第6話 ヴォルフ【ヒトラーと呼ばれた男の数奇な運命】

Ep.1 ヴォルフ


1931年、ドイツ。1933年のヒトラーによる独裁政権が誕生する2年前の事である――。


((吾輩は、ドイツを救わなければならない。ドイツをアーリア人主導の元導き、己の利ばかりを求めるユダヤ人どもを排除し、また、世界全土をあるべき姿へと導かなければならぬのだ。それが吾輩に与えられた使命。))


((それが…なんだ…これは。))


「どこだ……ここは」

「私の家よ」


((壁にかけてあるのは六芒星のタストリ。ユダヤ教の紋章である。反ユダヤ主義を掲げる吾輩がこんなところにいて良いわけがない。ましてや手当など))


「ユダヤの慈悲はうけん」

「そんな事いっても、その怪我じゃ…」

「くっ…」


((なぜ、吾輩がこんなところにいる。))


「ほら、じっとしてて。拳銃で胸を撃たれているのよ」

「なぜ、吾輩はここにいる?」

「共産党の兵隊さんに追われていたわ」

「なに、赤色せきしょくに?」


((赤色戦線戦士同盟せきしょくせんせんせんしどうめい。確かに、我がナチスの突撃隊と衝突はしているが…。))


「しかし、何故吾輩が追われる。突撃隊はどうした?」

「お兄さん、ナチスの人?」

「何を言う。吾輩こそヒトラー。アドルフ・ヒトラーであるぞ。吾輩の顔を知らぬのか」

「何を言っているの?ヒトラーがそんなに若いわけないじゃない」

「なに?」


((鏡。タペストリが掛けられた祭壇の隣にある鏡台へと目線を移す。))


「な……なんだこれは!?」


((映された姿は……吾輩の知っているそれではない。まだ20歳そこそこの若造の姿。吾輩は今、43歳である。来年には内閣を発足し首相に就任する道筋も立てたのだ。その為にヒンデンブルクとも裏で手を握り、この大統領選挙を終えたばかりである。

それが、なんだこのナリは…。))


「大丈夫?スパイだとか言われてたけど……あなた、お名前は?」

「アドルフ……いや、ヴォルフ。ただのヴォルフだ……」


((いずれにせよ、アドルフ・ヒトラーがユダヤの世話になどなってはならぬ))


「ヴォルフ。安心してゆっくり養生なさって」


――アドルフ。“高貴な狼”を意味するその名の野心家は、ここにヴォルフ、つまりは“ただの狼”として数奇な運命をたどることとなる。



Ep.2 ゲリ


 その前日。ミュンヘン。


「なんなのよ、あの女は!」


 食卓を挟みヒトラーに罵声を浴びせる少女。いや、少女と言ってもその歳はすでに20を超え、23歳となる。しかし、そうは見させない風貌は、彼女の天真爛漫なる性格の為であろうか。


「ただの写真家の助手だよ、ゲリ」


 ゲリ・ラウバル。彼女はヒトラーの異母姉、アンゲラ・ヒトラーの娘であり、ヒトラーの姪にあたる。


「ふざけないでよ。知ってるのよ。エヴァ・ブラウン。あの女、あなたにラブレターなんかよこしてきたわ」


 ゲリが懐から手紙をとってみせる。


「それは…知らん」

「知らないですますつもり?いつもそうじゃない。エミールを解雇したのも、オスカルが去って行ったのも、あなたの仕業でしょ?」


 ヒトラーは殊更にゲリを寵愛していた。その関係は叔父、姪のそれを超えるもので、周りの人間も周知の事実として認めていた。エミールは、運転手を務めていた親衛隊の指導者。オスカルはゲリと交際をしていた画家である。いずれも、ヒトラーの画策により、ゲリの前から姿を消した。


「あなた、言ったわよね?世界の全てを私にくれるって。なに?ベッドの上の世迷言?」

「ゲリ、よさないか!」

「いいえ、やめないわ。それがなければあなたと一緒にいる価値なんてないの。早く私に頂戴よ、世界の全てを」

「世界の前に、まずはこの美味な食事を味わいたまへ。せっかくシェフが用意してくれたんだ」

「私は肉は食べないわ。子羊のダンプリングはあなたの好物でしょ?私の事なんてなにも考えてないじゃない」

「ゲリ……いいかげんにしないか」

「知ってるのよ。あの女、ユダヤ人の血が混じってるでしょ。ユダヤを擁護する為にあなたに近づいているんだわ。許さない。あの女の好きになんてさせないんだから」

「やめないか……」


 ヒトラーは背後に控えた親衛隊に視線で助けを求める。


「ヒューラー(指導者の意)、そろそろご出発のご支度を」

「おお、もうそんな時間か。ニュルンベルクで幹部会であったな」

「はっ」

「ゲリ、悪いがこの話はまた今度にしよう」


 言うと、ヒトラーはナイフとフォークを置き、ナプキンで口元をぬぐう。


『ガチャン』


 ゲリは、激しくテーブルを叩きつけ、ヒトラーを睨む。


「さあ、行こうか」


 ヒトラーは一瞥することもなく席を立ち、部屋を後にした。


「私はおじさんとは違う……。私はおじさんみたいにはならないわ。回りくどくてぬるいのよ。見てなさい……」




Ep.3 ヒトラー


 翌日。ニュンベルクへ向かう途中のホテル。

車へ乗り込むヒトラー。車の中には、ヒトラーの友人ハインリヒ・ホフマンがすでに乗り込んでいる。


「アドルフ、どうしたんだね?今日はなんだかそわそわしているようだが」

「ホフマン。すまないね、気になる事があるんだ」

「ゲリの事かな?」

「……そうだな。ああ、そうだ」


 そのとき、ホテルのボーイがヒトラーを呼び止める。


「ヒトラーさん、ヒューラ・ヒトラー、お待ちください」

「ふふ、きたか」

「なんだねアドルフ、心当たりがあるのかい?」

「いや……。ボーイ、なんの用だね?」

「ヒューラー、お電話でございます」

「どこから?」

「ミュンヘンでございます」

「やや、ゲリかな、アドルフ」

「そうかもしれないな。少し待っていてくれたまへ、ホフマン」

「ああ。ごゆっくり」


 ヒトラーは、車を後にし、ロビーの電話機へと進む。


「ふふ……ふふふ………」


 時々、笑みをこぼしながら……。

 数分後。


「大変だ、ホフマン」

「どうしたんだね、アドルフ」

「ゲリが、ゲリが死んだそうだ」

「なに?」

「すぐに事実を確かめたい。ミュンヘンへ引き返そう」

「そうだな。大丈夫かい?アドルフ」

「ああ……大丈夫さ」


 急ぎ戻る車内。車窓から街並みを眺めるアドルフ・ヒトラー。

 彼の顔に浮かぶ不適な笑みは何を意味するのであろうか……。



Ep.4 スイッチ


 ミュンヘン。ヒトラーのアパート。目の前にとまる一台の車。停車直後、ドアを開け飛び出すヒトラー。


「ゲリは、ゲリはどこだ?」

「これは、ヒューラー。落ち着いてください」

「ポリツィスト(警察官)、ゲリはどこだね?」

「ヒューラー。ご遺体はすでに運び出しております」

「ゲリは……死んでいたのか?」

「はい。残念ながら……」

「そうか……。いや、確認するまでは信じられん」

「お気持ちはわかりますが……」

「いいから案内せよ。早く案内したまへ」

「はい。ご案内いたします。ですから、まずは落ち着いてください」

「私は気が短い。急ぎたまへ」


 焦燥を見せるヒトラー。警察官に案内させ、霊安所へと足を運ぶ。


「ゲリ……」


 ゲリの死に顔を凝視するヒトラー。


「ホフマン……すまないが、ゲリと私のふたりだけにしてくれないか」


 彼は、ゲリの遺体に突っ伏し身動きをしない。


「ああ、わかった。ポリツィスト。済まないが君も外してくれないか」

「はい」


 ホフマンと警察官が部屋を後にし、重い扉が閉められる。

 暗い室内には静かに眠るゲリと、そこに顔を伏せるヒトラー。


「……クク。………ククク」


 突如、ヒトラーが声を漏らす。


「ふふ……ふはははは」


 霊安室に響く笑い声。


「あの男の言った通りだったわね」


 ゲリに語りかけるようにつぶやくヒトラーの独白。


「オスカルとかいうあの芸術家かぶれの男。東洋の魔術とか言ってたけど、まさか本当に言っていた通りになるとはね」


 ヒトラーが、握られたゲリの手を開く。すると、4枚に破かれたヒトラーの写真。


「相手を表すなにかを、死を表す4つに分ける。そして、カミへと祈りを捧げれば、相手の身体から魂が抜けだし、その身体へと入り込む事ができる」


 ヒトラー、いや、その姿を借りた何者かが、ゲリから奪ったその写真をさらに細かく破り捨てる。


「アドルフ。抜け出した貴方の魂は、私の身体に入るはずだった」


 ヒトラーの手が、ゲリの頬を優しくなでる。


「でもね、私の身体にあなたが入るのなんて御免だわ。たとえ上手くいかず、私だけが死ぬことになっても、あなたのものにだけは為りたくないの」


 ヒトラーは、その手で愛おしそうにゲリの顎を支え、口づけを躱す。


「ゲリ。もうこのラム肉くさいアドルフおじさまのキスともお別れね。さよなら、ゲリ。さよなら、おじさま」


 ヒトラーが霊安室を出ると、閉まる扉の音だけが室内に大きく響いた。彼が以降、ベジタリアンとなった本当の経緯を知る者はおそらくいない。




Ep.5 エスティー


 1年後、ベルリン郊外――。

 ベッドに半身を起こし、窓の外を眺める青年。

 そこへ、麗しきユダヤ人女性がスープを運ぶ。


「ヴォルフ、大丈夫?」

「ああ、だいぶよくなったよ」


 ヴォルフ。かつてアドルフ・ヒトラーと名乗るその肉体を離れた魂は、この若き肉体へと宿っていた。


「世話になったな、エスティー」

「世話になったて、どこかへ行くつもり?」

「ああ。バイエルンに行ってみようと思う」

「バイエルン? あなたの生まれたところ?」

「そんな所さ」


 今やヴォルフとなったその青年の肉体の元の所持者の情報は一切わからない。その姓名はもとより、生まれ故郷や年齢さえも。わかっている事といえば、ヴォルフとなって目を覚ます直前、ナチスのスパイとして共産党の兵隊、赤色戦線戦士同盟の手により射撃され、命を落としかけていた……いや、手当をしたユダヤ人医師の話によると、確実に一度は命を落としたのだそうである。


「エヴァ……」

「誰か、大切な人がいるのね?」

「エスティー、君には感謝している。だが、私には確かめなければならない事があるのだ」


 ヴォルフは、エスティーが自分に寄せる好意を感じていた。そしてまた、嬉しくも思っていた。しかし、かつて、ヒトラーとしてユダヤを否定した自身が、その好意を受け入れるわけにはいかなかった。さらには、わずかだがユダヤの血を引く女性、エヴァ・ブラウン。彼女が今、どうしているのかが気がかりで仕方がなかった。そして、未だ政治活動を続けているアドルフ・ヒトラーの正体も……。


「ヴォルフ。気を付けてね。貴方はナチスのスパイ。私がいつまでも一緒にいられるとは思っていないわ。そして、貴方の事を知ろうなんて身勝手も決してしない。だけど、貴方の無事だけは祈らせて」

「ありがとう、エスティー」


 エスティー。彼女が祈るのは当然のごとく、ユダヤ教の神。しかし、ヴォルフはそんな事は気にもしなかった。かつて、彼が抱いていた野望、アーリア人主導の元、ドイツを救うというその望み。この為に反ユダヤ主義を利用していた。いや、実際にユダヤ人の賢さしたたかさを妬み、己の劣等感をも恨みへと変換していた。そしてもちろん、利用するからには徹底的に利用する心づもりであった。しかし、この時ばかりは、1年もの間、誠心誠意自身に尽くしてくれた一人の女性に対し、その考えが頭の片隅にさえもよぎる事はなく、心から感謝の意を表していた。




Ep.6 エヴァ・ブラウン


 1932年10月31日。バイエルン、ヒトラーの別荘、ベルクホーフ。

夜陰に紛れ、ヴォルフの身体は検問所の屋根の上を密かに舞った。ヴォルフの肉体がナチスのスパイのものであった事は間違いないようで、ヴォルフ自身、回復後のその身体能力の高さに驚いている。彼がかつて、アドルフ・ヒトラーであった頃、自身もまたスパイとして活動し、また突撃隊を率いていた事もあったが故に、体の動かし方は知っていた。しかし、それを差し置いてもヴォルフの身体は優秀であった。怪我の後、リハビリを始めて半年でその能力のほぼ全てを回復できるまでの先天的な肉体を有していたのだ。


((エヴァ……無事でいてくれ))


 心の中のつぶやきは、誰に聞こえるでもなく彼の姿と共に闇の中を勝手しったるかつての自身の屋敷の方角へと消えていった。


 一方。屋敷内の一室。


「エヴァ、また食事をとっていないのか」

「アドルフ。お願い、ここから出して!」

「そうはいかない。お前には私の野望と、復讐の行く末を特等席で見てもらわなければならない」

「復讐って……なに?私が一体なにをしたの?」

「私からオジサマを奪った」

「オジサマ?」

「なんでもない」

「アドルフ……あなた、変わってしまったわ」

「変えさせたのはお前だよ、エヴァ・ブラウン」

「私が……?」

「まあいい。お前には、精々着飾って、私……いや、吾輩の隣でこれから起こる光景を全て逃さず目視してもらわねばならん」

「これから起こる光景?」

「これからユダヤ民族に悲劇が起こる。それらは、すべてお前が引き起こす事なのだ」

「なぜ私が?」

「お前にユダヤの血が流れているからだよ」

「それが……どうして?」

「お前が憎いからさ。ユダヤ人にとって最大の災難は、お前にユダヤの血が流れていた事だな」


 ヒトラーは言い捨てるように最後の言葉を残すと、踵を返して部屋を出る。


「守衛、一歩も出すなよ」

「かしこまりました、ヒューラー」

「どうして……」


 閉められるドアを見つめるエヴァの両目からは、ただひたすらに涙だけが流れる。


「エヴァ……」


 部屋の中にかすかに聞こえる彼女を呼ぶ声。


「エヴァ、聞こえるかい?」

「誰?」

「アドルフ。アドルフ・ヒトラーだ」

「アドルフ?何を……」

「すまない、信じてくれとしか言えないのだが」

「どこ?」

「窓を、あけてくれないか?」


 エヴァは恐る恐る窓へ近づくと、思い切って開け放つ。

 すると、するりと一人の影が入り込んできた。


「やあ、エヴァ。無事だったんだね」

「あなた……アドルフ?」

「そうさ。簡単に信じてもらえるとは思っていない。でも僕はアドルフなんだよ」

「僕?」

「いや、吾輩……か。すっかり僕、に馴れてしまってね」

「何を言っているの?私、あなたなんて知らないわよ」


 後退りするエヴァ。詰め寄るヴォルフ。


「聞いてくれ。今はヴォルフという名を名乗っている」

「ヴォルフ、そんな名前も知らないわ」

「違うんだ、そうじゃない……」


 焦り、さらに詰め寄るヴォルフ。


「いや……」


 エヴァがヴォルフを突き放す。


「エヴァ、聞いてくれ!」

「いやよ。もう誰のいう事も聞きたくない」


 エヴァがヴォルフに向け、ピストルを構える。ヴォルフが潜入の為に所持していたものだ。突き放す際に抜き取ったのである。


「エヴァ、やめてくれ。どうしたんだ、いったい。アドルフ・ヒトラーはどうしている?」

「やめて!その名前は聞きたくないわ」

「聞きたくないだって?なぜだ?」

「あの人は変わってしまったわ。ゲリ。そう、ゲリ・ラウバルとかいう女性が亡くなってから。それまではあんなに優しかったのに……」

「ゲリ……」

「知っているの?」

「いや……」

「そう。あれからよ。なぜか急に私を恨むようになり、ユダヤの血を引く忌まわしい女と罵倒するようになったわ」

「まさかとは思っていたが……他にその頃から変わったことは?」

「食事でお肉を食べなくなったわ。あんなに好きだったラム肉さえも」

「やはり……」


 ヴォルフはここで一つの事に確信を持つ。自身がヴォルフの身体へ移ったように、ヒトラーの身体に移ったのはゲリ・ブラウン。


「あなたに話しても仕方のない事ね……」


 言うと、エヴァはヴォルフに向けていた銃口を自身の胸へと向け、引き金に指をかける。


「エヴァ、やめたまへ」

「え?」

『パンッ』


 胸から血をにじませ、膝をつくエヴァ。駆け寄るヴォルフ。


「エヴァ……どうして……」

「あなた……アド……ルフ……なの?」

「ああ、そうだ」


「「何事だ??今の音は?銃声のようにも聞えたが?」」


 部屋の外に声が近寄る。


「アド……ルフ……なのね」

「ああ」


 ヴォルフはエヴァの胸に手を当て、心音を確かめる。


「エヴァ。おそらく弾丸は急所を外れている。生きろ。生きてくれ。必ず私が助けに来る」

「アドルフ……」

「今はヴォルフと名乗っている。必ず助けに来る。だから死なないと約束してくれ」

「ヴォルフ……わかったわ……」

「きっと、きっとだぞ、エヴァ」

「ええ……」


「「おい、鍵を開けろ」」


「エヴァ、すまない、今日は退散する。生きてくれよ……」


 ヴォルフは意識を失いかけるエヴァをそっと床に横たわらせると、窓まで駆け寄り、勢いのまま窓の外へと飛び出す。


「「ブラウンさん!大変だ、ブラウンさんがピストルで!!」」


 部屋へ駆け込んだ使用人たちの騒ぎを背に、ヴォルフは両手両足を広げてマントを貼り、風と空気抵抗を巧みに利用しながら、堀の水面へと静かに降り立った。




Ep.7 首相と大統領


エヴァの自殺未遂の翌年、1933年。ヒトラーはヒンデンブルク大統領からの指名を受け、1月30日午前11時15分、首相となりヒトラー内閣を開く。そしてすぐさま策略により共産党を排除。さらに就任から2か月もしない3月23日、国会の承認や大統領の署名を得ずとも法律の制定、及び条約締結の権限を得る「全権委任法」が可決。事実上の国会と大統領の形骸化がなされる。ここにゲリの思惑、つまりヒトラーの暗躍が大いになされた事は想像に難くない。



同年、4月1日。ベルリン、ヘルマン・ゲーリング邸。


「いくら今日がエイプリルフールだとはいえ、君のその冗談は笑えないな」

「ヘルマン。私って信じられないさ。だが事実、こうして私はこの姿でここにいる」


 書斎の机を挟み、ゲーリングと対峙するのはヴォルフ。


「しかし……」

「ならば話そうか、君が突撃隊を見事な軍隊に纏めてくれた時の思い出話。それとも、ミュンヘン一揆の時の事のほうがいいかな。あれは僕にとっても印象深い一夜だった。いや、それよりも君がミュンヘン大学にいた頃の君が行った彼女へのアプローチの失態ぶりのほうがよいかね?君の母、フランツィスカに良く似た気立てのよい娘だった」

「よ、よしてくれ。ほんとうに……本当にヒトラー、あなたなのですか?」

「そう言っている」


 ヘルマン・ゲーリング。第一次世界大戦のエースパイロットであった彼は、戦後の1922年、ヒトラーの演説に感銘を受け、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)へ入党。その後、烏合の衆であった突撃隊をまとめ上げ、以降、党と上流階級の橋渡し役を務めている。党、というよりは、ヒトラー個人を好み、彼に尽くした腹心の一人である。


「ヒューラー、失礼いたしました。しかし、という事は昨日私がお会いしたヒューラーは?」

「あれにはゲリが入っている」

「ゲリ?」

「ゲリ・ラウバルだ」

「亡くなられた姪御様?」

「ああ」

「ヒューラーがゲリ・ラウバル殿で、貴方がヒューラー……」

「まぎらわしい。私の事はヴォルフと呼べ」

「ヴォルフ様……言われてみれば、侵入なされた時のあの身のこなし。ミュンヘン一揆の貴方の面影を重ねる事ができます」


 この夜、ヴォルフは単身、ゲーリング邸へ忍び入った。


「ふふ。この身体、あの頃よりも使い勝手がよい。よく動いてくれるよ」


 ヴォルフは自身の左手首を右手でつかみ、間接の動きを確かめる。


「して、ヴォルフ様。すると、ゲリ殿が入られたあちらのあなたは……」

「まぎらわしい。やつはヒトラーでよい」

「ヒトラー……様はいかが……まさか、暗殺?」

「ばかを言え。そんな事をしたらいたずらに混乱を招くだけだ。今のドイツの状況を鑑みれば、ナチ党の存在は絶対。そしてその要となるヒトラーの存在もまたしかりだ。要を失えば壊れた扇同然。今、ヤツの存在を消すわけにはいかない」

「では……」

「いずれ、なんとかしようとは思っている。私が再びあの身体に入る事ができればいいのだが……」

「ヒューラー……」

「まずはゲーリング。貴様は表向き、ヤツに従う素振りを貫け。いや、むしろ率先して協力し、確固たる地位を築きあげるのだ。そして、いずれ、党内のバランスを整えてほしい。ゲーリング、貴様がナチ党を導くのだ」

「はっ。……して、ヴォルフ様は?」

「私は、ヤツの野望を阻止する……」

「野望?」

「ヒンデンブルクの暗殺」

「まさか!?」

「ゲリは上手くやっているよ。ヒンデンブルクは今やヒトラーの傀儡だ」

「ええ。今を時めくヒトラー様に重宝されていると、喜んでさえいる様子」

「ここで、ヒンデンブルクが大統領を引退でもしてみろ。国会が再編されてはヤツは面白くない」

「と、いうと……」

「任期中での突然の死。そして緊急措置」

「まさか、ヒトラーが大統領に?」

「かもしれんな」

「なんという……」

「私は、突撃隊に接触を試みる」

「突撃隊に?」

「レームだ。だがこんな姿。受け入れてはくれまい」

「なるほど、そこでまず私の元へ」

「察しがいいな。ゲーリング、一筆頼む」

「承知いたしました」




Ep.8 突撃隊


 エルンスト・レーム。ゲーリング同様、第一次世界大戦(1914年)で活躍し、陸軍大尉まで昇進した勇者の一人である。戦後、バイエルンでの革命で興ったレーテ共和国を打倒する為の義勇軍に参加。この頃からアドルフ・ヒトラーとの親交が始まる。

 ミュンヘン一揆(1923年)が鎮圧され、逮捕されたヒトラーが獄中にいる間、このレームが突撃隊を任されていた。その後、南米の情勢を調査する為に党を離れ(表向きは、隊の方針でヒトラーと意見を分かち、離党した事となっている)、ボリビア政府の軍事顧問として活動を行っていたが、1930年、突撃隊幹部の反乱などにより隊が崩壊しかけると、ヒトラーの呼びかけにより再び突撃隊幕僚長として彼の元へと帰ってきていた。


「つまりだ、レーム。私はヒンデンブルクの暗殺を阻止し、ヒトラーに権力が集中するのを防ぎたいのだ」

「わかりました、ヒューラー。いや、ヴォルフ殿」


 アドルフ・ヒトラーの古くからの友人、レームは、ゲーリングからの手紙に目を通し、ヴォルフの姿をしばし目を細めて窺うと、なにを疑うこともなく、その存在を認めていた。


「精鋭をヒンデンブルクの近辺に配備いたしましょう」

「そうしてくれるか」

「はい。それと、ヴォルフ殿には2名程でいかがですか?」

「察しがいいな」

「決死隊の中から2名。あえて、政治的関心の薄い、つまりは、ヒトラーを崇拝しているわけでもなく、嫌悪しているわけでもない。ただ、死に場所を探している者をあてがいます」

「打倒だな」


 エルンスト・レーム。この男は、ヒトラーであったヴォルフを目の前にして、ヒトラーを嫌悪している人間も少なからずいる事実を、臆面もなく口にする。それほど、この二人の信頼関係は厚いものであった事がうかがえる。


 レームが付けた決死隊の2名は非常に優秀であった。名は、ビックスとウェッジ。二人はヴォルフに何かを詮索するでもなく、短期的な目的だけを確認し、淡々と任務をこなす。ほとんど感情は見せない。唯一見せる感情といえば、命の危険が伴う任務を命じた時に見せる目の輝き。これのみである。

 この二人の諜報、情報調達などの活躍によりヴォルフは、ひと月の後にはヒトラーの全ての行動予定を把握していた。


「ヴォルフ様、いつでも」


 5月某日。アドルフ・ヒトラー邸・裏。壁の内側からかすかに聞こえる、風のような音を聞き分け、ビックスはヴォルフに屋敷への侵入の準備が整った事を告げる。この日、ヴォルフはエヴァの奪回(状況的には誘拐になろうか)と、ヒトラーへの挨拶を目論んでいた。


「ではいこうか」


 ヴォルフの返答を受け、ビックスは口をとがらせ、息を吐く。

 ……。

 なにか音がしたであろうか。いや、常人の耳には聞こえない。そんなかすかな音を発する。すると、塀の上からスルスルとロープが降りてくる。


「君たちがあまりにも優秀なので少しつまらんな……」


 言うと、ヴォルフはロープを掴むこともなく、その場で飛び上がり、ビックスの肩を踏み台にして軽々と塀を乗り越える。飛び越えた先には、待機するウェッジ。


「ヴォルフ様……」


 握っていたロープになんの感触もなく、塀の上から飛び降りてきたヴォルフに驚きを見せるウェッジ。


「身体をなまらせたくはないのでな」

「……失礼いたしました」

「かまわん」

「……。」

「何を考えておる?」

「多少、無茶をしても構いませんか?」

「かまわん。最短ルートでいこう」


 ウェッジは、返事をする代わりに目を輝かせる。


「急ごう」

「はい」


 ウェッジは答えると同時にヒトラー邸の庭を壁沿いに駆け抜ける。続く、ヴォルフ。

静寂に包まれた月夜のもとを、二つの影が駆け抜ける。そして、屋敷の壁に到達すると、壁を蹴り、三角とびに隣接して建つ倉庫の屋根へと降り立つ。着地地点から横へ転がるウェッジ。そして、ウェッジが着地した箇所と寸分たがわぬ位置にヴォルフが着地する。驚きの目でヴォルフを見るヴェッジ。ヴォルフがニヤリ、と、わずかな笑みで応える。

 火がついたウェッジは方向を変えると、屋根の上で助走を付け、レンガ造りの屋敷の壁へと向かい飛ぶ。その距離、3メートル。しかも、そこに着地すべきスペースなどなく、壁。レンガとレンガのわずかな隙間に指先とつま先を挟み、まるでカエルのように吸い付く。常人であれば、当然のごとく壁にはじかれ、取り付くことなど不可能である。

ウェッジは、得意げな表情で後ろを振り返る。はなから、ヴォルフが自分と同じ芸当ができるなどとは思っていない。別のルートをしっかりと用意はしているのだ。


「よっ」


 ウェッジが唖然とする。ヴォルフは、助走をつけることもなく3メートルの隙間を飛び越え、壁面へと貼りつく。


「本当にすごいな、この身体は」

「身体?」

「いや、なんでもない。よい運動になる。さぁ、先を急ぎたまへ」


 ウェッジは驚きを隠せないまま、壁面を横へ上へと移動する。己がこの芸当を会得するまでにどれだけの歳月をかけた事か……。それを軽々とマネされ、ウェッジの意気は消沈していた。ウェッジは3階のバルコニーへ飛び降り、窓の隙間にナイフを入れ、鍵を外す。表情は暗いままである。


『ガチャ』

「まて、ウェッジ」


 ヴォルフの呼び止める声に振り返りながらも、すでに手は窓を開けている。


「キャっ」


 暗い部屋の中から小さな叫び声が聞こえる。


「なんだ、貴様ら」


 人影はふたつ。男女のようだ。男が窓際へと歩み寄る。刹那――。


「ぐっ」


 ウェッジの背後から窓の中へと飛び込んだヴォルフが、男の口をふさぎながら押し倒す。ヴォルフの手には、何時の間に奪ったのか、ウェッジが鍵を外すのに使ったナイフ。


『ドッ……』


 躊躇なきひとつき。


「キャ、あ……」


 腰を抜かす女。ヴォルフはすかさず彼女にのしかかり、口を塞ぎ、首に手を当て、頸動脈に力を入れて気を失わせる。


「ウェッジ、何をしている?」

「申し訳ございません、ヴォルフ様……」

「……まあいい。この部屋は使用されていない部屋。物置代わりとなっている。昔はな。今もそうなのであろう?」

「はい。このひと月、この時間に使用されていた事はありませんでした」

「この女は、この家の使用人。気立てのよい、働き者だ」

「はっ……」

「そしてこの男。私も知らぬ顔だが、おそらくSS(親衛隊)であろう。主を守る為に詰めているはずが、この体たらく。主人の顔を早く見てみたいものだな……」


 ヴォルフが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。どうやら二人は、人けのないこの部屋で情事に及んでいたらしい。ヴォルフは、メイドの股に手を当て、何かを確かめる。


「ウェッジ、こやつら、行為は終えて、身支度をしていた所らしい」


 二人とも、着衣はしっかりと着られている。

 ヴォルフは、SSの男の腹部に突き立ったナイフを抜き、男の上着で血のりを拭い取ると、ウェッジへ投げてよこす。


「もどらなければいずれ騒ぎになる。急ぐぞ」

「はっ」


 ナイフを腰に収めたウェッジは、慎重に廊下へのドアを開き、様子をうかがう。


「親衛隊のメンツも総入れ替えか……」


 ヴォルフは、SSの腰から拳銃を抜き取ると、ウェッジの後へと続いて廊下へと足を進めた。




Ep.9 再会


 ヒトラー邸、廊下、一室の前。ウェッジが鍵穴に道具を差し込み、鍵を開ける。

『ガチャ』

 身を引いてヴォルフへ道を譲るウェッジ。ヴォルフがドアを開け、部屋へと踏み入る。部屋の中にはベッドで眠るエヴァ。ヴォルフの目には、まるで眠り姫のように映る。じっと寝顔を見つめるヴォルフ。その気配にエヴァが目を覚ます。


「エヴァ……迎えにきたよ」

「アドルフ!」

「しっ……」


 しばし、見つめあう二人。ウェッジは、ドアの横の壁に背を付け、静かに控えている。


「エヴァ、ひどい事はされていないか?」

「ええ、大丈夫よ。彼にとって私はお飾りみたいなもの。自分のアクセサリーに傷はつけさせない主義みたいだわ」

「食事は?」

「きちんと食べてる。でも、食事もきちんと管理されてるの。まるでお人形さんね。外へも自由に出ることができないわ」

「もう我慢しなくていいよ、エヴァ。君を連れ出しに来たんだ」

「ええ、ありがとう、アドルフ。でもね、私、出ていくわけにはいかないわ」

「え、なぜ? なぜだい?」

「あの人、支えがなければ本当に崩壊してしまう……」

「しかし、このままではお前が先に壊れてしまうぞ」

「いいえ、私は大丈夫よ。中身は違うかもしれないけど、アドルフはアドルフ。私にとっては大事な人なのよ……」

「エヴァ……」

「お願い、私をこのままあの人のそばに置いておいて。今、ユダヤを迫害する施策や共産党を排除する動きはどんどんエスカレートしてるわ。見てられない。なんとか私も、私の方法で止めたいの」

「……」

「あなたの……アドルフ・ヒトラーの名誉の為に」

「……エヴァ」


「エヴァ、誰かね、その若者は」

「アドルフ……」


 隣室と繋がる扉を開け、ヒトラーが入室する。


「やあ、ゲリ。久しぶりだね」

「ゲリ!? 誰だ? 吾輩をゲリと呼ぶとは」

「やはりそうか、ゲリ・ブラウン。私のかわいい姪っ子よ」

「おじさま……アドルフおじさまなの?」

「そうだ」

「っつ……私の身体に入らなかった……のね」

「どうやらそのようだ」

「あの男……だましたな。入る器がなければ魂は消滅すると……」

「あの男?」

「ふん。オスカルよ」

「オスカル?」

「あんたが引き離した画家よ。あんたへの恨みを話したら教えてくれたわ、最高の復讐方法を」

「オスカル……」

「まあいいわ。あんたが生きてるならそれはそれで。見てなさい、これからのドイツは私の意のままよ」

「ゲリ、もう十分だろう。十分に君の思い通りになっているではないか」

「十分? どういう意味かしら?」

「ヒンデンブルク。彼をどうするつもりだ?」

「さすが、アドルフおじさん。いつも私がしようと思ってる事を先回りして潰すのよね」

「やはり……」

「でもね、もうおじさんはおじさんじゃないのよ。アドルフ・ヒトラーは私。この世は私の思い通りに動くのよ」

「やめないか、ゲリ。世の中は君の思い通りになんか動かない。ドイツはヒトラーのものではない、人民のものなのだ。それが労働党の本来の姿。繰り返す。ヒトラーのものではない。目を覚ますんだ」

「ふふ、そうね。ナチのものでも、ヒトラーのものでもない。その通りよ。なぜなら、私のものになるのだから」

「ゲリ……」


 ゲリの魂を宿したヒトラーは、ヴォルフに向け銃を構える。ヴォルフもまた、ヒトラーへ向け銃口を向ける。


「アドルフ、やめて」


 エヴァがヒトラーを庇い、ヴォルフにすがる。ヴォルフの銃口がヒトラーからそれ、ヴォルフの手を離れて転がる。すかさず、ヒトラーが引き金に力を入れる。ウェッジが駆ける。ヒトラーのピストルから火花が散る。静まり返った屋敷にけたたましく銃声がこだまする。ヴォルフがエヴァの身体を背後へ隠す。弾丸が二人に迫る。


『ドンッ』


 銃声の直後、弾丸が肉に当たる鈍い音。弾丸は、駆け寄ったウェッジの胸を深くえぐっていた。


「ウェッジ!」

「ヴォルフ様……これでミスの分はチャラで……」

「ふざけるな。脱出はどうする」

「ヴォルフ様なら……問題ないでしょう」

「エヴァもいるのだぞ」

「それを言われると……死にきれませんな……」

「そうだ、ウェッジ。死なれては困る」

「も……申し訳……ございません」


 エヴァがウェッジを覗き、声をかける。


「ウェッジさんと言うのね……。大丈夫よ。私はここに残るの。ヴォルフは無事、脱出できるわ」

「エヴァ……様」

「エヴァ、勝手を言うな。一緒に変えるぞ」

「アドルフ(ヴォルフ)。あなたのそういう所がゲリを苦しめたのよ」

「な、なに……」

「大丈夫。女には女の戦い方があるわ。心配しないで」

「しかし……」

「ウェッジさん。安心して眠っていいわ」

「エヴァ様……あなたは女神のようだ。最後にあなたと出会えて……私は……」

「ウェッジ!」


 ヴォルフに抱えられたウェッジの身体から力が抜ける。


「ヒューラー、いかがいたしましたか」


 銃声を聞きつけ、親衛隊が部屋へ集まる。


「アドルフ(ヴォルフ)、逃げて」


 エヴァがウェッジの腰からナイフをとり、ヴォルフへと差し出す。


「エヴァ……」


 ヴォルフがナイフをエヴァの首元へ突きつけ、窓へと移動を開始する。


「エヴァ様!」


 親衛隊がピストルを取り出し銃口をヴォルフに向ける。


「よい。捨て置け」

「しかし!」

「アドルフよ……お前がエヴァに傷をつけるわけもあるまい。茶番はよせ」

「ふん。貴様のバカなSSどもが発砲しないとも限るまい」

「お前のツレ……ウェッジといったか。突撃隊だな?」

「ああ。勇敢な戦士だよ。名はウェッジ。ヒトラー殿に覚えてくれて光栄だ」


 会話をしながらもヴォルフは窓へと移動し、ついに到達する。


「そして、私は今、ヴォルフと名乗っている。覚えておいてもらえるかな?」

「ヴォルフ……覚えておこう」

「光栄だ……」


 言い残すと、ヴォルフはエヴァを前へ突き離し、窓から単身、飛び降りる。


「まて!」


 親衛隊が窓へと駆け寄る。


「よい。いずれまた必ず会うだろう」


 窓の外を眺めるヒトラー。夜の闇に混じり、雪が舞い降りる。

 ドイツの気候とはいえ、5月にしては、幾分寒さの厳しい夜であった……。




Ep.10 長いナイフの夜


 6月。ヴォルフはゲーリングからの呼び出しに応じ、彼の元へと訪れていた。


「仕方ない……。君はヒトラーの指示に従ってくれ。今君に党を離れてもらっては困る」

「レームは?」

「うまく逃げてもらうさ……」


 おそらく、5月のヒトラー邸潜入を受けて、ヒトラーが動きを見せた。ヒンデンブルク大統領を守る為に突撃隊を彼の回りに配備していたのだが、そのヒンデンブルク守備態勢を崩すきっかけを作ったのは、皮肉にもヒンデンブルク本人であった。いや、正確にはヒトラーがそのヒンデンブルクを使い、突撃隊粛清の口実を作った。

まず、突撃隊、反乱の噂をでっち上げ、ヒンデンブルクの周囲に突撃隊がいる事に不安を持たせる。そして、彼の口からヒトラーへ、突撃隊粛清の要請を出させたのだ。これが後に『長いナイフの夜』と呼ばれる事件の発端である。


「ヒトラーからは7月入り次第、実施せよとの命令がでています」

「うむ。まだひと月ある。準備するには十分だ」

「それと、ゲシュタポ(秘密警察)の親衛隊への譲渡も要求されています」

「……しかたがない。今君が彼に疑われるわけにはいかない」

「ヴォルフ様……」

「今後は君の判断でヒトラーの命令にはできるだけ従ってくれ。しかし、党のバランスを取ることも大事である。信頼は失わず、地位を向上させながら、バランスを取る。なに、君なら余裕だろう」

「恐縮であります」

「それと、もう君との連絡は絶つ事にする。君も私には接触しないように」

「はっ……」

「とにかく、レームには私から伝えておこう。君も健闘を祈っていてくれたまへ」


 しかし……ゲーリングからの情報と異なり、『長いナイフの夜』は7月に入る前夜、6月30日に決行された。この日、レーム含む突撃隊幹部のほとんどが逮捕。そして、同日から7月2日にかけて裁判を経ずに面々の処刑が敢行。レームも1日、「我が指導者……」の言葉を残してこの世を去った。この三日間で明らかになっているだけでも116名が死亡。一節では千人以上にも及んだとされている。

 レームの逮捕は、ヒトラー、自らの手で行われた。この時のヒトラーの顔は歓喜で満ちていたという……。



「ヴォルフさん。大丈夫ですの?お顔色が優れませんわ」


 ベルリン郊外。ヴォルフの介抱を行ったユダヤ人女性、エスティーの自宅、ゲルトハイマー邸。


「ああ。大丈夫だ」

「でも、突撃隊の皆さんは追われているのでしょう?」


 エスティーは、ナチ党の機関紙を手にしたヴォルフに声をかける。


「突撃隊もナチ党の一員だ。まさかユダヤの家にいるとは思うまい」

「それもそうね」

「いや、しかし、君に迷惑をかけることになるな」

「いいえ、それは大丈夫よ。ごゆっくりなさって」


 エスティーは心配そうな顔を向けるヴォルフに笑顔を返す。


「君には世話になりっぱなしだな」

「こんなご時世だもの。お互い様よ」

「エスティー……」


 ナチ党に追われるヴォルフ。自身の危険を顧みず、そんな彼を匿うエスティーとその家族。


「すまない」


 今、この状況下で危険を冒させていることへの謝罪か。それとも、かつて反ユダヤ主義を掲げていた己を振り返っての謝罪であったか。


「謝る事なんてないわ」

「ああ……ありがとう」


 しかし、世に言う『ホロコースト』(ユダヤ人に対する大量虐殺施策)が実施されてしまうのはこのもう少し後、第二次世界大戦中の事である……。

 


Ep.11 ゾルゲ


 親衛隊(SS)、そしてゲシュタポ(秘密警察)の厳しい警戒・監視体制の中、ヴォルフは思うように活動する事ができず、ついに1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領はその任期の最中にこの世を去る事となる。受けてヒトラーは『ドイツ国および国民の国家元首に関する法律』を発効させ、国家元首たる大統領の権限を全て首相たるヒトラー個人に移行させた。総統ヒトラーによる独裁国家の誕生である。

 以降、ヒトラーのユダヤ人に対する迫害政策は徐々にその行使力を強め、ドイツ国ともよい関係を築いていたエスティーの一家、ゲルトハイマー家にも影響を及ぼし始めていた。その最中、ヴォルフはユダヤ人の生き延びる術を模索し続けていた。

そして第二次世界大戦が始まる1939年、ユダヤ人存続のひとつの手段として国外亡命の道を取り付けるため、ヴォルフはレームより授かった突撃隊の勇士、ビックスを伴ってリトアニアの在カウナス日本領事館を訪れていた。


「ときにヴォルフ君。私は思い出したよ。君が言っていたオスカルという画家。彼に良く似た人物をね」

「センポ、本当ですか?」


 センポと呼ばれた男。後に6000人にも上るユダヤ系難民を救い、『日本のシンドラー』と呼ばれる事になる杉原千畝すぎはらちうね、その人である。


「ああ。リヒアルド・ゾルゲと言うのだがね……」


 リヒャルド・ゾルゲ。第一世界大戦時にはドイツ陸軍で活躍したが、その後ソビエト連邦共産党に入党。ドイツの新聞記者を隠れ蓑に、ソ連のスパイとして上海、北京、満州、そして日本などで活躍していた。

モスクワ大使館への勤務を目標としていた千畝。かつて満州国の外交官を務めていたその時に、モスクワを首都とするソ連に属するゾルゲと接触があったとしても不思議ではない。


「君の言っていた人相に重なる。そして、日本の文化にも非常に詳しい」

「日本に?」

「ああ。確か、人にのり移る魔術がどうのこうのとか言っていなかったか?」

「ええ」

「どこの国にもあるとは思うがね。日本にもある」


 藁人形にイタコ。どの国でもそうであるが、呪い、憑依の類のオカルトは日本の各地に存在する。


「ゾルゲはどこに?」

「日本さ」


 ヴォルフは傍らに控えていたビックスに視線を向ける。


「行くのかね?」

「はい」


 こうしてヴォルフは千畝より発行されたビザを手に、日本へと渡る事となる。



Ep.12 日本


 横浜。幕末のペリー来航より貿易の拠点として栄え、外国人居住区も発展してきた生粋の港町。日独伊の三国同盟が成立し、太平洋戦争に突入しようとう日本において、この港町も異様な熱気を帯びていた。その横浜を拠点にゾルゲとのコンタクトを図っていたヴォルフ。来日から一年を費やした1940年9月。ついにゾルゲとの面会の機会を得る。

 日本人夫婦が営むアイリッシュバー。バーと名乗りながらもアジのタタキをウリにている。その一番奥のテーブルでドイツ語で会話を交わす二人。ヴォルフとゾルゲである。


「まさか、本当に実践していたとはね」

「君が焚き付けたのだろう?」

「はは。正直に言おう。私はソ連の共産党員だ。かつてのあなたは私の敵でしたからね。スパイに入ったゲリのベッドでまさかあなたの陰口を聞くとは。思わずアドバイスをしたまでですよ」


 カウンターにはウイスキーグラスを傾けながら、ビックスが周囲に注意を払っている。


「しかし……命を落とすようなアドバイスとは」

「やや、怒らないでください。まさか本気にするとは思わないでしょ?あんなオカルトじみた話」

「だが、おかげ様でこの有様だ」

「本当に……信じられませんな。いや、あなたがおっしゃったかつてのドイツの情報は確かに私が握っていたものと一致する。しかもドイツの権力者しか知りえない情報だ。信じましょう。どうやら原因は私のようだしね。ははは」

「笑えませんな」

「これは失敬。そうですな」


 ゾルゲはウィスキーグラスを手に取り、口をつける素振りをする。が、実際に飲みはしない。


「で、もとに戻る方法は?」

「申し訳ない。私もそれは知らない。言ったでしょ?このようなオカルト、私も信じてなどいなかったのです」

「では、その方法は誰に教わったので?」

「誰にも。日本の書物を読んで得た知識をなんとなく思い出しながら話した、でまかせです」

「……」

「いや、すみません。スパイというものは口からのでまかせが重要な武器でしてな。しかし、あなた……いや、当時のヒトラーに死んでもらいたかったのは本当だが、今のヒトラーはさらにひどいな」

「私が以降もヒトラーであったらこうはなっていなかった」

「でしょうな……と言いたいところだが、どうかな。あなたは追われる身になり、また、市井しせいに身を置くようになって変わられたようだ。今のあなたであれば良かっただろうが、ね」

「ふん……どちらにせよ、このような状況は許さない」

「許さない……か」


 ゾルゲは手にしたウィスキーグラスを眺める。


「ヴォルフさん。経緯いきさつはともあれ、目的は似ているようだ。あなたがヒトラーで無くなってしまった事へのお詫びも兼ねて、また、解決の糸口を授けられない代わりに情報を一つお教えしましょう」


 グラスの中の氷をカランと一つ音を鳴らしてからウィスキーを一気に飲みほし、言葉を続ける。


「日本はソ連への侵攻はしない。つまり、ソ連は対日本の戦力を温存する必要はなくなったわけだ」

「……その情報はすでに?」

「もちろん。私は一流のスパイだ」


 対日本の戦力が浮く。つまり、ソ連はドイツに向けての攻略に力を注ぐ、という事である。


「口の軽さも一流のようだ」

「はは。流石かつて演説の達人・ヒトラーと呼ばれた男。厳しいお言葉ですな」

「ふん……」

「確かに私は軽快なトークとでまかせを武器にここまでやってきた。しかしそれは情報戦そのもの。私は、私にとって有利になる相手にしか情報は流さない」


 ゾルゲはテーブルに置かれたウィスキーボトルを手に取り、ヴォルフのグラスへ注ぐ素振りを見せる。


「……」


 ヴォルフは、グラスに注がれていたシングルモルトを一気に飲み干し、ゾルゲの酌を受ける。


「なるほど、一流のようだ」


 ゾルゲは、注ぎ終えるとボトルをテーブルに置き、ヴォルフに笑みを向けると、一泊おいて席を立つ。


「ここの勘定は私がもつよ。餞別だ」


 言いながら、ポケットから紙幣を数枚とり、カウンターに座っていたビックスの前へと置き、店を去った。

 ゾルゲが、スパイ容疑で特高(警視庁特高一課)の手によって逮捕されるのはこの直後10月18日の事である。


『カランカラン』


 ゾルゲと入れ違いで店内へと入ってくる日本人二人組。すでに酔っているようである。


「お、外人さんかい」


 奥の席に座るヴォルフに向かい声をかける日本人。


「外人さんは、ドイツかい?イタリアかい?それともメリケンさんかな?」


キッと日本人客を睨み、右手を懐に入れるビックス。しかし、ヴォルフが手で制す。


「おい、やめとけよとっつぁん」


 日本人の連れがたしなめる。


「大丈夫デス。ワタシ、ドイツ人」

「お、ドイツの将校さんかい」

「イイエ、兵隊ではアリマセン。友人に会いにキマシタ」


 ほっとする、日本人の連れ。そんな彼の気持ちを知ってかしらずか、とっつぁんと呼ばれた年配は、ヴォルフのテーブルへと腰を下ろす。


「そうかい。お友達はやっぱりドイツかい?」

「イイエ、ロシアの友人です」


 日本人の連れがロシアという単語に頬を強張らせる。


「ロシアか。こりゃいいや」

「おい、とっつぁん。やめようぜ、特高がいたらどうするんだ」

「うるせぇや。友達にドイツもロシアも、メリケンも日本人ねぇやい。友達はともだちだ。なぁ、外人さん」


 ヴォルフは年配の日本人に微笑みを返す。


「外人さんが兵隊じゃないっていうから言うけどな、俺は戦争をする意味がいまいちわからねえんだ」


 年配が、手元にあったゾルゲのグラスにウィスキーを注ぎ、口をつける。


「かぁー、うめぇ。こんなうめぇ酒、日本人にゃつくれねぇ。いいじゃねぇか、今までだってうまくやってきてたんだ。外人さんの酒を飲ませてもらって、外人さんにも日本のうまい飯を食ってもらう。おい、親父! 外人さんに自慢のアジのタタキを馳走してやれや」

「へぇい」


 店主が低い声で返し、店内の装飾かと見えた水槽からアジを一尾捕まえる。


「なぁ、外人さん。俺はこの街で育った。この街にはいろんな国の人がいる。そしてこの店が大好きだ。ここにもいろんな国の人がくる。みんな気のいいやつだ。身体ばかりじゃなく声もでっけぇドイツ人。女を見つけてはひっかけようとばかりするイタリア人。図体はでけぇくせに気持ちのちっちゃいメリケンさん。外人さんは、ぽおかぁってなげぇむを知ってるかい?俺ぁ、このメリケンさんには負けた事がねぇんだぜ」


 年配は、グビグビとグラスを開けると、また注ぐ。連れ合いも諦めた様子で席につき、ビールを注文する。


「でな、俺は外国語なんてまったくできねぇ。外人さんがたが一生懸命話しなさる片言の日本語を聞くのよ。これがまた面白れぇ。みんな目が輝くのは、お国自慢をするときだな。みんないい所ばっか主張するんだよ。景色が綺麗だの、女が美人だのなんだのってな。女といやぁな、外人さん。俺の女房はフィリピン人なんだよ。いいケツしてるんだぜ、これが」

「おい、とっつぁん」

「うるせい。外人さん、聞いてくれよ。そのフィリピンをお上(日本)は今、攻めてやがる。俺の女房がなにかしたってのかよ。国同士の喧嘩に俺達を巻き込むなと言いたいね、俺は」

「とっつぁん、飲みすぎだ。帰るぞ」

「うるせぇやい。俺はまだのみたりねえ」


 騒ぎ立てる年配をなだめながら若いほうが連れ出し、店を出る。残されたヴォルフの元へアジのタタキが箸とともにフォークを添えて提供される。


「……」


 不器用に箸を握り、アジを口に運ぶヴォルフ。


「おい、ビックス。うまいぞ。こっちへこないか。ロシア人のおごりだ」


 静かにカウンターを立ち、テーブルへと腰を下ろすビックス。

 かつてアーリア人としてドイツを導こうとしていたヒトラーと呼ばれたその男は、胸中に何を思うのであろうか……。




Ep.13 アドルフ・ヒトラー


 1944年。自らの所属を明らかにし、『ソビエト赤軍、国際共産主義万歳』の言葉を残し処刑されたリヒャルド・ゾルゲ。彼の境遇とは反対にソ連軍はナチスドイツへの侵攻を優位にすすめる。そして1945年、ついにヒトラーのいるベルリンへ迫り、王手をかける事となる。

 ヴォルフは、戦時下の混乱の中、再びゲーリングと連絡を取り、何度もヒトラーの元へと近づこうと試みていた。しかし、戦時中の厳しい警護の中、近づく事は困難を極めていた。だが、ベルリン市内にもソ連軍の砲撃の音が響き渡る中、チャンスは訪れた。

 もともとヒステリーのきらがあったゲリが入るヒトラーは、その言動にまでも混乱が見られ、指揮系統は散々たるもの。自身の腹心にまでも疑いの目を向ける始末。あくまでもナチ党の為に尽くしていたゲーリングにもその手は伸び、4月23日、反逆者として親衛隊に身柄を拘束される事となる。

 そして運命の4月29日。親衛隊の最高責任者、ハインリヒ・ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申し出ると、その混乱は極まった。


 4月30日、ベルリン、総統地下壕、ヒトラーの自室。部屋にはヒトラーとエヴァ、そして愛犬のブロンディのみである。エヴァが二人を挟むテーブルにグラスを置き、静かにワインを注ぐ。


「アドルフ……もういいじゃない」

「うるさい!吾輩は世界の王、ヒトラーであるぞ。それがこんな所で……」

「もう十分よ。あなたのしたい事は十分したじゃない」

「だまれ!」

「ゲリ!もう終わりにしましょう」

『パシン』


 ヒトラーはエヴァの頬を叩く。エヴァに寄り添うようにブロンディが歩み寄る。


「吾輩は……ヒトラー……世界の王なのだ」

「あなたが何に苦しんでいるのかは十分わかっているわ。アドルフからの異常な愛。それにより生まれたヒトラーの恋人という立場。回りが見ていたのはあなたではなく、あなたの境遇。誰もあなた自身の事を考えてくれる人はいなかった。あなたは、あなたを苦しめる全てのものが許せなかった」

「……」

「そして、ヒトラーになった。でも、そこで待っていたのはあなたを見る目ではなく、ヒトラーという権力に群がる人々。変わらず、あなた自身を見てくれる人はいなかった」

「エヴァ……」

「でもね、私は見ていたわ。あなたはかわいそうな人。ゲリ。あなたにヒトラーという肩書は重すぎたわ。もうその重荷はおろしましょう」

「……うるさい」

「もう、無理はしなくていいのよ」

「うるさい……吾輩は……こんな所で死ぬ為に産まれてきたわけではないのだ」

「ゲリ……」


 沈黙……。その沈黙をやぶるように、ドアが開き、室内に風が流れる。


「ゲリ。久しいな」


 現れたのはヴォルフとビックス。親衛隊の制服を着ている。


「ヴォルフ……」


 キッと睨みつけるゲリ。ヴォルフはゆっくりと距離を詰める。


「何をしに来た」

「終止符を打ちに……」


 ヴォルフが静かにピストルを構える。


「お前の腹心たちはみな、寝返るか捕まったかしたよ」

「うるさい……」


 ゲリは、席を立ち、壁際へとじりじりと後退する。


「もう、どのみち君は助からない。これ以上醜態をさらすべきではない」

「だまれ……」


 ゲリは、壁際の棚へと背中をぶつける。拍子に総統就任の際に撮った、ヒトラーとエヴァの2ショット写真が倒れる。


「潔く、死んでくれないか」

「だまれ、だまれ」

「終わりにしよう、ゲリ」

「死なない……私は死なない! 死ぬものか!!」

「どのみち、ヒトラーは助からない!」

「私は死なない!」


 言うと、ゲリは棚に隠していたピストル(ワルサーPPK)を取り出し、ヴォルフを打ち抜く。弾丸は胸にあたり、崩れ落ちるヴォルフ。


「アドルフ!」

「ヴォルフ様!」


 エヴァが叫び、ビックスが駆け寄る。ヴォルフは、すでに息をしていない。


「はは……死ぬのなら、お前がしねばいい、ヒトラー。私は、私は死なない」


 ゲリは、棚に倒れたエヴァとの2ショット写真を手に取る。荒々しく額縁を外すと、写真を取り出し、4枚に引き裂く。


「私は死なない!死ぬのはヒトラー!お前だ!」


 突如、ヒトラーを光が包む。光は拡散し、部屋の中に充満する。


「こ、これは……」


 ビックスの驚嘆の声だけが響く。そして、光が収束し、消え失せる。


「うっ……」

「ヴォルフ様」


 ビックスの腕の中でヴォルフが息を吹き返す。ヒトラーは床へ倒れこみ、エヴァもまたソファにうなだれている。


「くく……くふふ……」


 エヴァが目を覚まし、声を発する。


「ふふふ……あはははは」

「ぐっ……」


 ヒトラーも目を覚まし、よろよろと立ちあがる。


「うまくいったわ。ねぇ、ヒトラー。いや、エヴァかな?」


 エヴァは目の前のワイングラスを手に取り、一気に飲み干す。


「ああ……おいしい。生きる喜びが身体中に染み渡るわ」


 ヒトラーは立ち上がるも、額に手をやり、頭を振る。


「ゲリ……か」

「ええ。ゲリよ! ふふ……私は生きるのよ」

「エヴァの身体を……返せ」

「あなた、エヴァじゃないの?」

「……ああ。そのようだ」

「アドルフ!……誰でもいいわ。どうせもうすぐあなたは死ぬのだから」


 ヒトラーは、壁に手を付きながらようやく目を見開く。そして、足元に転がるピストルを拾い上げる。


「そうね、そのピストルで自決するといいわ。英雄らしく潔くね。ふふ……私を撃つ事はできないでしょ?だって、この身体はあなたが愛するエヴァのものなのだもの」

「エヴァ……」

「ああ、今ならわかるわ。あなたの目的はエヴァを助け出す事だったのでしょう。ヒトラーが……私がどうなろうと関係ない。そんなものよね。私に関心をもつ人なんてこの世に一人もいないのよ」

「ゲリ……それは違う」

「なにが違うのよ」

「私はもう、誰にも傷ついてほしくなかったのだよ。ゲリ、君にもね」

「なにを。そんな事、言うだけなら誰にでもできるわ。証拠は?」

「……ビックス」


 ヒトラーに声をかけられたビックスは、ヴォルフの左手から4枚に引き裂かれた写真を取り出す。写真には、ヒトラーの肖像。


「君と一夜を共にした画家のオスカル君に会ったよ」

「オスカル……あの男に?」

「儀式の方法を聞いた」

「儀式……」

「できることなら、君と変わってあげたいと思っていた。元々は私が撒いた種だ。終わらせるのも私の仕事であろう」

「アドルフ……おじさま……」

「結果的に、うまくいったようだ。ゲリ、君はヒトラーではなくなった。ビックス、その身体に入っているのはおそらくエヴァだろう。生きているか?」

「はい、ヴォルフ様。息はしております」

「よかった……」

「ふ……ふざけないで」


 ゲリが激高する。


「これもあなたの思い通りだとでも言いたいの?私の意思ではなくて?」

「ゲリ、違う。違うぞ」

「いつもそうよ。あなたは何でも思い通りになると思っているの」

「違う! 私は君に不幸になってほしくないんだ」

「ふざけないで……ぐっ……うぐっ」

「ゲリ?……どうしたゲリ?」


 ゲリが胸を押さえ、倒れこむ。


『カシャン』


 拍子にヒトラーの席に置かれていたワイングラスが倒れ、赤い液体が床に広がる。


「クゥーン…」


 その液体を愛犬のブロンディが舐める。途端にブロンディは呻きだし、泡を吹いて息絶える。


「まさか……毒? ゲリ、大丈夫か」

「う……ぐぅ……ふふふ……」


 ヒトラーがエヴァの身体の中へ入り込んだゲリへ駆け寄る。


「ゲリ……」

「ふふふ……あなたの思い通りにはいかなかったようね……」

「ゲリ、何を言う」

「……いい気味だわ。私は、あなたの思い通りには……なら……ない」

「ゲリ!ゲリ!!」


 ヒトラーの腕の中でゲリの全身から力が抜ける。


「ゲリ……」


『ドゴーン』


 室内に、砲弾の音が響く。どうやら、ソ連軍がベルリン市街への攻撃を再開したようである。


「ビックス。時はあまりないようだ。エヴァ……いや、ヴォルフ君を担いで脱出できるかな?」

「はい。命に代えて」

「はは。君はわかっていない。命に代える意味があるものなど、この世の中には存在しないのだよ。ただひとつ。私の命以外にはね」

「ヴォルフ様……」

「私は、私の目的を達成する。エヴァの救出と、ヒトラーの抹殺」

「は……」


 ヒトラーは、エヴァの身体をソファに整えると、自身も向かいのソファに座り、ピストルの弾丸を確認する。


「ビックス、最後に私の想いを聞いてくれるかな?」

「はっ」

「私の愚かな行為から、後世の人々が何か学び取り、役立ててくれる事を私は祈る」

「……」

「君の回りの人にだけでいい。この事を伝え続けてくれ」

「はっ。確かに」

「ありがとう」


 ヒトラーは、ゆっくりとピストルの安全装置を外し、こめかみに銃口を向ける。


「全ての民族、全ての人々に栄光があらんことを……」


『…………パンッ』




Epilogue…


 その後、ヒトラーとエヴァの遺体はナチ党幹部の生き残りや、SS(親衛隊)の手により、ガソリンをかけられ、燃やされた。これは、彼の遺体を敵に奪われたくないからではなく、発見を遅らせ、少しでも自身らの逃げる時間を稼ぐ為である。

 一方、SSの拘束を解かれたゲーリングは、米軍の捕虜となった。そして戦後、1945年から開かれたニュルンベルク裁判において、ヒトラーとナチ党を弁護。最後までその姿勢を貫き、死刑判決を受け、その後、服毒自殺をした。

 元突撃隊のビックスは、私、ヴォルフ・ブラウンと行動を共にし、イギリスの新聞社に入社。私がこの物語をかきあげる事に、大いに力を貸してくれた。亡き、我が総統、ヒトラーの意思を全うするために。


--ヴォルフ・ブラウン.




「ヴォルフ様。ついに入手しました」

「ビックス……ありがとう」


 ビックスから箱を受け取ると、ヴォルフはすぐさま箱を開け、中身を確認する。


「ビックス……本当にありがとう」


 ヴォルフは、箱の中に納められていた、ヒトラーの遺骨へ涙をおとし、その場に崩れ落ちる。ビックスもまた、立ちつくし、こらえきれない涙が頬を伝うのであった。




【あとがき】


このお話しには、史実上の人物が数多く登場します。

ゲリ・ラウバル、エヴァ・ブラウン、ヘルマン・ゲーリング、エルンスト・レーム、杉原千畝、リヒャルド・ゾルゲ、そしてアドルフ・ヒトラー。そして『ヴォルフ』というのも、ヒトラーがときたま偽名として使用していた名前であり、愛犬ブロンディの子どももまた、『ヴルフ』と名付けられていました。

 彼らの名前を借りる以上、歴史年表は崩さないように心がけましたが、もちろん脚色は随所におこなっております。本当はどうだったのか……気になる方がいらっしゃいましたら、彼らの人生について調べてみるのもまた楽しみの一つになるかと思います(私がそうであったように)。彼らはそれぞれ、一冊の本では収まらない程の数奇な運命をたどっています。そして、戦争とはなにかについて、触れる機会ともなるかと思います。

 平和な国、日本に育った私たちにとって世界で起こっている紛争は、遠い対岸の事。しかし、そこには、確実に本人の意思とは関係なく人を殺し、また何のいわれもないままに殺されていく人々がいるのだ、という事を私は考えさせられました。だから何ができるか、というわけではないのですが……せめて平和を祈り、自らが当事者にならないよう心掛ける事くらいはできるのかもしれません。




【作者プロフィール】

筆者名:あきない

カクヨム、エブリスタで執筆活動中。

【主な作品】

■『選択 【It's his case.But if you...】』

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880332933

短編デスゲームもの。最後の展開は必見!

■『男の娘!(天使と悪魔の恋物語)』

http://estar.jp/_novel_view?w=23794235

短編恋愛コメディ。コンテスト優秀作品選出。

■『K・魔人転生』

https://kakuyomu.jp/works/4852201425154948918

連載中長編。作者の趣味。本格オカルトアクション。

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