12月24日 PM9:47 @梶原ヒナ子(美人の大学生)

 突如として、死んだように床に転がっていた血まみれの男が起き上がるなり、叫び声を上げた。


 その声に反応して、美夏が高い悲鳴を上げ、つられて翔平が女の子のような声を、祐太が野太いクマのような声を上げる。


「み、みなさん落ち着いて」


 一気に緊張感の張り詰める食堂に、高校生――いや、大学院生探偵も懸命に声を上げてはいるが、あまりに魅力に乏しい声をしているため、皆の耳には雑音として処理されてしまっているようだ。


 そう、魅力だ――阿鼻叫喚の中、ヒナ子は自分でも気づかぬうちに一歩、足を進めていた。


 魅力。


 ヒナ子の胸に、今日の占いの言葉が雷のように走り抜けた。



〈〈〈今日の出会いは天の思し召し〉〉〉



 その短い文の隣で、神秘的なヴェールから目元だけを露出した女性――ミュウミュウの占いを監修する、マダム・フレグランスの言葉である。


 ヒナ子は、自分でも理由のわからないまま、足がもう一歩、進めた。


「警察、誰か、警察!」


「ちょっと待ってください」


「こっちに来ないで!」


「俺が何したって言うんだ!」


 周囲の騒がしい声は、いまはヒナ子の耳に入らない。いや、耳に入らないのは、有象無象の台詞だけだ。


 たった一人、天が引き合わせてくれた人の声はしっかりと聞こえる。


「おい、何だよ、人をゾンビみたいな扱いしやがって……傷の手当てをしてもらわねえと、マジで死んじまうだろ!」


 いままで、声を掛けてくれる男性はたくさんいた。けれど、どうしてもその気にはなれなかった。


 翔平が必死に叫んでいる。


「よく見てみろよ! あんたの体にそんな血が出るほどの傷があるか?」


「あ? 傷?」


 問い返し、男が当惑したように血まみれのシャツを見る。


 そんな声も耳に入らず、ヒナ子はうっとりと足を早めた。


 誰に言い寄られても心を許す気にはなれなかった。それも当たり前だ。なぜなら、ヒナ子はまだ出会っていなかったのだ――。


「ちょ、ちょっと、ヒナ子さん!」


 血まみれの男に向かって歩いて行くヒナ子にいまさら気づき、翔平が裏返った声で叫ぶ。


 大体、私、ああいう気の小さい人ってすごく嫌いなのよね――愛に目覚めたヒナ子は、止める翔平を切り捨て、その人の前に立った。


「まさか……」


 シャツをめくった男が呆然とつぶやく。ほどよく鍛えられたなめらかな腹筋が露わになっている。


「私も信じられないわ」


 ヒナ子も答える。


「でも、本当なの」


「マジなのか……」


「ええ、そうなのよ」


「そっちか……」


 男はなぜか、絶望的だ。


「そっち?」


「つまり、俺は……」


「あっ」


 男の腕がヒナ子をとらえた。そのままぎゅっと力をこめる。


「ヒ、ヒナ子さん!」


 もともと青白い翔平の顔が、いまにも卒倒しそうな色に変わる。


「嬉しいわ……」


 少々強引な男の仕草に、ヒナ子は顔を赤らめた。そうよ、男の人っていうのは、これくらい強引でなくちゃ。


 けれど――皆がヒナ子の顔を見つめるのが恥ずかしい。翔平や美夏たちだけならともかく、あの探偵までもが口をあんぐりと開け、こちらを見つめている。


 ヒナ子は後ろに首をねじり、男の顔を見上げた。


「嬉しいんだけど……何て言うか、向きが逆じゃない? ほら、普通は二人が見つめ合う感じで抱き合うものでしょう?」


「いいか。妙な動きをしたら――」


 男はヒナ子を抱きしめたまま――否、後ろから羽交い締めにしたまま、傍のテーブルに手を伸ばした。


「この女の命はないぞ」


 言葉と共に、ひやり、冷たい感触が首筋に走る。


「あら、これ……」


 チキン用のナイフだ。どうしてこんなことを――尋ねる前に、男がヒナ子を覗き込む。


「黙れ」


 その途端、首に突きつけられたナイフのことは忘れ、きゅん、胸が締め付けられるように苦しくなる。


「はい、言う通りにします」


「良い子だ」


 低い声に、かあっと顔が熱くなる。もしかしたら、耳まで赤くなっているかもしれない。


 どうしよう、恥ずかしいわ――ヒナ子が下を向いた瞬間、もう一度、耳元で男が吠えた。


「おい、全員動くなと言ったはずだ!」


 夫の手を引き、こそこそと食堂から逃げだそうとしていた太った女が、ひくりと肩をふるわせ、足を止めた。

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