赤い人は来なくとも。

 頬を撫でる風が、ツンツンと私の頬をつつく。

 吐く息が白くなるのも、あと数日のことだろう。

 通り過ぎていく店からは、気の早いクリスマスソングが聞こえてくる。

 サンタなんてそっちのけで、恋人たちが愛し合う様子が延々とピアノに乗せて語られている。周りはクリぼっちを回避するのに大忙しで、皆、合コンに気合を入れて挑んでいる。パートナー獲得と言いつつ、今を楽しんでいる。

 そう、周りは近づきつつあるイベントに浮かれて幸せなのだ。

 聖夜に向けた新作ケーキが並ぶケースを窓越しに指を咥えて見つめてみるが、買ったその後を想像してしまい、その場を離れる。


「……何やってんだろ」


 流れてくるラブソングが嫌に私の足を重くした。


 自分が点けなければ、明るくもないし、温かくもないアパートの部屋の鍵を開ける。ドアを開けても、お帰りと言ってくれる人はいないし、温かい出来立ての夕飯が湯気を立ち昇らせているわけでもない。

 少し寒い部屋を溶かすように、遠慮がちな小さなヒーターに手を掛ける。

 少し温まってからお風呂に入ろう。

 服を脱ぐのが億劫な私はヒーターの前の椅子に腰掛ける。冷えていた脚がじんわりと溶かされていくのを感じる。

 それでも、温めてくれているはずのヒーターは一向に私を温めてくれない。

 机の上の写真を眺める。写真嫌いの彼が、唯一、私が向けたカメラに向かって笑ってくれたその顔を指先で撫でる。胸が温かくなるような、きゅうっと締め付けるような感覚に、つい、胸に手を当てた。

 想い合える人はいるのに、会いたい時に会うことができない。それが、もどかしくて、少し寂しくて。お互いの性格故に遠慮して、電話をすることもほとんどなければ、メッセージを投げ合って、連絡する頻度も他の恋人たちに比べれば少ない。いつも何とも思っていなくても、こういう時に、寂しさがひょっこりと呼んでもいないのに顔を出すのだ。

 寂しいなら、自分から電話を掛ければいい。連絡の頻度を増やせばいい。

 それは分かっているのに、私の中にいる弱虫が、随分と足を引っ張ってくれるのだ。その挙句、彼から連絡の頻度が増えないかと自分はしないくせに相手に期待するときた。

 そこまで思っていても、なかなか、自分からしようと実行に移せず、頭の中で、馬鹿野郎と自分を叱責するのだ。

 嗚呼、少しだけと思っていたのに、もやもやと考えている内に、一層ヒーターから離れられなくなってしまった。

 不意に、帰路で耳に入ってきたクリスマスソングが脳内で流れ出した。それをきっかけに、周りの子たちの独り身に焦る素振りを見せながらも、忙しくする今を楽しんでいる姿が脳裏にバラバラと過ぎっていく。


「……なぁにが、クリぼっちだ」


 誰もいない部屋でも、呟かずにはいられなかった。

 焦るみんなには、まだ、二人でクリスマスを過ごす希望があるじゃないか。今は独りでも、もしかしたら、赤い人が素敵な誰かとの縁をプレゼントしてくれるかもしれない。その希望がまだ残っている。

 でも、私は――。

 最初から独りだったら良かった。貴方がいると分かっているから、貴方とは過ごせないと分かっているから、最初から独りで方より寂しいのだ。

 クリスマスならもしかしたら、と何処かの恋愛ドラマのような展開を、ほんの少しでも期待してしまったばかりに、現実を突きつけられたその虚しさが色濃く私に纏わりつく。

 らしくもない考えを取っ払おうと、足の先を風呂場に向ける。この終わりの見えない靄を一緒に流してしまおう。それがいい。さっぱりして、酎ハイでも飲みながら、借りていた映画を観よう。

 幾分か靄からも解放され、簡単に髪を乾かして、冷蔵庫を開ける。白桃サワーと書かれた酎ハイ缶と常備しているベビーチーズを取り出す。今日は、バジル風味にしよう。

 部屋の照明を少しばかり暗めにし、DVDをテレビにセットする。どかり、とソファに深く腰掛け、傍から見たら、この状況、彼氏がいる女には見えないな、なんて自分を客観視しながら、プシュリ、と勢いよく酎ハイ缶から音を立たせる。

 折角、靄を晴らしたというのに、変なことを考えたせいで、また靄が呼んでもいないのに顔を出しては私にぴたりとくっついてきた。

 靄を晴らすように、わざとらしく一つ大きな溜息を吐き、ぐっと喉へと甘いしゅわしゅわを伝わせる。

 ――ピロン。

 そろそろ時計の両針がてっぺんを指そうとしているというのに、一通のメッセージが入る。急ぎだろうかと確認すると、彼からだった。


「えっ、あっ」


 口に入れかけていたチーズを危うく落としそうになる。

 どうしよう――。

 別に、彼が目の前にいるわけでもないのに、誰もいない部屋で一人あたふたする。嬉しさと驚きと期待とがぐちゃぐちゃに私の頭の中で混ざり合う。一度、深呼吸をして、バクバクと嬉しがる正直者の心臓をなだめ、彼のメッセージに既読を付ける。


〈冷えてきたね。こっちは、随分寒くなったけど、君の所の方が寒いのかもなあ〉

 

 急ぎでもないただの世間話。


〈そうだね。こっちも、だいぶ寒くなってきたかな〉


 返事を返すと、直ぐに既読が付いた。


〈今年は雪降るかな?〉


 彼らしいなと思わず口許が緩んだ。お互い南国育ちで雪が降るというのは、ビッグイベントの一つだ。一緒に地元で数年ぶりに雪が降った時にはしゃぎまくったのを思い出した。

 会話は、これと言って特にお互いの話を深くするわけでもなく、つらつらと緩い空間を作っていった。ある程度話していると、急に彼の返信のテンポが遅くなった。


〈……どうしたの?〉


 返事が返ってこない不安が私の裾をついついと引っ張った。メッセージに既読は直ぐに付いた。


〈いや、〉


 何か言いたげな彼の言葉を待つ。


〈すまんな〉


 彼の言葉に首を傾げる。


〈なんか話したくてどうでもよい内容なんだけど〉


 一瞬で顔が熱くなるのが分かった。相変わらず正直者の心臓は、胸の中でキャアキャア黄色い歓声を上げながら踊り始める。

 ただの短い文なのに、彼の声で脳内されて、ますます火照って仕方がない。


〈私も、話したかったから、ただ話せるだけで、そう言ってもらえるだけでも嬉しい〉


 あまりにも嬉しすぎて、正直に返してしまう。きっと、面と向かってじゃないから少し強気になれているのだ。今はその状況に感謝した。


〈本当は、クリスマス、一緒に過ごしたかったんだけど、こっちで色々忙しくて都合がつけられなくて……〉


 踊っていた心臓が寂しさで一瞬止まったかと思った。


〈お互い、忙しいもんね。仕方ないよ〉


 ――嘘。本当は、どうにか頑張って一緒に過ごしたかった。

 物分かりのいい彼女の振りは、優しい彼を困らせないため。


〈クリスマスはね、学校周辺の人たちにケーキを御馳走するんだ。最近はその準備で忙しいんだ〉


 調理学校に通う彼らしい忙しさだと思った。細いながらもたくましさを覚える腕で大きな天板をオーブンから出し入れする姿を思い浮かべる。


〈みんな喜びそうだね〉


 きっと、彼は一つ一つを食べる人を想って作るんだろう。「真心込めて作った」という言葉がよく似合う。彼の作ったケーキが食べられる人たちを羨ましく思った。


〈今度会う時は、君に僕の作ったケーキを食べてほしいな〉


 正直なその言葉に、ついつい表情が緩んだ。


〈楽しみにしてるね〉


 彼の気持ちを受け止めて、私も素直に気持ちを返す。


〈君のクリスマスの予定は?〉


 自分のスケジュール帳の中身を思い出す。クリスマスシーズンとは思えないほどの白さだった。


〈あるよって言いたいところなんだけど、何もないかな〉


 彼氏彼女のいる友人は恋人と過ごすし、独り身はクリスマス合コンなんて言って出掛けるらしいし、と周りの予定を思い出す。きっと、独りで遠慮ながらにチキンとローストビーフを買って、コンビニスイーツと赤ワインでクリスマス気分を味わうのだろうとぼんやりと思った。


〈そっか〉


 彼からの返事は、言葉を選んだ挙句のものか短かった。

 気づけばだいぶ時間が経っていて、お互い、明日に支障を来さないようにとこの日の会話はお開きとなった。


 周りの盛り上がりはピーク。恋人たちは幸せそうに手を繋ぎ合い、親子はケーキを嬉しそうにする子に持たせ、独り身は女子会、合コン、イベントスタッフとそれはそれで楽しそう。

 私は、淡々と骨付きチキンとローストビーフと赤ワインをスーパーで買い、コンビニはやはりと小さなケーキ屋でショートケーキとプリンを買い、そそくさと幸せオーラに包まれた人々の間をすり抜け、アパートに戻った。

 相変わらず、明るくも温かくもない部屋に戻り、両手に抱えるご飯たちが一層哀愁を強くさせる気がするのは何故なのか。

 早々に風呂を済まし、パックをしている間に、チキンをトースターで温め直し、ローストビーフを更に盛り付ける。スキンケアが終われば、赤ワインを開けて、気分だけでも楽しもうとそれっぽいワイングラスに少量注ぐ。

 机に並ぶものはいつもより豪華なはずなのに、やはり寂しさは拭い切れない。これが、クリスマスの悪戯というものか。


「やっぱり、分かっていても寂しい」


 誰もいないが、誰かに聞いてほしくて、一人の空間に寂しさが弱弱しく響き渡る。

 彼は今、何をしているのだろうか。まだ、ケーキを御馳走しているのだろうか。それとも、片づけに追われているのか。将又、お疲れ様、と打ち上げをしているのか。

 最後の可能性を色濃く想像してしまい、溜息が漏れる。

 想像するのはもうやめよう。今は目の前の御馳走を堪能しよう。

 久しぶりのチキンは子供に返った気がしたし、ローストビーフはより大人感を味わえた気がする。赤ワインともよく合って、何よりクリスマスを感じた気がする。やや満足して、今度は、ケーキの箱に手をつける。

 メリークリスマスとご丁寧に書かれたラベルをペリッと剥がしたところで、電話の着信音がなった。

 ――彼からだった。

 直ぐに電話を取る。


「……もしもし」

〈あ、もしもし? 今、電話大丈夫だった?〉


 声は落ち着いていて、周りも静かだった。


「私は全然。独り家でクリスマスを満喫してたって感じかな」

〈そっか〉

「そっちは? 今日は忙しかったんじゃ?」

〈嗚呼、さっき片付けも終わって、家に帰ってきたところ、僕もゆっくりクリスマスを満喫しようかなって〉


 ふと、違和感を覚えた。


「打ち上げとかはなかったの?」

〈ああ……あったけど、いいかなって〉


 へへ、と彼は照れたように笑っているようだった。


〈直接は会えないけど、夜くらい、君とクリスマスを過ごしたいなって思って〉


 ――ずきゅん。


 クリスマスに舞い降りた天使か将又、寂しそうな私への赤い人からのプレゼントか。少女漫画であるような胸を撃ち抜かれる感覚が、まさか、私に起こるなんて思ってもいなかった。


「……えへへ」


 嬉しすぎて、口をパクパクさせているだけで、やっと出た言葉は、ただの笑みだった。照れ過ぎて何も言えない。


〈本当は、電話掛けるの凄く緊張したんだよ。いつもそんなに電話なんてしないし、本当に用事ないのかな、とか考えちゃって〉


 安堵したのか、彼は早口に思いを吐露する。そんな彼をとても愛おしく思う。


「……か、掛けてくれて、声聞けて凄く嬉しい」


 勇気を出して、自分も思いを伝える。暫し、お互いに恥ずかしくって黙り込んでしまう。微かに、彼の吐息が電話越しに耳を撫でた。


〈……改めて聞くけど、今晩は、僕とクリスマスを過ごしてくれますか〉

「……もちろん」


 開いたケーキの箱から漂う甘い香りは、忘れかけていた乙女心を呼び起こし、彼の優しい声が、その心を潤した。

 こんなクリスマスも、一種の幸せかもしれない。

 クリスマスの夜、耳と舌は甘さにとろけた。

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