12月24日 PM9:25 @紺野隼人(血まみれの男)

「違うんです。この人、ちょっとおかしくなっていて、変なことばっかり……気にしないで下さい」


 くぐもった女性の声が静まりかえった空間に小さく響いた。


「すいません、本当に。……ほら、あなた、ちゃんと座って」


 ギイ、椅子の引かれる音。ややあって、困惑した男性の声。


「いや、気にしないで下さいって言われても……」


「そうよ、祐太とそこの名探偵さんが言うんだから、ここで殺人があったことは確かなのよ。それなのに、俺が殺したって言う人を放っとけるはずがないわよ。怖くって」


 苛々したような女性の声。その発言に、ざわっと空気が揺れる。


「え? 探偵?」


「誰が?」


「……僕ですよ」


 さっきまで得意がってしゃべっていた若い男の声が答える。鈴を転がすような声の女性が、場違いにのんびりと言った。


「探偵って、そんなお仕事、本当にあるんですね」


 少し間があって、


「……いえ、仕事というわけでは、第一、僕は学生ですし」


 これは「探偵」の声。


「あ、じゃあいまはやりの高校生探偵という……」


「そんなものは流行っていませんし、僕は正真正銘、大学院生です」


「嘘だろ」


 そこで、不機嫌な男の声がした。


「てめえ、ヒナ子さんをストーカーするだけじゃ飽き足らず、いけしゃあしゃあと嘘までつきやがって!」


「嘘じゃない! その証拠に……」


 再び、少しの間。不機嫌な男が、ふん、と鼻を鳴らした。


「……名刺なんか、どうとでも作れるだろ。ヒナ子さん、こんなもの信じちゃいけませんよ」


「でも、嘘をついてるような顔をしていないし……」


 おっとり声の女性が言うと、不機嫌な男はますます不機嫌になって探偵に詰め寄った。


「こんな名刺の他に、身分を証明できるものは?」


「え?」


 探偵がおののく。男は八つ当たりのように怒鳴り散らした。


「学生証とか、運転免許証とか、そういう公的なもんはないのかよ!」


「学生証は……寮に置いてあるし、運転免許は取ってないんです」


 くそ真面目に探偵が答える。


「あっ、でも……」


 ぶつぶつとつぶやき、嬉しそうに言った。


「住基カードなら、持ってました。これでどうですか」


「住基カード?」


 男が訝しげに聞き返す。


「何のカードだよ、これ。これも自分で作ったんじゃねえのか」


「住基カードというのは、役所で発行してもらえる、きちんとした身分証明書ですよ。いや、うちの妻も免許を持ってないもんですから、住基カードを持ち歩いていて……」


 この年寄りの声は――苫野とかオーナーだろう。チェックインしたときに、言葉を交わしたはずだ。


「……もしかして、住基カードを知らないんですか?」


 興を削がれたように探偵が言う。


「あなたがた、大学はどちらで?」


「文大ですけど……」


 苛々声の女性が答える。


「だったら何なんですか。そっちこそ、どこの大学院なんですか」


「……一応、東大です」


 再び、部屋がしんと静まりかえる。



 部屋の隅に毛布でぐるぐる巻きにされたまま忘れ去られた紺野こんの隼人はやとは、誰にも気づかれないように、薄く瞼を開いた。


 天井で竹とんぼのようなファンが回っている。コンソメスープのいい香りが、空ききった腹を刺激する。


 ここは食堂か――紺野はじっとりと濡れた体を気づかれないようにほんの少し、動かす。


 声は――きっと他の宿泊者たちの声なのだろう――再び怒ったり、叫んだり、途方に暮れたり、忙しく言い争っている。


 どうして俺はこんなところに寝転んでいるんだろう――紺野は必死で頭を巡らせながらも、目をつむり、体はじっと動かさずにいた。



 実は、彼の記憶はこの山荘に到着した後から、すっぽりと抜け落ちていて、いま自分の身に何が起こっているのか、わからなくなってしまっていたのだ。


 けれど、記憶をなくしながらも、たった一つ、彼の意識に強く訴えかけてくるものがあった。


 それは、殺される・・・・という恐怖だった。とにかく、何か恐ろしいものが迫っている。早く、早く、理由も無い焦燥感が体の奥底からマグマのようにわき起こってくるのだ。


 一体なぜ、どうして自分が殺されなくてはならないのか、それはまったくわからない。


 けれど、その恐怖に紺野は従うほか術はなかった。なぜなら、頼りの記憶はすっかり消えてしまっているからである。


 これもどういうわけなのか、彼の全身はじっとりと濡れていて、寒かった。池にでも落ちたのか、それとも――そうだ、雪、吹雪だ。


 ということは、俺は殺人者に追われ、一度、外へ出た? そして逃げたが、すぐに追ってきた殺人者に捕まってしまった――?


 いや、そう考えるのは尚早だ。このぐるぐると体に巻き付けられた毛布は、多分保温を目的としているのだと思われる。


 ということは、だ。これは捕まったというよりも介抱されているといったほうが正しいんじゃないか? 


 こみ上げてくる寒さに、堪らずかじかんだ指先を動かす。


 そして、濡れた人間を介抱するときは、まずその服を脱がせるかして、乾いた状態で毛布にくるまなければ意味がないのだな、という実感を得る。


「いや、結論を急いでもいいことはない。まずはじっくりと事件の謎を調査して――」


 探偵の声が大きくなった。すると、それに輪をかけるようにヒステリックな若い女の声が響く。


「だけど、この人が殺したって自白は聞くべきでしょう!」


 殺した?


 紺野は驚いて飛び上がりそうになった。


 さっきから探偵だの、殺人だの、そんな単語は耳に入っていたものの、意味ある言葉として聞こえていなかったのである。


「ですから、この人はいまちょっとおかしいんです! どうか、聞かなかったことに……」


 中年女性の懇願する声。


「ちょっとおかしいとか、理由になんないでしょう! 実際人が殺されて、その人が自白してるんですよ!」


 人が殺された、その犯人は自白をしている、そして探偵は――探偵はどうやら出番がないことをただただ不満に思っているらしい。


 ちょっと待てよ。


 そこで紺野ははっとした。


 一刻も早くここから逃げろ、という心の声。濡れて毛布にくるまれた己の体。そして――寒い、という感覚。


 これは失われた記憶なのだろうか、まるでドラマのような映像が、紺野の頭にフラッシュバックした。


 ナイフを手に追いかけてくる犯人、殺される――恐怖から逃げようとする自分、その行く手を吹雪が阻んで――


「俺は…俺は死んでねえぞ!」


 紺野は声を振り絞り、飛び起きた。人々の視線が、一気に紺野に集中する。その瞬間、毛布が床に落ち、彼の着ているシャツが露わになった。


「なっ……」


 そのシャツの胸を見て、紺野は大きな悲鳴を上げた。


「なんじゃこりゃああああああああ!」


 迫り来る犯人――その一撃を受けたに違いないそこは、血で真っ赤に染まっていたのだ。

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