12月24日 PM9:01 @鹿島香(太めの中年女)

 鹿島かしまかおりは、いつものように心ここにあらずといった目をした夫と向かい合わせに食堂の椅子座り、かじかんだ指先を合わせ、同時に運ばれてきた熱いコンソメスープを一口、啜ろうとしたところだった。


「きゃあああああああ」


 凄まじい女の悲鳴が天井を震わせ、その瞬間に食堂の扉がバタンと大きく開かれ、必死の形相をした高校生くらいの男の子が中へ飛び込んできた。


「みなさん、その場に留まって! 何にも手を触れないで下さい!」


 高校生が叫び、それまで談笑していた大学生の四人組が気圧されたように黙り込む。


「……!」


 大きな音に反応して、夫――鹿島かしま栄介えいすけが立ち上がろうとする。


 香はそれを慌てて引き留めようとして――コンソメスープの皿をひっくり返した。皿のひっくり返る音に、栄介の視線は香の方に戻る。


「大丈夫ですから……ほら、座って」


 一瞬、はっきりとした光の宿った栄介の瞳は、香の囁き声に再び光を失い、糸の切れたマリオネットのように椅子に座り込む。


 香はほっとして、何事かと扉をもう一度振り返った。



 扉を開け放ったポーズのまま、威勢良く叫んだ高校生は、どうしたことか目をぱちくりとさせ、佇んでいた。


 視線の先では、大学生の四人組が凍りついたように固まっている。


 二人の女の子のうちで美人のほうが、怯えたように隣の男の肩に身を寄せる。


 すがられた男の子は、一瞬顔を真っ赤にした後、今度はそれを怒りに変えて、椅子を蹴って立ち上がった。


「てっ、てめえ、ナニ、何大声出してんだよ! こっちジロジロ見て…見やがって、いいいいい、一体何だってんだ!」


 いまどきの若者はキレやすいとは言うが、それはこの青白い男子大学生には当てはまらないらしい。


 彼女の前で、勇ましく振る舞いたいという気持ちは痛いほど伝わってくるが、どうやらその試みは失敗に終わりそうだ……と思ったが、その男子大学生よりも、高校生のほうがメンタル的には弱いようだった。


 彼は未だ両手を広げたまま、みるみる赤くなった。


「あっ、えっ。で、でも……」


 高校生は食堂を見渡し、可哀相に傍目から見てもわかるほどにぶるぶると震えた。


「い、いま、悲鳴が……」


「……私たちじゃないわよ」


 美人ではない方の女の子が顔をしかめる。隣のえらく大柄な男が、気の毒そうな目で少年を見た。


「何か……大丈夫?」


「あ、はい、大丈夫です」


 何にも手を触れるな、と叫んだときとは打って変わって大人しく少年が答える。


 そして、何を探しているのか、もう一度食堂を見渡すと、唯一話の通じそうなその大柄な男に小さく聞いた。


「あの、いま悲鳴、聞こえませんでした?」


「聞こえたよ」


 美人をかばって立った青白は、心の支えどころを失ったようにおずおずと着席する。それすら目に入らない様子で、少年は口早に聞いた。


「じゃ、被害者の方は……」


「被害者?」


 大柄が豆鉄砲を喰らったような顔で聞き返す。


 ガタン、声に反応した栄介が、再び立ち上がろうとする。香はそれを必死で留めた。


 何が起こってるのかはわからないが、いま夫に何かをしゃべらせるわけにはいかない。


 幸い、少年たちは奥のテーブルに座る香たちの挙動には無関心に話を続けた。


「被害者って、何の?」


「い、いえ、被害者がいないならいいんです。僕の勘が外れたってだけで……」


 語尾の方は小さく、何と言ったのかよくわからなかったが、大柄は不審そうに眉をしかめた。そして、隣の女と目線を交すと、人指し指で天井を指した。


「何言ってんのかわかんねえけどさ、いまの悲鳴、何か上の方から聞こえたっぽくね? 二階の部屋とか……」


「二階……!」


 少年ははっとした顔をして、顔を上げる。


「いいですか、皆さん。決してここを動かないで下さい」


「ちょっとあなた、さっきから何なの。人に指図して……大体、あなた、高校生でしょ。年上に物を言う態度じゃ――」


 不美人が抗議する。


 少年はまた一瞬赤くなったが、尻ポケットを探りしずしずと名刺のようなものを取り出した。


「僕は、こういう者です」


「はあ?」


 受け取った女が、わけがわからないといった様子で、少年と名刺らしきものを交互に見つめる。


「とにかく、さっきの悲鳴は尋常じゃない。誰かが――この山荘で事件が起きたに違いありません。僕が、この佐野光太郎が事件の謎を解き、犯人を捕まえて――」


 少年の大声に、再び栄介が立ち上がりそうになる。香がそれを必死に押しとどめようとしていたときだった。


 きゃあっ、美人が窓の外を指し、悲鳴を上げた。続いて、窓を振り返った全員がそれぞれに悲鳴を上げる。


「だ、誰か、早く助けてあげなくちゃ……!」


 美人の声に、男たちは我に返ったように窓へ向かって駆けていく。


 香もそちらを見て――あっと声を上げそうになった。


 そこには犬神家よろしく、深い雪に逆さまに突き刺さった人間の足が見えたのだ。


 そして――上半身が埋まっているため、しかとわからないが、どうやら彼のシャツは真っ赤な血のようなものに染まっている。


「どうしました?」


 騒ぎを聞きつけたオーナーも厨房から駆けつけ――血まみれの男を見るなり、慌てて彼らに加勢する。


 大柄が大声を出した。


「いいか、まず体を引き抜くぞ、いいか、いち、にの、さん!」


 どっと男たちが崩れ、窓の向こうからぐったりした男がひきずり込まれる。


「よし、息はしてるな。あの、救急車は?」


「いや、この雪じゃちょっと……」


 山荘のオーナーがあたふたと答える。


「じゃ、とにかく体を温めるものを……」


 開け放たれた窓から、吹雪が容赦なく吹き込んでくる。騒ぎの中、いつの間にか緩んだ香の手を払い、立ち上がった栄介がつぶやいた。


「……俺だ、あいつ殺したのは俺なんだ……」


 騒ぎの中、幸いその言葉を聞いた者はいない。香は無言で、夫をそっと椅子に座らせた。

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