第3話

 朝、セシルは鏡の前に立ち、やはり変化のない現実に落胆する。もっとも寝るだけで元に戻っていました、などという都合の良い話がそう転がっているわけもない。だが万一にも夢であったら、などと思わずにはいられない。

 立ちふさがる現実の鏡を前にセシルは、どうしてこんな風になってしまったのか、と思わずため息が出る。男のときに着ていた服はぶかぶかで、それでも着る服はそれしかないので仕方なく身にまとっている。

 もしこれが男のころのセシルの前に立とうものなら、なんてサービス精神が旺盛な女だと思うところだろう。それがセシル自身であるのだから、このまま外に出ればどんな目で見られるか、なんて言うのは手に取るように分かる。

 セシルはこめかみを押さえる。まったく考えたくもないことだ。

 とは言え、セシルもあれから一日、そんな不毛なことを考え続けたわけではない。今の状況をいろいろと確認をしてみていた。

 なんといってもまずは体がどうなっているか、と言うことだ。どういうつもりかはしらないが、セシル愛用の銃は部屋の机に置かれていた。

 自暴自棄になってこれで撃たれると言う疑いの目を向けなかったのか、もしくは詰めが甘いのか、はたまた優しさなのか。

 といくつか思考を巡らせるも考えても仕方ない。まずはそいつを持ってみた。

 以前は重みなど感じなかった拳銃も、今の華奢な腕ではずっしりと重くて、引き金を引いたらどうなるのか想像もつかない。これではまるで大型の狙撃銃を手に握っているような感覚だ。

 もちろん影響はそれだけじゃない。体能力もかなり低下していて、軽く体をひねってみたり、飛んでみたり、と部屋の中で出来ることは一通りやってみるものの、思っていた以上にセシルの想像からかけ離れていた。おまけに、普通よりも若干大きめな胸がことあるごとに強調して邪魔くさい。まさかブラジャーなるものをつけるわけにも行くまいし、とセシルの悩みの種は尽きない。

 ダンの言葉を鵜呑みにするのであれば、これから先、どれだけの間この体と付き合っていくことになるのかは分からない。

 まずは自分の身を守るためにも、この想像とのズレを修正が必要だった。

 と、昨日を振り返っていたセシルは身震いをする。

 昨日からトイレにも入っていないし、シャワーも浴びていない。それをやってしまえばセシルは現実を叩きつけられて、自分が男でないことを直視しなければならない、と思ったからだ。もっとも鏡越しに自分を眺めると言う意味でも既に砕けている等と言うのは、ご法度だ。

 しかしそれも、もう限界だった。いくら嫌だからとは言え、人体の生理現象に逆らうことなどで気はしない。なによりこのまま行けば、確実に漏らしてしまう。それは男とか女とかそれ以前の問題で人として避けたいラインだ。

 逃げられない現実。セシルは仕方ない、と覚悟を決めトイレへと入り、だぼっとしたズボンを下ろす。どうにもこうにも避けられない現実が目の前に襲い掛かった。


「……ファック……」


 可愛らしい高い声がトイレの中で響く。

 以前であれば興奮してやまないその景観も、今はセシル自身のことだからか、大して興奮もしない。何とも悲しい現実だ、と落胆する。

 セシルは立ってすることの出来ない現実を受け入れ、座り込み、用を足す。

 そう言えば以前、ダンと下らない話をしていた。もし女になったら、などと言う話をしていたことがあった気がする。そのときのセシルの答えは弄り回す、と言う解答だったはずだ。

 もっとも実際そうなってしまうと、ショックの大きさと、そして体が変わってしまったからか、そんな気すら起きない、と言うのが現実だった。何とも悲しいことだ、とセシルは嘆く。今の体には男の夢が詰まっている、と言うのに。

 ともあれセシルは、用を終え、女のそれを実感してしまう場所を、忘れそうになりつつもすんでのところで思い出し、拭きズボンを履きなおす。

 そうしてトイレから出ると、


「やぁ、セシル。どうだい、女の子になって一日たった気分は」


 ダンがにやにやと笑みを浮かべて立っていた。

 間違いなく楽しんでいるな、とセシルは思いつつ、ダンを睨み付けるように見上げる。


「いつから居やがった。このド変態のファッキン野郎」


「ド変態とは心外だな。と、質問のほうは、そうだね。キミが憂鬱そうにしてトイレに入っていく辺りかな? で、どうだい? 一日もたったんだ。キミ前に言ってただろう? 女になったら体を弄り回すって。性欲の塊で出来たキミのことだ。もう堪能したんだろ?」


 はっはっは、と隣人が人の真似をしたようなぎこちない笑い声を上げながら、ダンはセシルの頭をぽんぽんと軽く叩く。セシルはその手を鬱陶しいとばかりに払いのけて、


「っへ、残念だったな、ダン。脱いだのは今のが初だ」


 ダンがセシルの行動予測をはずしたことに若干の優越感を覚え、反論する。と、笑っていたダンは真剣な表情になって口を開く。


「キミ、それ本当に本気のマジで言ってて、間違いのないことなのかい?」


「あ? うるっせーな。当たり前だボケ」


 ダンはおもむろに、セシルの額に手を当てる。


「どうやら熱はないようだ」


「うるっせーよ! あるわけねぇだろ!」


 ダンの腕を思いっきり払って、反論する。


「キミ、女の子になって性欲も落ち着いたのかい? 僕が思うに以前のキミだったら、今の君の姿を見たら即座に落としにかかってその日は宿に帰ってこないものだったんだけどね。僕はその姿を見るたびに呆れかえっていたものだよ。それがまさか」


「あー、もう、うっせーよ! てめぇ何しにきたんだ!」


「おっと、そうだった。ごめんごめん。そろそろキミも起きたかと思ってね。宿のチェックアウトの時間もそろそろだから支度を急げ、と言いに……」


 と、そこでダンは口を閉じて、セシルの容姿を上から下まで隅々までじっくりと眺めると、ふっ、と馬鹿にしたような微笑を浮かべる。


「ま、キミの今の格好じゃ支度も何もないか。どの道、今のキミはその不釣合いな服しかないんだからね」

「てめぇ喧嘩売ってんのか!?」


「売ってたとしても今のキミじゃあ喧嘩なんて買えないだろうよ。ともかくキミのその不恰好な服を含めて買い物してからこの町を出るとしようか」


「……クソが」


 ダンが一度、そうする、と決めたことに対してセシルが何か反論して曲げれた試がない。いくらセシルが女になってしまって、訓練を重ねたい、やら戻る方法を探したい、やら言ったところでダンは受け入れないだろう。それどころか、もっともな反論を返してきてこの町を出ることを納得させられるはずだ。

 長年の付き合いでそれくらいはセシルにも分かる。だからこそ、昨日もそれ以上の反論をせずに終わったのだ。ただでさえ異常事態で心身ともに疲労がたまっていると言うのに、これ以上、無駄な反論で疲労を作りたくなかった。

 セシルはダンの通りに荷物をまとめて部屋から出る。入ってきたときは軽かったはずの荷物がやたら重く感じて、嫌でも力が落ちたことを思い知らされた。

 そしてそのまま、チェックアウトをして車に荷物をつめる。そして、今回、運転するのはセシルの番だったはずなので、運転席に乗ろうとすると、


「ああ、セシル。今のキミに運転させるのは、なかなか忍びない、もとい、運転すら出来ないだろうからね。今回は僕が運転するよ。キミはもう少し養生するといい。これから、服を買うわけでもあるしね」


「どういうことだ?」


「そのままの意味さ。ほら、早く乗りなよ」


 セシルはいまいち納得のいかないまま、助手席に乗り込むと、ぶろろろろ、と排ガスを噴出しながら車が走り出す。

 亀裂の走った建物と、人通りの多い舗装されていない道を車はゆっくりと走る。はるか昔はしっかりと整備されていたらしいが、今はそんなところは本当に滅多にない。ほとんどが旧世代の遺品を使っている。

 亀裂の走った建物の合間から金属の塔たちがニョキニョキと生えていて、黒い煙ももっくもっくと出ていた。そのせいだろうか、この町はもやがかかったようになっていて、少しばかり視界が悪い。

 そんな町並みを眺めながら、セシルは口を利く。


「で、ダン。俺の服はどこで買うんだ?」


「なに、僕も下調べをしていないわけじゃないからね。多少は調べておいてあげたよ」


 前を見ながらダンは言うと、ドアポケットから一枚の紙を取り出して、セシルへと渡す。どうやらこの町で女物の服を扱っているお店の数々を調べておいたらしい。


「へぇ、女物の服を下調べ、だなんてとんだ変態じゃねぇか」


「あのねぇ、キミ。さっきも聞き流してはいたが、僕だってそれなりに傷つくんだよ? キミにそんなことを言われる日が来るなんてショックすぎてどこかに突っ込みそうだ」


「っは、突っ込みたきゃ突っ込めよ! ま、どうせてめぇの突っ込む先なんざ男のケツの穴くらいだろうがよ」


 ダンの顔が若干引きつったのを見てセシルは少し満足しつつ、紙の詳細を眺める。なるほど、確かに町の地図に星印がついている。これなら一発で分かるだろう。

 その地図によると、どうやらこの辺りに、なんてセシルが思っていると、ダンは先ほどのお返しだとばかりに、ニヤリと顔を歪めると、


「さあセシル。降りるんだ」


「……おい、ダン。どういうことだ、こりゃ」


「どういう? そのままさ。キミに似合う服屋を探したらここに行き着いたまでだよ」


 目の前にあったのは、そうもう少し男っぽさが残っているのかと思いきや、完全な女の子の服を扱っているお店。もくもくとしたもやのかかった町並みからは想像しがたい鮮やかな店の出で立ち。周囲から切り離されてまるで異界にでも迷い込んでしまったかのようにすら思えた。


「ふざけんな、俺は降りねぇぞ!」


「セシル、わがままは良くないな。ほら早く降りるんだ。それともあれかい? キミそんな格好で男のブツを突っ込まれたいのかい?」


「ふざけんじゃねえ! そんなのお断りだ!」


 ダンは車から降りてバタンと戸を閉めたかと思うと、そのままセシルのほうへと回ってきて、無理やり引きずり降ろそうと腕をつかんで引っ張ってくる。


「じゃあ我侭を言わないことだ」


「ファック! ふざけんな! 俺は降りねぇぞ!」


「キミ、そのだぼだぼの動きにくい服を着てたら、それこそいざと言うときに身を守れないだろうに。ついでに男のブツからもね。ともかく降りるんだ」


「今降りて突っ込まれそうになったらどうすんだよ!」


「そりゃ諦めるんだ」


「てめ……やっぱ降りねぇ!」


 と、そんなやり取りむなしく、セシルはいとも簡単に引きずり降ろされてしまう。そしてバタンと車の戸を閉められ、店の中にと連れ込まれる。

 いらっしゃい、と言う声が聞こえたかと思うと、すぐさま女性の店員が二人の下へと駆けつけてきた。そして嫌がる様子を見せるセシルを見て気を利かせたのか、それともダンに対して警戒をしたのか、


「あら、可愛らしいですね。若……奥様……ですか?」


「おく……ふざけてんじゃ……」


 セシルはもごもごと口をふさがれて、


「いえ、保護者です」


「……保護者、ですか?」


 少し怪訝そうな顔をする店員であったが、ダンは気にせずに続ける。


「ええ。とりあえず彼女にあう服を何着か見繕ってくれませんか? この通り無頓着なもので。少なくとも一着は動きやすい服、それからもう一着は外行き用の服がいいですね」


 女性店員は、分かりました、と言うとセシルの手首をつかんで奥へと連れ込んでいく。セシルも普段であれば振りほどくであろうその手すらも、セシルよりも大きい相手であったので、振りほどこうにも振りほどけなかった。

 ダンからそこそこ離れたかと思うと、店員は店内の服を物色しつつ、


「近頃多いんですよね。私もそういったものの後押しをしなければならない職についていると思うと気が重いです」


 セシルは何を言っているのだ、と怪訝に思い首をかしげる。何が多い、と言うのだろうか。いやそもそも、気づいているなら止めてくれないか、とセシルは思う。


「貴女もお気の毒です」


「気の毒? 何の話だ」


「まだ自分の立場に気づいていないんですか? 貴女、あの男の愛玩動物として売られたんですよ。これは貴女を着飾るために、あの男を満足させるために貴女をより可愛くしなさい、とコーディネートしなさい、と言われているんです」


 何を言っているんだ、とセシルは足元から崩れ落ちそうになる。

 確かにそのような話はよく聞くし、秩序が崩れかけている今のこの情勢であれば、何も珍しい話じゃない。貧困にあえぐ家族の場合、あるいは戦場で捕虜となった場合、あるいは、単純に身売りをした場合、あるいは、隣人の被害にあった地域で残党に捕まった場合。

 いわば秩序の崩壊した裏社会を表すように行われる人身売買。しかし、よもやセシル自身がそんな状況になったのでは、と心配される立場になるとは思いもよらなかった。


「そもそもですね、貴女あのような態度ではすぐにボロ雑巾のようにされてお役御免となってしまいますよ。私は貴女に手を差し伸べることは出来ませんが、せいぜいアドバイスくらいはできます。いいですか」


「ちが……」


「良いから黙って聞いてください。あのような嫌そうな態度は止めたほうがいいです。もっと愛嬌を持って接するんです。それだけで良いんです。嫌かもしれないですが、貴女の今後を思えば決して悪くないはずです」


 セシルは思う。俺はいったい何を教わっているんだ、と。

 けれども店員はセシルが反論しようとする前に、良い服を見繕ったのか、再びセシルの手首を引っ張って、更衣室へと連れ込まれる。


「さぁ、脱いでください」


「はあ? なにをだ!」


 脱いでください、と言ったはずの女性店員は否応なしに男だった頃に着ていた、だぼっとした服を手馴れた手つきで脱がせ始める。もしかしたらこの店員は普段から、こういった客の相手をしているのかも知れない、と思わせるには十分な手さばきだった。


「まったく貴女は可愛らしい顔立ちをしているんです。こんな服を着ずにちゃんと、私がコーディネートしさえすれば、きっとあの男の一番のお気に入りになれます。そうなれば、今までどのような経験をされてきたかは分かりませんが、間違いなく今までとは違う、なに不自由ない生活が送れるんです。私から見てもあの男は別に悪い顔立ちじゃあないんですからね。貴女はもしかしたら嫌かもしれないですが、こんなご時勢ですよ。そうやって命の保障をさせてもらえるだけありがたいと思って――」


 云々。

 セシルの耳にはあまり店員の言葉が入ってこなかった。何しろセシル自身の一糸まとわぬ姿で鏡の前に立たされているのだ。

 ぷるんとした胸は服を着ていたときよりも大きく見えて、腰の辺りは細く華奢で、少し殴っただけで折れてしまうのではないか、と思わせるほど。足も以前よりもずっと細くなっていて、これで立っていられるなんて、どうかしてしまうのではないか、と感じられた。

 そして何より。今まではあって今はなくなってしまった部分を見つめ、もう後戻りの出来ない何かをセシルは実感として感じてしまった。

 放心気味のセシルは店員に言われるまま、可愛らしい服を――


「ふ、ふざけんな! その服も下着も着ないぞ!」


「いいから着てください! っていうか貴女、私の話聞いていたんですか?」


「ふざけるな! 断る!」


「セシル? 駄々を捏ねない。時間もあんまりないんだ」


 どうやら更衣室の中で暴れまわっているのがダンにまで伝わってしまったようで、口を挟んでくる。

 と、店員は渡りに船、とばかりに、


「旦那様、すみません。これをお持ちいただけませんか?」


「旦那様?」


 と、ダンは怪訝そうな声を上げつつ店員が外に出した服を見て理解をしたらしい。


「ん、なるほどね。良いよ」


「な! おい! どこにやってんだ!」


 そこでセシルはようやく理解する。

 今まで着てきた服の一式をダンに渡された。すなわち、店員が持ってきた可愛らしい、スカートやら、下着やらを着なければ素っ裸で外に出ることになる。退路を絶たれたのだ。

 声を上げようとするセシルを見て、店員はシッと、唇に手を当てて、


「いいですか、少し酷かも知れませんが、こうでもして着ていただかないと酷い仕打ちにあいますよ?

「うるせえ! 余計なことしやがって! ダン! よこせ!」


「へぇー、なるほどね。なかなか強情じゃないか。店員さん、いいですよ。もし嫌がるようであればそのまま出てきてもらいますから」


 くっくっく、と押し殺した笑いが更衣室の外から聞こえてくる。


「セシル。キミどうやら今の状況をまだ把握しきれて居ないみたいだからね。ちょうど良いお灸になるだろうよ」


 それを聞いた店員が、ほらね、と言いたげにセシルを見て、服を押し付けてくる。


「聞きましたか? せめて同じ女性として私は」


「俺は男だ!」


 じろり、と店員が上から下までセシルを眺める。そして呆れから来たであろうため息をついたかと思うと、


「何を言っているんですか。どう見ても女性です。いいですか、あの男は穏やかで優しそうな顔をしていますがね、きっと中身はどす黒い悪魔のような人です。もし貴女がこのままそういう態度を取り続ければ、きっと恥辱の果てに殺されてしまいますよ」


「だからそれは勘――」


「店員さん、無理させなくて良いですからね」


 隠そうともせず外で笑い声をあげるダンにいい加減、セシルは業が煮えてきた。この状況で楽しんでいるダン。

 それだけじゃない。性別が変化する、なんて大それた事が起きて、次の日には町を出るなどと言い出した状況から始まり、セシルの性格が治るのではなどと楽観視するその態度。たまりにたまったものが、セシルから少しずつ漏れ出していく。


「あの野郎……! 好き放題言いやがって! 取り返してやる!」


 もう関係ない、たとえ負けたとしてもダンを思いっきりぶんなぐってやる、と更衣室を空けようとするセシル。思えば日に一発もダンを殴らない日などなかった筈なのに。絶賛殴らない記録を更新中だ。

 しかしその様子を見て、店員は焦ってセシルを止めに入る。セシルよりも少し背の高い店員は焦っているらしい。必死にセシルを止めて、


「着てください! 今の貴女は裸なんです。そのまま外に出たら!」


「いいですよ。そのまま出してください。キミのその姿、なかなか興味深くて見てみたい気もするからね」


「ファック! 殺してやる! 離せ!」


「や、止めてください!」


 そんな問答は、他の女性店員がやってきてセシルに無理やり服を着せるまでしばらく続くのであった。

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