第2話
セシルは夢を見た。そう、これは長い間、忘れていた夢。家族と共にすごした暖かい時間だった。
父は厳しかったが、決してセシルのことを思っていなかったわけじゃないんだと、いまさらながら分かる。母は優しく、いつもセシルのことを気にかけてくれていた。二個上の姉はセシルをからかってはいたものの、泣きじゃくるセシルを見ると、しぶしぶと言った感じで、それでも優しく声をかけてくれた。
そんな、暖かい記憶。
「おいおい。キミ泣いているのかい?」
突如、ダンの声が割って入ってきた。
んなわけねぇだろ、とセシルは言いたかった。だが頭は起きているのに体が起きていないらしい。どうも体がだるくて重くて、口が痺れたみたいに上手く動かない。
口より先に開いたのは目だった。害虫がたかってんじゃねぇ、と言いたくなるほど近くにダンの顔があって、気持ち悪い、ただそれが先行した。
その気持ち悪いを伝えたいがために、気合で動かした口から、
「ゴミ虫が……ちけぇよ、カス」
いつものセシルの低い男の声じゃない、まるで女の子ような高く可愛らしい声。どういうことだ、とセシルは体を動かそうとするものの、なかなかどうして、上手く動かない。
その様子を見かねたのか、ダンはとんとん、とおちょうるようにセシルの額を叩いて、
「キミがまさかこんな風になるとはねぇ」
普段だったら、ダンのそんな口ぶりを聞こうものなら、その場でファッキン野郎とでも叫びながら銃を抜くところだろう。
しかし今は思うように動かない体。そして何より、まるで自分の声でないような声が喉を震わせている事実。そちらのほうが気になった。
きっと喉の調子が悪いのだ、とセシルはゴホゴホと無理やりに咳払いをしてみるものの、その咳払いすらもいつもと違う。
「……クソ野郎……なんだ、この声。どうなっちまってんだ」
「あぁ、なるほどね、セシル。もしかしてキミはまだその体に慣れていないのかい? 僕がこんなこと言えばすぐに銃を抜き出すのに、そうしない、と言うことは」
にやにや、と意地の悪そうな笑顔を浮かべるダンにセシルは舌打ちをする。
「てめぇ、あとで覚えとけよ」
「はは、よくよく覚えておくよ。もっとも、キミがこの姿を見ても同じ事を言えれば、だけどね」
「なにをっ」
ダンが出してきた鏡を見て、セシルは絶句した。
鏡に映っていたのは、セシルであってセシルでなかった。どことなくセシルの面影を残すものの、まつげは長く、唇はぷるんと赤く、そして肌は決め細やかになっており、年齢すらも少しばかり幼くなっている様にも見えなくない。極めつけは短髪であったはずの金色の髪が、肩まで伸びているのでは、と思わせるほど長くしなやかなものになっていた。
変わっていたのは顔つきだけではない。体つきもまったく違っていた。人よりも少しばかり広かった肩幅は、なで肩で丸みを帯びて、筋肉も落ちている。最も特筆すべきは男にあるはずのない胸にあるふくらみだった。その現実は、鏡を通して否応なしに映し出す。
そう、セシルは彼でなく、彼女になっていた。
「……どういうことだ……」
「そうだな、キミ。どこから説明して欲しい?」
そう言うとダンは近くにあった椅子に腰をかける。
セシルは舌打ちをする。どこから教えて欲しい、ではない。馬鹿が、と。どこから、なんて言うのは下地がある人間に対して聞くことであって、今のセシルは何一つ知らない。どこから、ではなくすべて、なのだ。
「回りくどいのもいつものことか、くそが。良いか良く聞け、ファッキン野郎……俺は何も知らねぇんだよ」
セシルのドスを利かせたであろう可愛らしい声に、ふ、とダンは顔を柔らかに歪めると「ま、そうだろうね。だとすればキミが死ぬ直前から、話せばいいかな」と言って言葉を続ける。
「無茶をするもんだと思ったよ、まったく。キミはいったいどんな化け物と戦ったんだい? 体中ぐちゃぐちゃで死んだと思ったね。運よく手に入れた隣人の落し物を売らずに良かったよ。本当に、キミの言うことなどあまり聞くものじゃないね」
「あぁ? 俺に文句あんのかよ」
「はいはい。キミのその可愛い声、文句ないよ」
思わぬ反撃にうぐ、とセシルは言葉を詰まらせる。それをよそにダンは、おっと、と続ける。
「話がそれるね。ま、そのままの通りさ。落し物、と言えばキミも何のことだか分かるだろ?」
ダンの言葉にセシルは口をつむぐ。
落し物と言えば「人の技術を超越した何か」で作られた「人の技術を超越した効能を持つ何か」だ。自らが隣人と呼ぶ悪魔とも魔人とも取れる異形のものたちが作った何か。平たく言えば何かすごい物だが、良く分かっていないもの、になる。
それが何かの拍子で隣人から人の手に渡ったとき、それは隣人の落し物、と言う名前で呼ばれるようになる。
もっともそれは非常に高価なものであるし、このご時勢、売れば大きな財産を築けるものでもある。喉から手が出るほど、とはまさに字面の通りで、巨万の富を有した大富豪が資産をすべて投げ打ってでも手に入れる価値があるものとまでされている。
そんなわけでセシルはそれを手に入れたとき、目的の物でもなかったのも相まって、売ってしまえ、と言っていた。それをダンが頑なに万が一があるかも、と言うことで取っておいたのだが、どうやら今回はそれに助けられたらしい。
セシルは不本意ながら、ダンの言うことが間違いでなかったことを認めざる得ない。苦虫をすり潰したような顔で、
「で、それを使ったらどうして俺が女になったんだ?」
可愛らしい声が、辺りに響く。
「さあね。僕が知るわけないよ。もっともキミが生きているのだから効果は素晴らしいものだということは分かったけどね」
ダンのその言い分からするに、どうやらセシルに全てを使い切ったわけではないらしい。と言うことは、とセシルは考えを改める。
もう一度それを使えば元に戻れる可能性がある、と言うことだ。
「まだ残ってんのか?」
「残ってないよ」
「ファック! 期待させんじゃねぇよ!」
「ん? もしかして残ってるって期待したのかい? 残ってたとしても今のキミには使わないとも。キミは少し喧嘩っ早いのを治したほうが良いからね。女の子になったくらいがちょうど良いんじゃないかい?」
ダンは椅子に深く腰をかけ、まるで分かっていないな、とばかりに首を振る。
てめぇ、と体を動かそうとすると、セシルは気づく。どうやら先ほどよりも慣れてきたのだろうか。体がそこそこ動くようになっている。
この分であればすぐ隣に、しかも椅子に深く腰をかけているダンなら不意打ちで思いっきり顔面を殴れるかもしれない。
思い立てばすぐ行動。セシルは体を捻りながら起こす。慣性に揺られ強調する胸が少し邪魔であったが、かまわず拳を握り締める。そしてそのまま、ダンの顔面へ向けてストレート。初動の体勢こそ悪かったものの、鼻血を出させるくらいの勢いあるパンチを繰り出したはずだった。
しかしセシルの体は男であったころよりもだいぶ小さくなっていて、もちろんそれは腕の長さも例外じゃない。つまりセシルから繰り出されたパンチはダンに届くことはなく、いや、それだけならまだ良い。重心がずれてしまった影響か、はたまた勢いあまったパンチの影響か、ベッドの上から頭から滑り落ちてしまった。
それを見ていたダンは腹を抱えて笑い出す。
「殺す……!」
セシルは不慣れな体を必死で動かし、よろよろと起き上がりながら、再びダンに向けて拳を振るう。けれどもダンがひょい、と体を傾けるだけでセシルの拳は宙を切り、鼻から倒れこむ。
むぎゅ、と言う以前のセシルであればありえないような声を出して床へ顔を打ち付ける。一通り笑い終えたのか、ダンはやれやれ、と首を振り、
「セシル、キミはもう少し自分の体に自覚を持ったらどうだい?」
セシルはもにょもにょと胸に引っ付く脂肪が、重力に沿って下に落ちる形になるまで体を起こす。
「てめぇ、避けてんじゃ……」
その先は言えなかった。
ダンにポン、と頭を押され軽く押されてしまった。セシルはその衝撃を隠し切れずに。
「今のキミはどうやったって戦場の隣人と呼ばれるそれとは程遠いんだよ。もっともその格好であれば喧嘩っ早いその性格も治りそうな気もするけどね」
「っく、てめぇふざけんな……! いや、もしや謀ったな?」
「謀る? まさか。僕が『隣人の落し物』の詳しい効能を知るわけないだろ? 本当にキミが助かるかすら賭けだったんだ」
それに、とダンはセシルを無理やりに起こし、ベッドの上へ投げ捨て続ける。
「よもやキミ、『隣人の落し物』の価値が分からないはずはないだろ? キミのことを心配しなければ使いやしないよ。感謝こそされど、恨まれる筋合いはないと思うよ?」
セシルはその言葉を聞いて、うぐ、と押し黙る。
確かにその通りだった。売れば大富豪の富がそのままに入ってくるのだ。それを、ダンはセシルのために使った。ダンの言い方や伝え方、そしてセシルに対しての扱いはともかくとしても、彼の言葉通りだった。
「ま、その調子なら明日には動けるようになるだろうし、いつまでも宿を取っとくわけにも行かないからね。セシル、明日には出るとしようか」
「なっ、てめ、ふざけんな! 明日出れるわけないだろ!」
キーンと黄色い怒鳴り声が部屋に響く。人前に出ると言うことがセシルには想像できなかった。こんな可愛らしい容姿と、声ではどんな舐めたヤツが出てくるか分からない。だとすればせめて、この体に慣れて舐められない程度には訓練をつまないといけない。
もちろんそれだけじゃない。セシルとダンは旅人と呼ばれるそれだ。最低限、自分の身は自分で守らなければいけないのに、とセシルは自分の体を見る。
目前に映るのはぶかぶかの服、細く力ない腕。上手く動かない小さくふくよかな愛らしい体。
そして何よりも、先ほど、ダンに軽くあしらわれたのを思い出す。
「キミの考えてることは 大体予想がつくよ。大方舐められる、とか思ってるんだろう?」
「う、るせぇぞ……このゴミムシが」
「キミの言うゴミムシもその可愛らしい声で聞くと、また強がっているように聞こえてなかなかに面白いね」
セシルは強く拳を握り締めるものの、あしらわれる情景が頭をよぎる。爪が食い込むのではと思うほど力強く握っても、これは所詮この体のレベルであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
言い返すことも、反撃することも出来ない。ただただ小さな拳を握り締めることしか出来ないのだった。
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