った。すると彼女は
「解りました。でももし仮に、またあの人が現れてもワタシ、全然平気です」
という。
「なぜだい?」
と訊ねると彼女は真っ直ぐ私の目を見て言い切った。
「だって今の私には、守ってくれる人がいるんですもの」
その言葉で私の想いが更に深まったのは言うまでもない。そうして私たちは再びあのBARに戻ったのである。
不安や障害を抱えた恋人達はより一層お互いを求め合う。私たちの距離はグッと近づいていた。
「お待たせしましました。どうぞ」
「ありがとう」
一口含んで感想をいう。
「こんなに美味いジンアンドビターズは初めて飲んだよ」
そう言うと彼女は大げさに吹き出してみせる。
「もう、お世辞ばっかり。自分でも大した味じゃないのくらい飲まなくても解るんですから」
「そんな事はないさ。本当に美味いよ」
私たちはごく普通のカップルがそうするように、じゃれ合って時間を過ごした。本当にこのまま、ごく普通のカップルとして過ごしていけるのか。殺人鬼の私がその過去のすべてを捨て、新しい人生歩んでいけるのだろうか。
人並みに、生きていけるのだろうか。
そんな淡い考えをしていたせいだろうか。それは突然、私の心に侵入してきた。洗い物をしながら鼻歌を歌うユリの横顔を眺めていたら突如としてもの凄い殺人衝動に駆られた。
彼女を括れ殺したい。
今すぐ。
今この絶頂に愛している時に。あのか弱くて細い、名前の通り百合の花弁のごとく真っ白な首に。この肉欲にまみれた爪を立てて真っ赤な色を加えたい。彼女から出た噴水を身体中に浴びた後に、その肉を思う存分貪りたい。
この様な感情が全身を支配しかけたが私はグッとこらえ平常心を取り戻そうとした。しかし我慢すればする程に、初めて心から愛したマキがどれほどに甘美な味わいだったかを鮮明に思い出してしまうのだった。
マキとユリが重なって見えた。マキの、あの柔らかで新鮮な肉を口に含んだ時の幸福感。
味でない味。
香りでない香り。
すべてが曖昧でそれでいて悦びに満ち溢れていたあの瞬間。
もう一度味わいたい。
もう一度あの体験をしたい。
脳みそから足のつま先めがけて、欲望が身体中を這いずり回る。よくある話なのかもしれないが、頭の中で声が聞こえた。
『分かっているんだろう?』
『普通の暮らしなんて無理なんだ』
『お前は特別なんだ』
『芸術的な愛の表現者なんだ』
その声は紛れもなく私の声だったが、普段の私とは打って変わって荒々しい口調だった。きっとこれが私の本性なのだろう。
『世間がお前をなんて呼んでるか知っているか?』
『世間がお前をどう思っているのか知っているか?』
「イートマン」
「え?」
突然、その言葉が口をついて出てしまったユリは私の独り言に驚いたようだ。
「ああ、いや。あの、ほら知っているかい?世間を騒がせている連続殺人鬼のこと」
私は興味があった。彼女が私をどう思っているのかを。私の真実の姿を知って、果たして彼女は一緒に生きてくれるのかを。
「ああ。あの若い女性ばかり狙った犯人よね。たしか‥名前が‥」
「イートマン」
私は力なく呟いた。もう理性が飛んでしまいそうだ。
「そうそう。それよね。たしかそんな名前だったわ。それがどうしたんです?」
ユリはそこでカウンターの中を掃除し始めた。マメでよく気がつく子だ。
「いやなに。キミぐらいの歳の子ばかり狙われてるじゃないか」
「そうなんですか?」
「そうだよ。それについてキミはどう思う?」
私はとにかく恐れていた。
ユリが、彼女の唇から私という殺人鬼を侮蔑する言葉を聞きたくなかった。
「どうって、怖いなとしか」
「どう思う?どんなヤツだと思う?」
「そうねえ…」
心臓の鼓動が早くなる。早すぎて、そのまま停まってしまいそうなくらい。彼女はしばらく考え、そしてゆっくり微笑んだ。
「よく解らないけど、人間てどんな事をするにも必ず理油があると思います」
「理由」
「そう、理由です。だからきっとその人も理由があってしてるんです」
「なるほど」
私は思い出していた。あの時、私を可哀想だと抱きしめてくれたマキを。
「解らないけど、きっとその人も人間だから。何かとても繊細な理由があると思うんです」
私の為に泣いてくれたマキを。私はユリに重ねていた。
「だから怖いけど、可哀想だなとも思いますね」
そう言って彼女は、また後ろに向き直って掃除を始めた。
「そっか。優しいんだな、キミは」
そう言うのがやっとだった。もはや私の理性は限界で、彼女を愛しすぎていた。気がつくと私は、いつだったかこの場所であの女を仕留めた金槌を手に持っていた。
一撃だ。一撃で楽にしてやらないと。
ちょうど後ろを向いているじゃないか。きっと彼女も私にこうされるのを待っているんじゃないか。そうに違いない。
早く、一つにならなければ。
早く、仕留めなければ。
私は音も立てず、彼女に近づいていった。もう後は腕を振り下ろすだけというところまできた。その時だった。
カウンターの後ろは一面ガラス張りになっておりそこには一人の美しい女性と
私と同じスーツを着て恐ろしい表情をした悪魔が、ヨダレを垂らしながら振りかぶっていた。口は耳まで裂け、目は吊りあがり、どす黒くて長い舌をチロチロと出していた。
だがそれが悪魔ではなく自分の顔だと気がついた時、私の中で何かが死んだ。私はヨロヨロと席に戻り、手から金槌を離して地面に転がした。
何が芸術だ。
何が愛の表現者だ。
何がイートマンだ。
結局ただの殺人鬼じゃないか。
ただのケダモノじゃないか。
醜い顔で、肉欲に従う化け物だ。こんな私でも、愛してくれようとする女性に今何をしようとしていたのか。あの歪みきった顔はなんだ。私は初めて自分が恐ろしいと思った。それでも情けない事に、彼女への欲求は収まっていなかった。諦められない悪魔が、また囁いてきた。
『おいおい。今更それはないだろ』
『ここまでお膳立てして止められないよな』
『あの女を喰ったらさぞ美味いんだろうな』
『そうだ普通に喰ったら楽しみがない』
『肉醤にしたら長く楽しめるぞ』
肉醤。それは思いつかなかった。素晴らしい案だ。それならユリの魂を瓶詰めにして長く楽しめる。なら今は我慢しよう。準備を整えなければ。
と言った具合に、深く怯えていたのも束の間、私はまた元の私にすっかり戻っていた。その時の私はユリを調味料にすることばかり考えていた。
とその時だった。
「ねえ。ちょっとお聞きしても良いですか」
「なんだい?」
ユリが後ろを向きながら質問をしてきた。
「どうして嘘をついてるんです?」
「え?」
いつもの彼女と違う、低いトーンの声だった。
「今日は店が休みだから、だなんて。ここ、ずっと営業してないでしょ」
背中に冷たいものが走った。
「なんで、そんな」
「だって、ここ。ぜんぜん掃除した形跡がない」
しまった。しばらくユリの事にかまけていて掃除がおろそかになっていた。
だがそれがどうしたというのだ。
「いやあ、スタッフが掃除が苦手なんだろう。確かそうだったよ」
ひとまず取り繕っておく事にした。もしかしたら彼女は掃除にウルサイのかもしれない。
「う、そ」
「え?」
また一オクターブ低くなる。
「言ったでしょ。学生の時、BARでバイトしてたんですよ?どれくらいここが使われていないかくらいすぐ分かるんですよ」
「いや、それは」
また何か言い訳をしようと思っていた。ひとまずここを乗り切って、もう彼女を送っていこうと思っていた。早く家に帰って肉醤について調べたいと、そう思っていた。
だがその願いはあっけなく、打ち砕かれる。
なぜならその瞬間、私が次の言葉を言おうとした瞬間。突然私の額にナイフが生えた。
痛みも衝撃もない、刹那のことだった。
「ワタシね、嘘って大嫌い」
そう言うとユリは手に持ったナイフで私の喉を一閃した。事切れる意識の中で私が最後に目にしたもの。それは、私から吹き出す紅を浴びてとても喜んでいる。ユリの服を着た、先ほど同じ、恐ろしく醜い悪魔の顔だった。
「アンタのこともホントは大っ嫌い」
それが最後の音だった。
つづく
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