ネコは、怒っている

「雷針の、ばかあーっ!」

 少女が叫ぶや否や、どおん、と近くの電柱が音を立てて割れた。

「ネコはっ、ネコは怒っている……!」

 確かに雷針は言っていた。ネコの黒くてぴんとした耳を撫でて、今度の仕事がうまくいったら、お前の願いをひとつ、かなえてあげようね、と言った。

 だが。

「ネコはあっ、こんなことはあ! 望んで、なーい!」

 黒髪、赤いジャケット、短いクロップドパンツ、足首までの小さなブーツをまとって、少女は肩をふるわせる。

 ボブスタイルのつやつやした黒髪の上には、三角形の、猫の耳。パンツの隙間からは、細長いしっぽがはみ出している。

 ネコは、猫であることが自慢だった。こたつでごろごろしたり、雷針に顎をすりつけたり、ひげを手入れしたり、高いところ(古いブラウン管テレビの上とか)に登るのが好きだった。

 断じて、人に、なりたかったわけではない。

「雷針のお、ばーかーああああ!」

 悲しいかな、叫んでも雷針は出てこない。何でだ。どうしてだ。

「……私、捨てられちゃったのかな」

 ぽつりと呟いたら、胸底に大穴があいたみたいだった。

 商店街の店は、朝早いせいかみんな戸を閉めている。もしかすると、ネコが飛び出してきて喚いているのが、恐ろしいのかもしれない。真っ黒な猫だったときは(それは昨日までのネコの生活だが)お隣のおばあちゃんが頭を撫でてくれて、こっそり煮干しのいい奴をくれたものだ。今では、出てくる気配もないが。

 もしかすると、おばあちゃんは、突然人間になったネコの姿におびえているのではないか。

 ため息をつくと、近くの空がごろごろと鳴る。ネコが機嫌のよいときに鳴らす音と違い、張り裂けそうな、痛い音だ。

「ふえっ」

 泣きそうになった。

 これまで通り、こたつとみかんの置かれた、狭い部屋で、木枠のガラスの戸越しに外を眺めながら、のんびりと暮らしたかった。さっき目が覚めて、猫じゃなくて人間だと気づいたときには、大混乱だった。素っ裸で往来に飛び出して、出くわした出勤途中のおじさんとお姉さんに「ふ、く! 服!」と絶叫され、怒られたと思って室内に飛び戻り、こたつの中にしばらく隠れた。しばらくうとうとしてから、転がっていた雑誌の表紙なんかを見ていて気がついた。人間なら、服を着ないといけないのだ。

 見ようみまねで、適当なタンスから布を引き出した。雑誌に出てくる子どもの格好をまねて適当に着たけれど、袖を通しただけでやっとの有様だ。

 靴紐なんかうまく結べないし。

 お腹も空いて、胸が悲しくてすうすうする。

「ふぎーっ」

 うめくと、小さな雷が落ちる。

 世界はどこも灰色で、自分がひとりぼっちだった。そんな中、誰かの声が耳に飛び込む。

「おおい、ちょっと、こりゃひでえんじゃねえか。お嬢」

「お嬢?」

 呼ばれなれない言葉だ。ネコが顔をあげると、一つ通りの向こうで、男が手を振っている。

 ちょっと小汚い感じのスーツに、無精髭の男だ。ぼやっとした瞼を開け閉めしながら、困ったように笑っている。

「そ。隣町まで聞こえてっぞ、お前さんの雷。誰かは知らんが、あんまり暴れてくれるなよ」

 見たことがある。知っている。ネコは叫んだ。

「風針? ときどき、うちに遊びに来てた、ねずみのおもちゃの人? 風針、雷針がいなくなっちゃったよ! あと、私ネコなんだけど!」

「ネコって雷針が飼ってたネコ? 急に雷獣が現れて暴れてるって聞いたけど、お前さんどこで雷獣になっちまったの。昨日まで普通の猫だったよな? あと俺ねずみのおもちゃの人なのか」

 はいおまちどおさま、と、男の横で店員が声をあげる。店の軒先には、たこ焼き、焼きそば、と暖簾がかかっていた。

「風針、たこ焼き買ってる……わたっ、私の、心配を、して、来てくれたんじゃ、ないの……?」

 ネコの肩の周りに、青白い、小さな稲妻が無数に生まれる。静電気を帯びたみたいに髪の毛がふわふわと逆立つ。

「ちょっと待て、落ち着け!」

 風針が、腹巻き(何でスーツの下、シャツの上に腹巻きをしているんだ)から財布を取り出す。支払いを済ませてレシートも受け取っている。

「ちゃっかり買い食いしてんじゃ、なーい!」

 私を心配して来てくれたんじゃないのか!

 風針からすれば理不尽な怒りだったが、ネコから見れば、正当だった。

 ネコの雷を受けても、風針は足を止めなかった(たこ焼きについては、さっと脇の店舗看板に乗せて落雷を免れた)。スーツや顔をすすけさせながら、風針はネコに近づいてくる。

「いい子だ、腹減ってんだろ? 雷針が戻ってくるまでの間、ちょっと辛抱してうちで待ってろ」

「ひ」

 風針が笑っている。

 テレビで見たことがある、悪い大人みたいだった。

「嘘つき!」

「俺が嘘なんかついたことがあるか?」

「ねずみのおもちゃだって、こないだ壊したじゃない!」

「あれは洗濯したんだぜ。ちょっとぼろぼろになったけど。もう一個新しいの買ってやったじゃねーの」

「やだ! やだ怖いよう! 雷針がいないよう!」

 闇雲に暴れるネコを、風針が軽々と抱き止める。どこかしら雷針と似た気配があって、ネコは、ふうふう文句を言いながらも静かにする。

「で、ネコ。何で人間の格好なんかになったんだ? 猫又になるには早いだろ?」

「そうなんだけど。起きたらこうだったよ」

「さてな。雷針が何か言ってなかったか?」

「特に……あっ」

 確かに雷針は言っていた。ネコのつやつやした耳を撫でて、今度の仕事がうまくいったら、お前の願いをひとつ、かなえてあげようね、と言った。

「あー、それでお前さんは、何て答えた?」

「覚えてない」

「あー」

「あっでもね、こたつの上を見ながら……思ったの。雷針はみかんを食べるけど、ネコにはあんまりいい匂いじゃない。体に悪いからって、雷針もネコには食べさせてくれなかった。けど、ネコも、食べてみたいなぁ、雷針と一緒のもの……って思った……」

「それか? あいつ、こないだの仕事の特別ボーナス分、ここにつっこんだのか……」

「ぼーなす?」

「そ。知ってるよな? 風神と雷神、あっちこっちにいて町を守ってるけど、数人で組んでよその町の祭りを手伝うこともあるだろ。あれ手伝うとき、たまにボーナス貰えんのよ。上の神に。神力の割り増しボーナス」

「ぼーなすがあると、いいお肉が食べられる」

「うんまぁそういう、現金にするとか商店街のくじ引き運上げるとか、人間的な使い方もあるんだけど……」

 ネコから、風針が手を離す。離れた分、ネコの周りに空間が広がって、そこを、ひやっとした空気が吹き抜けた。

 雷針は、まだ戻らない。

「ふえっ」

「うわっ泣くな泣くな。雷針は多分近場の手伝いに出かけてんだよ、だからもうちょっと、こたつで寝てろ? な? たこ焼きやるから」

「ふえぇん」

 ネコは、ほたほたと涙をこぼし落とす。

 ぴりぴりした雷は、エネルギー切れなのか、ほとんど落ちてこなかった。ただ、涙に似た雨が、寂しそうに町の端から降り始める。

 風針が、近隣の家に声を掛けている。「もう、落ち着いたんで。ほんと、すみませんでしたね」「後で飼い主に謝りに来させますんで」心配そうな近隣からの声が、風針に応対している。

 ネコ、どうしたらいいの。

 ネコが泣いていると、風針が戻ってきた。よしよしと頭を撫でてくれるので、黙ってされるままにしていた。隙を突いて、家に押し戻される。

 風針がこたつに、袋を置いた。たこ焼きと、いくつかの総菜が詰められている。

「近所の人が、ネコちゃんに、ってさ。お前、すんごい心配されてんぞ。明日笑って謝りに行けよ」

 まだそんな気持ちになれなくて、ネコは涙でくしゃくしゃの顔を、風針のスーツの背中に押しつける。これでも一応スーツなのに、という風針の絶望に満ちた呟きなど、ネコには知ったことではない。

 初めて食べたたこ焼きは、しょっぱくて変な味がした。

 ご飯を食べたら、風針は行ってしまった。

 時計の音を聞きながら、ネコは頬を膨らませる。

 雷針の、ばか。

 こたつに入って、天板に頬を押しつける。

 一人で入っても、あんまり暖かくない。

 テレビだって、つけても空々しいだけだ。

 初めて食べてみたみかんは、酸っぱくて、ネコにはとても食べられない。でも、泣きながら、一個食べた。悔しかった。せっかく人間になっても、みかんを食べても、雷針は行方しれずだ。怒ったって、誰も、慰めてなんて、くれない。

 雷針の、ばか。

 悲しいけれど、だんだん泣くのに疲れて、涙が出なくなってくる。

 雷針の、ばか。早く帰ってこい。早く、帰ってきて。ねえ。


「ばかだねえ。春雷の仕事があるから、ちょっと留守にするって、言っといたのに」

 すやすやと寝入るネコの、頭を撫でて、雷針は苦笑する。風針の小言その他が携帯端末に大量に入っていてうるさいことこの上ないが、昔ながらの装束姿で、遠方の春雷の手伝いをしてきたのだから、端末を見る暇がなくて連絡を取れなくても仕方ないではないか。

 まさかネコが、置いてきぼりにされたのがショックで、雷獣に化けてしまうなんて知る由もなかった。

 やれやれ。

 こたつで寝ると風邪を引く。雷針はネコを引きずって、寝床に放り込む。放り込んでから、しばらく立ち尽くした。

「猫に戻ってもらわないと、自分が寝るとこないな……」

 ふわ、とあくびをして、雷針はネコの隣にこたつ布団を運んできて、寝転がった。難しい話は明日にして、今日は今日を終えるのだ。

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