第8話 家出娘と猫
不釣り合いなふたり。
それが僕には褒め言葉だった。
彼女は背が高い。僕よりも五センチ高くて、ヒールを履いたら見下ろされる。彼女はすらりと細くて、短い髪が似合っている。
対して僕は背が低くて、ずんぐりむっくりでお腹がぷよぷよだ。煙草は吸わない。酒はちょっと嗜むくらいで、酔いつぶれて誰かに迷惑をかけたことはない。それぐらいが僕のとりえで。
それでも何故か、彼女は僕の隣にいた。
ふたりが住むには少し狭い、八畳の和室。
朝起きて、布団をしまい忘れていると背後から彼女が枕を投げてくる。
テレビをつけてダラダラしていると、彼女がキッチンに立って朝ご飯をつくる。朝なんてパンを焼くだけでいいのに。わざわざ牛乳と卵を使ってフレンチトーストにする。ふわふわで甘くておいしい。彼女は料理が上手だ。僕が美味しいというと、僕の皿におかずを盛ってくる。だから僕のお腹はぷよぷよのままだ。
たまには僕も食事をつくる。袋麺しかつくれない僕は、小さな鍋にお湯を沸かして、袋麺を茹でてそこに直接スープの粉を入れる。仕上げに卵を落としたら完成。彼女がつくるご飯とは雲泥の差だ。
食事も睡眠も。大学も。バイト以外は一緒だけど、別段イチャイチャしたりはしない。布団は二枚敷くし、どちらかがどちらかの布団に入ったりはしない。キスだとか手をつないだりだとか。それよりも同じ番組を見て笑ったり、同じ歌を聞いたり。向かい合わせになることよりも、隣にいることの方が多い。
そんなふたり暮らしは、二年ばかり続いている。——そして、突然に終わりを告げる。
「お昼できたよ、優人」
昼食、彼女が親子丼をつくってくれた。
鶏もも肉と玉葱とを炒めて、すき焼きのたれで味を調えてから卵でとじる。手抜きでごめんと彼女は笑いながら言う。袋麺しかつくれない誰かさんより百倍マシだ。そう言うともう一度、今度は噛みしめるようにゆっくりと口角を上げて、笑った。
「——いつも、私を褒めるとき、自分を下げるよね」
彼女の言葉が沈黙をつくった。
「そうか? でも僕にはこんなおいしいご飯は作れない」
「ほらまた」
「本当だからしょうがない」
ふざけ合ったり、茶化し合ったり。そんな会話もしたことはあるけれど、どこか彼女は神妙な顔つきだった。僕は会話の内容というより、彼女を取り巻いているいつもとは違う気迫に動揺した。
静寂の中、テレビの中でタレントがげらげらと手を叩いて笑っていた。——そして、彼女が座卓の上に箸を置くぱたりと固い音。
「ねえ、優人」
「なに?」
「私ね、東京に行くことにしたの」
それを聞いた瞬間、僕の頭はフリーズしてしまった。聞き返すまでに、少し時間がかかった。
「——東京に行って、どうするんだ?」
彼女の視線は、壁に立てかけてあるアコースティックギターに投げかけられていた。彼女がよく弾いている相棒だ。暇があれば彼女は、ボブ・ディランというアーティストのソングブックを広げて練習をしていた。英語を話せるかどうかは知らないけれど、英語の歌はよく歌っていた。
『ハーモニカを吹きながら弾くのが、まだできないの』
そう言って笑う彼女の顔が、思い浮かんだ。彼女はハーモニカも練習していた。音色を褒めると、これはブルースハープだと言われた。僕にはボブ・ディランの曲もブルースハープもよく分からない。彼女が曲を流したり弾いたりするときも、彼女がそうしたから、僕には心地よく聞こえるのだった。
「——ギターを弾いて、歌うの」
彼女はギターを真っ直ぐに見つめて、落ち着きのある声を出す。
対して、僕の唇は震えはじめていた。
「それは大学のサークルでもやってるだろ」
「そうだけどね。皆は2000年代以降の新しいアーティストをルーツにしたがってね。別に嫌いなわけじゃないんだけれど、なんか自分のやりたいこととはズレてるかなって」
彼女がそういうのなら尊重したいのだけれど、嫌だった。
いつもとは違う。彼女の視線の先に僕がいない。彼女の視線の先には、彼女が愛用していたギターがあった。
「三日後、私、東京に行くから」
朝起きると彼女がいて、笑顔でご飯をつくってくれる。
一緒にテレビを見て、一緒に笑ってくれる。僕の前でギターを弾いて、綺麗な声で歌ってくれる。そんな日々が永遠に続くと思っていた。
でもそれは、思い違い。そう気づいたぼくは、三日が何時間なのか、何分なのか、何秒なのかと計算しながら親子丼を口に運んだ。
いつもは、会話を促す潤滑剤だったご飯は、彼女の一言で僕が会話から逃げ出すための道具に成り下がった。
「美味しかった」
自分でもびっくりするぐらい、そっけない声を彼女に吐いた。
「ねえ。優人は、ふたりで行きたい場所とかある?」
「——どうせ、別れるんだろ?」
「そうだね、ごめんなさい」
そして自分でもびっくりするぐらい、そっけない言葉も。
彼女は頭を垂れながら、キッチンで洗い物をし始める。まるで、僕のそんな態度が悲しいみたいに。僕は床に座り込んで、壁にもたれかかったまんまで、彼女の背中に向かって声をかけた。
「たった三日で、家はどうするんだ?」
「おじいちゃんの家があるから、そこで」
「大学は?」
「音大に転入するつもり、落ちるかもだけど」
理路整然と答える彼女。僕を脅すとか、出まかせだとかではないことが感じ取れて、余計に悲しくなった。だから口をつぐんでしまった。
言いたい言葉はいっぱいあった。どうして急にだとか。今日もご飯美味しかったよだとか。卵がふわふわだったとか。鶏肉がぷりぷりだったとか。——あれ、こんなときまで、彼女を責める言葉が出てこないや。
僕はそのまま、昼間のまどろみの中に落ちて行った。
真っ黒に閉ざされた世界に、意識だけが放り出される。
夢の中に落ちた。そう知覚した。夢とは不思議なものだ。妄想とか想像だとかのように、何も考えようとしなくても、おのずと僕に見知らぬ世界が与えられる。
「情けないな。君は」
だから、暗闇の中で声だけの存在に話しかけられても、何でもありだ。そして、僕はその声の主に、平然と話しかける。
「誰だ?」
「ボクかい、きゃははっ! そうだね、ボクはカミとか、言われているけれど、アクマかもしれない。そんな感じ?」
悪戯好きの男の子のような声で、聞こえる方向もきゃっきゃきゃっきゃと飛び回っている。
「……、何を言っている?」
「ボクが何を言っている。そーかそーか、ボクが何か意味のある事をしなければいけないし、ボクが何か意味のあるものを君に与えなければいけない。君は、えらく受動的な存在だね。ボクに存在する意味を求めるクセに、自分にはそれを見出していない。あーあ、情けない。情けないったら情けない」
「僕をバカにしているのかっ!」
「あーあ、怒っちゃったよ怒っちゃった。ボクが言った感想が気に喰わなかった? ごめんごめーん。でもそれってボクが、君に対して何か意図があるとでも思ってるからそうなるんでしょ?」
こちらをからかっているような声。声というものは舌から出るが、その声自体に舌がついていて、傷口を舐めまわされているみたいだった。
「そんな怖い顔しないしない。ボクは別に、君にどうこうなって欲しいとか思ってないからさ。まっ、強いて言うなら、君に見て欲しい未来があるとか? きゃははっ! まーあ、未来がこの通りになる保証なんて一切ないんだけどねーっ! あははははっ!」
甲高い笑い声とともに、床をバンバンと手でたたくような音が闇の中に木霊する。気に喰わない。気に喰わないけれど、これは夢だ。夢というものは、現実と対比でよく使われるが、その実は現実と非常によく似ている。どちらも僕の意見を意にも介さず、思う通りには進まないもの。
「だからさ、まあ気楽に見るといーよ。じゃあ、ボクの身体を貸してあげるねっ」
彼がカミかアクマか、それ以前にこれは夢だ。
ひどくふざけたもので、それが本当に未来だとかどうとかはない。
それは、これから僕の身に起こることには関係がない。
ふかふかしたクッションの上で目が覚めた。
クッションには、黒い毛が何本か絡まっている。汚いなあと思って自分の手を伸ばす。すると真っ黒で毛むくじゃら。というか、毛が生えているけれど、僕の手足みたいに汚らしい感じじゃない。てらてらと光っていて、ふさふさとしている。掌は指が短くて丸っこくて。爪は鋭いけれど、隠してしまえばほら、こんなに可愛い猫の手だ。
……。あれ……?
「ね、ねぇああおおおおおうっ!?」
僕は、口と舌を一生懸命に動かして、「ね、猫ぉおおおおおっ!?」と叫んだつもりだったけれど、猫になってしまった僕には、そんな声しか出せなかった。これが、おしゃべりペットとしてテレビでもてはやされるほどの発語能力なのかは疑わしい。
とにかく、僕は猫である。
名前はもうあるのだろうか。
そんなくだらないことを考えるまでもなく、答えは視界に飛び込んできた彼女の口から発せられた。
「クロ、起きたんだ。変な夢でも見たの?」
黒いからクロ。なんとも安直な名前だ。
ネズミ捕りにひかっかりでもしたかのような声を、彼女はからかってくる。猫になってみると、より彼女の背の高さを感じてしまう。彼女は椅子に座ってるというのに、首が痛くなるほどにまで首を上げないと、彼女と目を合わせることができない。——いや、猫になっていたから、首は痛くならなかった。
椅子から立ち上がって、しゃがみ込み、僕の喉を線の細い綺麗な指で撫でた。猫になった僕の体温は高く、彼女の指が冷たく感じたけれど、それはそれで気持ちが良かった。
喉を撫でて、今度は頭を撫でる。頭を撫でられると、自然と目が閉じられて、ふわぁあとあくびが漏れた。
彼女と僕のいる部屋は、いつっものあの部屋と少し似ていた。
ひとりと一匹で、僕はおまけに猫だからか、いつもよりは広く感じる。けれど彼女が独り暮らしになったからって、部屋がそこまで女の子っぽくなるわけでもなかったようだ。
むしろ、僕と暮らしている部屋にある、本棚やCDラック、コンポゲージが見えて——僕と彼女の部屋にあるものが、持ち出されたのかと思うと胸が痛くなる。こうして見ると、あの部屋には彼女のものが多い。
そして、そこに彼女の愛用するあのギターもあった。
彼女はそれを手に取ると、膝の上に乗せて。水差しからコップに水を注ぎ、一思いに飲んで喉を潤す。
「クロも飲む?」
水差しから水が、僕の目の前にある赤いペット皿に注がれた。
言われてみれば、喉が渇いた。舌を出してぺろぺろと飲んでみる。
再び彼女は座り直す。ギターを抱えながら、水を飲む僕を見下ろしている。
「クロは、私に拾われて幸せ?」
唐突に彼女はそう聞いた。
「私のことをね、拾った人がいるんだ。音楽が好きで、将来は歌手になるって、聞かなかったから父さんに追い出されちゃってね。——でもね、私、父さんが歌を好きだっていうの知ってたから。私が歌が好きなのは、お父さんのせいなの。子供のときも家に帰ると、コンポゲージから音楽が流れて来ているときは、お父さんがいるという合図だった」
彼女はギターを数回叩いて、ワンフレーズだけ弾いて口ずさむ。
「そうね、よくかかっていたのは、フランク・シナトラのマイ・ウェイだったわ。
悔しいけど好き。最初はゆっくりと穏やかだけど、曲が進むにつれて感情が高ぶるのと呼応して、突き上げてくるの。——あれは、情熱的な構成だわ」
彼女が音楽を語ることはよくある。
そして僕は、彼女が語るそれを、理解することはない。僕にとっては、彼女が理解できないことが価値みたいなものだから。
僕が首をかしげると、彼女は笑って、僕を「あの人と似ている」と。——あの人とは、もはや彼女の中で過去になってしまった僕のことを指しているのか。
「あの人には感謝している。あの人のことは今でも好きなの。悲しかったけれど、もっと一緒にいたかったけれど、私は、あの人を好きなままで別れたかったし。あの人のことを嫌いになりたくなかった。あの人に嫌われるくらいなら耐えられるけれど、あのままずっと一緒にいて、いつか自分があの人を嫌ってしまうことが耐えられなかったの」
彼女はまた、僕が分からないことを口走る。
眠りに落ちる前、彼女は人懐っこいいつもの声で僕に言った。
『ねえ。優人は、ふたりで行きたい場所とかある?』
あの声には、僕らがたった三日で壊れてしまうとか、そんな翳りは感じられなかった。それに彼女は、歌を歌うために上京するのであって、僕を嫌いになったわけではない。だけど、だけれど。好きなのに別れたいという彼女が、僕には理解できなかった。
「にゃおにゃお」
そんな悲しいこと言わないでくれと、僕はしおらしい声を出した。
あのカミとかいう奴が、僕をまた腹を抱えて笑って来そうだ。
「……そうだね、クロも酷いって思うよね。私はすごく自分勝手なの」
勝手だ。勝手だ。
そう言って責めたいけれど、僕は猫で。そして、僕を撫でる彼女の瞳は、少しだけ潤んでいた。
「行き場をなくして泣きついて。一緒にいてくれて、一緒に笑ってくれて。私の歌を聞いてくれて。私ね、あの人に喜んでほしくて、色んなことしたよ。ご飯もいっぱい作ったし、色んな所に行ったけれど。あの人は、‘私だから嬉しい’とか、‘自分は駄目だから’とかいつも言うの。‘私だから’全てが良くて、——すべてを肯定されると、何をやってもあの人に甘えているみたいで。……自分の中で、だんだんあの人の存在が‘負い目’みたいになって来て。ほんと、自分勝手だよね、私。ほんとひどいよ、私……」
呼吸が危うくなって、彼女の右眼から滴が流れ落ちた。
涙で少し涸れた声で、再びワンフレーズだけ、マイ・ウェイを口ずさむ。
それから、彼女は実家に帰ったときの話をした。僕の家は、家出先で。実家に帰っては、父親と喧嘩をして帰って来る。
だけれど、僕に別れ話をする少し前に、実家に帰ったとき。彼女の父親は、彼女にマイ・ウェイを歌ったのだそうだ。
それが、彼女の夢を認めてくれた父親成りの意思表示だった。嬉しくて嬉しすぎて、声を上げて泣いたと。辛かったと。「お父さんが好きにしてくれた歌のせいで、お父さんを憎まないといけなかったから」
でもその言葉を受けて、彼女自身は振り返ることはできなくなった。——そして、僕は彼女の背中を見送ることになった。
「でも結局、……私は、夢のためと言って、あの人が優しいことを利用して、別れを切り出した。いつでも自分を肯定してくれるから。——ひどいよね。ひどい女だよね。こんなひどい女が、あの人を嫌う資格なんてないし、嫌いたくない。だからね……、あんなさよならしかできなかった」
そこで僕は、自分の薄っぺらさを思い知った。彼女を盲目に肯定し続けていたことが、彼女の重荷になっているだなんて。想像もしなかった。僕が、彼女を肯定するために、自分を否定することが、彼女自身を否定することになるだなんて。
僕にとって、彼女が理解できないことが価値?
馬鹿言うな。彼女を理解していないただの馬鹿なだけだろ。
僕はただ、彼女の気持ちに見向きもしないで、軽薄な言葉を吐いていただけだろ。——何だよ。何だよ。僕だって、僕だって十分にひどい男じゃないか。
どうすれば離れ離れにならずに済んだのかとか、悔しいけれど考えようがなかった。どこを見渡しても高い壁か、深い谷かで阻まれていたようだった。
僕はその向こう側をひとりで歩いていく彼女に、思いを馳せることしかできないのか。
猫に涙が流せるのなら、泣いてしまいたかった。
涙を流せない僕の前で、彼女は歌を歌った。彼女自身がつくった歌だという。——胸に痛い歌詞だった。
締め付けられるような痛みに目を閉じて、もう一度開く。
そこでちょうど、目が覚めた。
ぱしゃりと音がした。しゃがみ込んだ彼女が僕にカメラを向けていた。ファインダー越しに、にやにやと悪戯っぽく笑っている。
「何してるの?」
「寝顔撮ってる」
それは見れば分かる。僕の不細工な寝顔を撮って意味があるのかとか。ああ。こんなことを考えてしまう僕は、反省が足りないな。
「私のことも撮ってみる?」
「……さっきはごめん」
「なにが?」
「ふて腐れたようなこと言ってしまって。夢を追いかけるなら、僕は応援するよ」
そう言うと、彼女は少しだけ口を歪めて、顔を俯ける。
「ありがと……」
そして決まり悪そうに、つぶやいた。僕は素直に彼女のことを応援するつもりでいるけれど。まだそれは、彼女の中で優しさと思われているのか。いつの間にか、お互いに、本当の気持ちが何なのか、分からなくなっていたんだな。
「じゃあ、私に教えてくれる?」
「何を?」
「さよならまでに行きたい場所」
僕が伝えた場所は、近所の公園だった。
いつでも行ける場所じゃんと彼女が漏らした。間違いないけれど、僕と彼女の日々はこんな風に、特別じゃないところが特別なのだった。
通り道にソフトクリーム屋があって、そこで僕はバニラ味を、彼女はイチゴ味を買った。たまには違う組み合わせもあるけれど、この組み合わせが多い。
「今日も暑いね」
「そうだな」
ふたりでベンチに並んで座って、笑い合う。
こんなカップルが三日後に別れるだなんて、おそらくは誰も思わないだろう。じりじりと照り付ける太陽に、汗ばんだ彼女の手。
それがてくてくとベンチの上を歩いて、僕のごつごつした手をつんつんとつついた。
「ねぇ、久々に手つないでみる?」
僕がこくりと頷くと、彼女の右手は飛びかかるようにして僕の左手を捉えて。指と指の間に指を入れて、何度も確かめるようにぎゅっぎゅと握りしめるのだった。
「あと三日だね。何をする?」
「そうだな、何をしようか?」
こんな呑気なやり取りがあるだろうか。
もう少しで別れるというのに。
部屋に帰ると、彼女が荷物を纏める準備をし始めた。それに僕も加わった。CDを纏めるのが本当に時間がかかる。彼女がジャケットを手に取るたびに思い入れを語るからだ。
彼女が嬉々として、コンポゲージに入れたのは、フランク・シナトラのマイ・ウェイだった。
口ずさみながら、CDを片付ける彼女。それに僕も加わった。僕は歌詞を知らないから、調子も外れているし。歌詞は全部ラララで押し通してしまっている。そんな僕のへたくそな歌を、彼女は笑う。
布団を一緒にする? ねえ、久しぶりにキスしない?
彼女は僕との日々を噛みしめるように、そんなことを聞いてきた。彼女の中で、僕との日々を後悔がないものにしたかったのか。僕はできるだけ彼女の気持ちを汲んで、ざらついた髭の生えた口を彼女のぷっくりとした艶やかな唇にあてがった。
部屋の中に増えていく段ボールたち。
見つめていると寂しくなるけれど、もう彼女を責める言葉は生まれなくなってしまっていた。彼女の全てを盲目に肯定していた自分とはもう違うと言いたいけれど、何ひとつ行動に差異を示せていない自分が歯がゆい。
そんなまんまで、最後の日は訪れた。
段ボールにまとめられた彼女の荷物たち。それらを迎えに来るのは、またもう少し後だという。彼女は、着替えと化粧品をいくらか積めた旅行鞄をがらがらと引いて玄関に立つ。
僕の背後には、迎えを待つ段ボールがいくつか。それと、やけに広くなったふたりで過ごした居間があった。
「……じゃあ、優人。今までありがとう」
「——ああ」
互いに俯いたまま時間が止まってしまう。
しばらくすると彼女はビニール袋を取り出して、控えめな高さのヒールをその中に入れて、旅行鞄の中に入れた。
「残った荷物は業者が取りに来るから。応対よろしくね」
「ああ。東京行っても頑張れよ」
「……うん」
ジッパーを閉める。ちょっとだけ不格好な出っ張りが出来てしまった鞄。くるりくるりとひっくり返して笑ってみせる。
「じゃ、行くね」
「——待って」
ドアノブに手をかけて、開きかけたところで彼女を呼び止めた。
「少しだけ、ついていっていいか」
僕は彼女の旅行鞄を持った。
彼女は彼女の相棒であるギターをケースに入れて。最後のふたりのそぞろ歩きだ。夏の終わり。熱いアスファルトを踏みしめるのは、僕のサンダルと、彼女のパンプス。
しばらく歩くと、つい三日前にふたりでソフトクリームを食べた公園があった。彼女は電車で今日東京まで行く。行ってしまう。本当に今日なんだ。
そう思ったけれど、何を話していいか分らない。
まだ青々とした楓の植えられた道。昨日ふたりで行った喫茶店。どんどん最寄りの駅が近づいていく。そして、今日は「最後だし、手をつなごうか」とか、彼女は言わない。
ただ、まばらな車の音と。僕の不躾な足音。彼女の整った足音。それらが静寂の中を木霊する。
行ってしまう。彼女が行ってしまう。
僕がついに口を開いたのは、もう駅の入り口の前だった。
「……、なあに?」
「ありがとう。僕と一緒にいてくれて。楽しかった、一緒にいてとても」
「——そう」
立ち止まって、短いため息をつく。
「引き留められるかと思った」
「……、そうして欲しかった?」
「さあ、どうだか。ここまで来て、私も諦められないし。——私、別れるけれどね、優人のことは好きだから。——優人は、別に覚えていなくてもいいけど」
「……馬鹿言うな。覚えておくよ。僕は、それが聞けたら充分だ」
彼女は僕の額を、中指でこつんとはじいた。
「ったっ!」
「無欲な人。そんなんじゃまた、優しい人で終わっちゃうぞ! 今度会うときは、かっこ良くなって、私を悔しがらせて。——もう優しい人で終わっちゃ駄目だよ」
「——ああ」
優しい人。彼女が夢の中で歌った歌を聞いた後だと、痛い言葉だ。
「そっちこそ、かっこよくなれよ」
彼女が屈託のない笑みを浮かべて、親指を立てる。「もちろんだ」とその親指が謳っていた。
僕は立ち止まる。彼女に、旅行鞄を渡した。
アスファルトの上をキャスターがなぞる、がらがらという音。僕は手を振ろうかと思ったけれど、その背中は振り返る様子はなかった。——終わった。僕たちは、終わってしまった。
いつもよりも数段ひどくなってしまったなで肩を、一匹の黒猫が笑っていた。
‘情けないな。君は’
そう言われているような気もしたが、気のせいだと思うことにした。不思議なことに、どこか清々しい気分だった。僕と彼女は終わってしまったのに。
彼女が歌の中で行った言葉を借りれば、僕と彼女は運命じゃなかっただけ。そして、彼女が僕を好きなのは、本当の気持ちだった。それを、あの夢は教えてくれたから。
僕は、夢の中だというのに、今でもやけに覚えているその歌詞を、そのメロディを口ずさんだ。
好きなままで別れたいとか
優しすぎるあなただから 許せたんでしょう
もしも人生がもう一度あるのならば
あなたと結ばれたい
だから涙が今も頬を流れ落ちるの
どこかで幸せになっていて
運命じゃなかっただけなのよ
いつかそう笑えるように
「——いい歌だな。ちくしょう」
ひとりで歌って、泣いて笑う僕を、黒猫が笑っていた。
【作者の情報】
作者:FELLOW
【普段の作品】
パッチワークソウル ほか。
http://ncode.syosetu.com/n9579dg/
【作品の紹介】
転校生は、クールビューティーな魔女だった? から始まる特濃キャラが目白押しの魔女っ娘ファンタジーです。
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